落穂拾記(28)

北朝鮮とのかかわりに想う

                   羽原 清雅


 北朝鮮問題は複雑であり、結論のような方向性もなく、また存命中の急転打開もあまり期待できないこともあって、終生書くことはあるまい、と考えていた。
 しかし、やはり書いておきたくなった理由は2点ある。

 ひとつは、ヘイトスピーチのひどさとその広がりが、尋常でないと感じたこと。
つまり、非論理的に「ぶっ殺せ」「出て行け」といった行動がブログやツイッターなどで一定の広がりを見せていること。また、歴史認識に明らかな間違いやゆがみがあり、歴史教育が十分に進められておらず、これは将来の日本の国際社会でのあり方に大きな禍根を残しかねないと感じたこと、などである。ターゲットとする北朝鮮をはじめ、韓国、中国などの相手国内に、もしこのような排他的な動きが出てきたら、どうなのか。一部とはいえ、双方の国民世論にこのような異常な対決ムードをもたらせられれば、決していい国家関係は維持されない。戦前に相手国を誤った侮蔑、蔑視で見る世論が形成された二の舞は許されないし、そのことを知る中高年層は阻止する責任があるだろう。

 もうひとつは、金正恩第一書記が、<その夫人の絡むという銀河水管弦楽団、旺戴山芸術団の団員9人を逮捕、3日後に裁判にもせず銃殺した>との報道に、まさに江戸時代的な処理だと思い、やはり書くか、と思い直した(朝日新聞9月21日外電面)。いくらなんでも、権力者の横暴としか言いようがない。
 じつは、北朝鮮のこれまでの動きには、戦前の日本の、天皇の神格化と崇拝による全権的支配、軍隊や官僚制の上意下達のシステム、民衆の単一思考教育、権力への忠誠に逆らうものの制圧と断罪、大本営的な情報管理、といった息苦しい仕組みと軌を一にする様相があり、植民地化された朝鮮半島にとっては、やむを得ざる形態だったか、それならなにも触れなくてもよかろう、と考えていた。

 ところが北朝鮮の体制が、都合が悪いと殺す、という手口を使い続けるなら、その誤った統治方法は弾劾すべきであるし、国家の個性は認めるとしても「法治国家」でなくていいのか、という基本的な課題にぶつかる。権力者の専断で、多くの人びとの生命を断つ・・・戦争自体もそうであるが、個人ないし一部の権力が恣意的に社会を動かすのは本来、おかしい。そんな次第で、いささか義憤を覚えた次第。

 ただ、これから書くことの前提には、「だから、北朝鮮とは付きあえない」という断交維持の姿勢や、「許しがたいミサイル、拉致問題がある以上、対決や経済封鎖は必要」という<北風>思考ではない。
 あえて言うなら、情報システムの多様化した今、閉鎖社会の存続に手を貸すような施策はやめて、どんどん日本や欧米、国際社会の情報や文化を注入し、交流を重ねて、単一型社会に選択肢を増やして、民衆の意識に変動を誘い、権力者が世襲的態度を変えざるを得なくさせることである。
 武力による「敵対」は世界を平和にしてきただろうか。時間はかかるだろうが、これまでの腕づくのやり方も長い時間がかかっているにもかかわらず、ほとんど変化を誘い出せなかったではないか。

 また、それぞれの国には譲れないことはあるし、習俗や思考など食い違うことも少なくあるまい。しかし、その違いをたがいに知り合うことこそ、会話が成り立ち、折り合いが生まれる。そこに外交の土台も生まれてこよう。

 筆者の育った環境での日本と朝鮮との関係と、筆者がなぜ、上記のような考えを持つに至ったか、を述べてみたい。

1> 筆者は学校疎開を経て、ほとんどを新宿界隈で過ごしてきた。戦後の新宿の繁華街は、戦時中蔑視され差別され貧窮下に置かれ、戦後も第三国人と呼ばれた朝鮮の人々が、空襲や疎開するなどして所有関係が乱れて空き地化した新宿の土地を占拠、それに対抗して尾津組といった日本人の武闘勢力が育ち、そうした衝突と憎しみのなかで、今の歌舞伎町的なカオスの街が生まれ、「新宿鮫」の登場するような特異な地域が登場した。   
 新宿の原型がそこにあるし、その風潮は全国的に定着した。根底には、日本に定住したくはないが祖国にも戻れず、また居つくことになったものの、日本人の歴史的に培われた差別感覚から逃れられず、それが終戦後の対決の機運につながった。

