【コラム】大原雄の『流儀』

創作の真髄は、官能にあり!
~映画批評『ロダン カミーユと永遠のアトリエ』~

大原 雄


 ロダンの彫刻作品と言えば、「考える人」や「接吻」、「カレーの市民」など、誰でも思い浮かべることだろう。ロダンの生涯や人となりは知らなくても、ロダンの作品のいくつかは知っている。フランソワ=オーギュスト・ルネ=ロダン。ロダンは、人類を代表する彫刻家の一人。1840年11月パリ生まれ。遅咲きの芸術家である。40歳になって、初めて国立装飾美術館のモニュメントの制作を依頼された。そのロダンの人生を描いた映画が11月に日本でも公開される。1917年11月、77歳で亡くなったロダンの没後100年を記念して、パリ・ロダン美術館協力の下、ジャック・ドワイヨン監督の手で製作された。2017年フランス映画『ロダン カミーユと永遠のアトリエ』(邦題。原題は『Rodin(ロダン)』)である。

 映画の見どころはいろいろあると思うが、ロダンと共に生きた文学者や芸術家など同時代の人々との交流、ロダンの工房に入り込んで制作過程を実際に間近で見ているように思えるほどの臨場感溢れるカメラワークなど興味深い場面が次々に登場する。

◆ 1)永遠のアトリエ・ロダン工房をタイムマシーンで「見学」

 ロダンは、長い下積み生活を経て、30代後半で世に出た。この映画は、40代から60代後半のロダンを描く。1880年から1907年までの20数年間が再現される。

 映画のファーストシーンは、パリに建設予定の国立装飾美術館のモニュメント制作を依頼されて「地獄門」制作を開始したロダンの工房のシーンから始まる。1880年のパリ。ロダンはアイディアを粘土で具象化する。ロダン本人の手で実作された塑像は、拡大器を使って、注文の大きさの相似形の像にする。実作の像は、工房の職人たちによって、石膏像に仕上げられ、最終的にはブロンズ像として完成する。ロダンは恰も「工事現場」のチームリーダーのように弟子や職人たちを指揮する。永遠のアトリエ。ロダン美術館の監修の下、映画はディテールに拘りながら、工房の作業を再現するので、見応えがある。

 しかし、「地獄門」は、永遠の未完作品である。「この門をくぐる者は一切の希望を捨てよ」というダンテの「神曲」に材をとった「地獄門」は、門にはめ込む人物たちが百数十人と多数に上り(未完ゆえに不定)、その上、ロダンの着想も変遷したため、いつまで経っても完成しない。結局未完成のママ、1888年、美術館建設が頓挫し、ロダンのモニュメントも差し止められてしまった。以後、ロダンは「地獄門」を自費で買い取り、生涯に亘って制作を続けることになる。工房の場面では、実作を基に工房の職人たちに指図をする場面には臨場感があって興味深い。

 「考える人」(1888年)の像は、「地獄門」の脇役となる人物像であった。地獄門の上部中央に置かれ、眼下の地獄門を覗き見て、思案にくれている。当初は、「詩人」と名付けられた。ダンテがモデルとも、ロダン自身がモデルとも言われる。

 「カレーの市民」は、1884年から1888年にかけて、制作された。フランスとイギリスの国境線を争う百年戦争で、イギリス海峡に接するフランス側の港のカレーがイギリス軍に包囲された際、餓死寸前になったカレー市民を救うために、敵地に赴くことを志願した6人の英雄を描いた。ロダンは、画期的な構図の群像で英雄たちの自己犠牲への敬意とそれでも死の恐怖を感じる人間の心理を交錯させて描いたという。ロダンは出来栄えに満足したが、発注した市側は、それが理解できず、不評であった。この時代のロダンは、時代を先行する芸術家だったのだ。19世紀と20世紀をまたぐ生涯は、象徴的である。

 そういうロダンの先見性は、伝統的な「旧時代」からは反発され、「新時代」からは尊敬されたが、新時代は、まだ、少数派であった。それは、映画の中でも、ロダンの同時代の芸術家らとの交流のエピソードからも興味深く描かれる。

 フランスの文筆家ミルボーは、印象派など新しい芸術活動を擁護し、サロン(官展)に落選する若い芸術家たちを支援した。ロダンも、長らくサロン落選組だったので、ミルボーの私邸に招かれた組だ。同年代ながらモネ、セザンヌなどロダンより後発の落選組の人たちをロダンが「人の意見などに拘らずに、創り続けろ」などと励ますシーンがある。同席したセザンヌは、感謝の余りロダンの前に跪く。ロダンはセザンヌを立ち上がらせる。

◆ 2)火宅の人・ロダン。ロダンは、女たらし?