2> 1948年8月、李承晩による大韓民国建国、翌月に朝鮮民主主義人民共和国建国。そして50年6月、米ソの東西冷戦を背景に朝鮮戦争。そのころ、日本に残ることになった韓国人は在日本大韓民国(居留)民団<略称・民団>、北のほうは在日本朝鮮人総連合会<略称・朝鮮総連>をそれぞれ組織していた。
 筆者の住む新宿区牛込の、数百メートルと離れていないところに、双方の本部が置かれていた。民団のあとには現在、東京韓国学校がある。戦争が始まると、双方の数百人がたがいに相手の本部に押しかけ、連日のように投石や乱闘、シュプレヒコールが繰り返されていた。当時、小学5、6年生の筆者は怖いながら、現場を見に出かけた。なぜ同じ国の人がケンカするのか、なんとなく不幸を感じていたが、東西冷戦などの国際情勢などはわかっていなかった。
 のちに総連の許宗萬現議長との雑談で、中学生としてこの争いに参加してい
たと聞いた。国家の不幸は一人ひとりの国民の人生を変え、不幸に誘い込む。
 しかも、在日の人たちは日本に逃げていたかの見方から李承晩大統領などに蔑視され、北朝鮮帰国者たちもその思考の可否を問われて差別を受けるなど、日本にいることも、それぞれの祖国に帰ることも、救いようのない苦しみに悩まされていた、いや 悩まされている、のだ。

3> 1959年暮れに、北朝鮮への帰国船が就航することになった。当時、韓国の政情不安が伝えられる一方で、直接的な情報の乏しい北朝鮮からは楽園のような国家建設が進んでいるといった話が流れた。しかも、朝鮮戦争のあとの日本は不況に陥り、とくに在日の人々の生活は失業、貧困、差別に苦しめられ、それが帰国船に夢を託すことにつながった。
 学生たちのあいだには、1960年の安保闘争へと向かうころで、政治への関心は高く、なにかと行動的だった。
 そのころ、筆者の大学のゼミに、ひとりの総連側の学生がいた。優秀で中国の人民公社について調べており、まだ見たことのない祖国を語る様子は自信に満ちていた。ゼミの仲間たちも、彼の語るロマンを、むしろうらやましいくらいに聞き、朝鮮、中国への関心を強めることにもなった。その彼が、北へ帰るか、日本に残って組織で頑張るか、そんな迷いを聞いたことを思い出す。結局、彼は帰国せず、長く総連関係の教育部門に関わり、健在である。 

4> 1962年4月、新聞社の入社が決まって、振り分けられた初任地は新潟だった。当然、帰国船の取材がある。
 新潟港には、万景峰(マンギョボン)号などが1、2ヵ月に一度ほど入港、第100次船記念のころには北朝鮮側とのトラブルも重なり、帰国者の数もかなり減ってきた。それでも、全体としては収容施設に入る人々の表情は明るく、多くの荷物を抱えて喜びに満ちていた。出発前には、子どもたちの運動会が開かれ、「チョンギュンイギョラ、ホングンイギョラ」(アオ勝て、アカ勝て)などの声が響いて希望に燃える姿があった。   
 船が着くと、平穏な時には船内に入り、記者会見があった。「金日成将軍の歌」などは新聞記者たちも覚えるほど、頻繁に聞かされた。

 ただ毎回、帰国者家族の一行が新潟駅に到着すると、姿を消す人が出た。日本に残りたいのだ、恋人が日本に残るそうだ、帰国に不安があるのに無理に連れて来られたのだ・・・関係者からは、そんな説明を聞いた。
 港の通りはポトナム(柳)通りと呼ばれ、枯れると支援者たちが植え直すなどの友好的な交流も多かった。その後、拉致問題で北朝鮮に攻撃的な立場をとるリーダーに転進した幹部らも出はしたが。
 ついでながら、近年になって、拉致問題が表面化し、北朝鮮帰国者の不遇があれこれ伝えられると、右翼的なメディアから当時の報道について批判を受ける。しかし、開き直るわけではないが、あの時点では、物的にも精神的にも惨めだった日本での生活から逃れ、少しでも自由、豊か、やりがいのある祖国に生きよう、と真剣に思う姿があったことだけは申しておきたい。一部の偏見で作られるメディアはともあれ、結果として帰国後の扱いについて先見の明を誇れるメディアがあっただろうか。

5> 政治記者として、社会党の成田知巳委員長に同行して、ピョンヤンに行くことができた。金日成主席との会談に一時同席、一緒の写真撮影などもあった。ホテルから自由に動くことは止められ、設定済みと思われる普通の家庭に案内され、商品寡少のデパートをのぞき、開城にある陸上競技場で野外ページェントを披露された。板張りのスタンドの下を歩くと、しばらく風呂に入っていないアカっぽい足や脛が見え、また衣類も貧しかった。

 でも、市民の表情は明るく、貧しさに打ちひしがれる様子はなかった。帰国後、戦時下のまったくの焼け野原と、食べるものがない植民地解放直後や朝鮮戦争のダメージの時代よりは生き甲斐があるように思えた、と書いた。「甘い」という批判もあったが、食べるものは最低でも、精神的に差別蔑視を受ける屈辱よりははるかにマシ、との気分を見たつもりである。

 しかし、その後の復興は進まず、貧しさからの餓死者が出たり、政治犯らしき者の不当な処遇を聞いたり、軍備のアンバランスな増強、巨大モニュメントやふさわしからざるホテル等の建設などのニュースを聞くたびに、これでいいのか、と思う日々が続く昨今である。

6> 水戸と福岡在勤中、何人もの総連側の人びとに出会った。くわしくは触れないが、「北離れ」の意識が進んでいることは間違いない。靖国神社に近い本部の建物を失おうとしている総連は、9月の建国記念日に招いてくれて、筆者も迷わずにほぼ毎年出向く。中国、韓国とは曲がりなりにも外交関係がある。しかし、北朝鮮とは国交樹立どころか、どんどん悪い方向へと進む。アジアに存在する国々は、近隣と話し合い、たがいの違いを理解して共存するしかない、と思うので、不仲が続くからこそ関係を切りたくなく出かける。
 この原稿に懲りずに招いてくれるなら、来年も参上するだろう。
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 なぜこだわるのか。
 ひとつは、近隣国としての理解を進めて、国交を持ってほしい。対話のできる関係をつくってほしい。誤解はそう簡単には解けないが、その努力がなければ悪化する一方だ。関係が悪くなれば、ミサイル攻撃の恐怖が憎しみとなり、なにかのミスが戦闘の引き金にもなりかねない。日米関係は大事だが、その成り行きとは別に日本なりの外交努力が必要だろう。政府、そして議員らの信頼ある関係が失われ、両国のパイプがこれまでにないほど細まった現実を感じ取らなければならない。
 日本政府は「いつでも門戸は開いている。いつでも話そう」というが、条件を
つけて、建前ばかり言っていては進まない。

 もう一点は、歴史の認識の問題。
 慰安婦等の補償について、日本側は戦争の賠償問題は外交的に決着済み、韓国
側は日本政府に代わる機関の対応ではダメ、と言い張る。五分の争いのままではなく、外交的に譲り合える話を重ねるしかあるまい。北朝鮮とは、そのような気配もなく、60年以上変わらない。
 朝鮮半島における三浦梧楼らの横暴に始まり、その後の植民地化の歴史、その
なかでの屈辱や民族差別などの傷を、日本側は踏まえる意識が必要だろう。加害者は忘れても、被害者はその痛みが忘れられない。相手の気持ちに立ちつつ、話し合うしかない。これ以上こじらせるべきではなく、もしそうなら日本国内からも外交的無能を責められなければなるまい。相手の気持ちに立ちながら話し合うことで、次の世代のための親しい関係を考えなければなるまい。 

 抽象的には、そのように考えるが、現実はそうはいかないし、動き出す様子も
ない。ミサイルと拉致問題をタテに、双方とも対話を持とうとしない。ともに、悪いのは相手、と幼稚である。
 小さな経験から、話し合いを重ねるしか道はない、と考える。
 一方で、当分は動き出すことはない、との諦めもある。
 その狭間にあって、書く気が生まれなかったが、周辺の近況に接して、書いてしまった。

 (筆者は元朝日新聞政治部長)


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