 女たらしで、火宅の人。「火宅」・煩悩に満ちた現世に居ながら地獄の門を開けてしまったロダンは、妻と愛人との三角関係という煉獄に引きずり込まれても、決断ができずに女たちの間に座り込み、考える人になった。映画の中でも、いく度か座り込み、考え込むロダンの姿が描き出される。
 若い頃から生涯付き合うお針子出身の無学な妻・ローズは、しかし、ロダン好みの豊満な肉体の持ち主だった。妻のローズとロダンは50年以上に及ぶ内縁関係という事実婚だが、晩年の1917年になって、やっと、二人は正式に結婚した。72歳の花嫁と76歳の花婿であった。72歳の花嫁は16日後に亡くなった。ロダンも9ヶ月後に後を追った。無名時代の若い頃二人の間にできた息子は認知せず、従って、戸籍にも入れなかった。映画の中でも、他人の前では「ロダン先生」と呼べと息子に言うロダンの姿が描かれる。ロダンは、ほかの女性との間にできた子どもは堕ろさせるなど家庭とか家族というものには冷淡であったようだ。

 彫刻家としても才能豊かな弟子のカミーユ・クローデルは、23歳年下の美しい女弟子だった。ロダンとカミーユが出会ったとき、ロダンは42歳、カミーユは19歳。弟子入りし師匠として尊敬したロダンをカミーユは、やがて、有能な男として愛するようになった。ロダンを軸にした三角関係は、15年続く。ロダンは、ローズには子どもを産ませたが、カミーユを含め、ローズ以外の女性に子どもを産ませなかった。

 映画でも、ロダンとカミーユとの愛欲シーンやローズを交えての三角関係が赤裸々に描かれる。カミーユもロダンに負けないような有能な彫刻家だったようだが、ロダンに「芸術家としてのきみは脅威だ。もう私を必要としない」と言われた上、世間はロダンのエピゴーネンのような評価しか受けないことにも苛立ちを募らせて行く。ロダンという太陽に照らされ、カミーユという月は、存在感が希薄化し、精神的にルナティック(狂気)な世界への坂道へ近づいて行く。その挙句、カミーユは自らの意思でロダンの元を去って行く。その後は、映画では描かれないが、カミーユは精神的にも変調をきたしてしまい、48歳以降の四半世紀に亘る後半生を精神病院で過ごすことになる。73歳で没する。

◆ 3)ロダンの真髄は官能性

 映画では、ロダンの性欲の強さも重要な要素として描かれる。若い愛人・カミーユに限らず、若いモデルたちとの性的関係も描き出され、ロダンの官能性も映画の大きなテーマとしてクローズアップされてくるように思われる。カミーユとの愛欲シーンでは、なぜか、ロダンはキスに拘っていた。口唇性欲は、幼児期の多様な性欲の一つ。 口唇期、肛門期、男根期に分かれる。成人になると性器性欲になる。ロダンのキス好みは、母性愛の欠如を埋めようとする意識なのか。映画では、カミーユ相手ばかりでなく、モデルたちとの性交渉でも接吻場面が執拗に描かれているようだ。

 映画ではロダンが、若く美しい全裸のモデル二人の絡み合う姿を素描する場面が官能的だ。モデルたちは抱き合ったり、それぞれ独自のポーズを取ったり、まさに映画ならではの、エロティックな場面を次々と繰り出す。モデルたちの動きの原型は、多分、『ロダン デッサン・エロティク』(日本版。リブロポート刊)ではないか。ロダンの肉体表現のデッサン帳。女たちの素裸の素描集。淫らな放蕩。動きの中にポーズの真髄を見極めたというロダンの美意識そのものがスクリーンに捕捉されているようだ。ドワイヨン監督は、ロダンの美をこの場面で象徴しようとしたのだろう。女たちのさまざまな姿形は、バルザックの屹立した男根に収斂される。女たちから男へ。エロティスムの奔流が突き刺さる。

◆ 4)バルザックは私だ

 三角関係では優柔不断なロダンだが、創作に関しては妥協しないロダンであった。フランスの文豪でエネルギッシュなバルザック(1799-1850)は、創作に夢中になると、深夜、裸で室内を動き廻る。バルザック没後、1891年、ロダンはエミール・ゾラの口利きでフランスの文芸家協会からバルザック像を発注された。ロダンは、バルザックの真髄を具象化しようと、いくつものバルザック像を作った。バルザック像の習作の数々は、興味深いものがある。例えば、最初に作った裸体像では、ビア樽のような太鼓腹を突き出し、男根を露出したまま、歩き回る像であった。文豪の真髄を描出したとロダンは自信満々であった。しかし、文芸家協会は偉大な作家を侮辱したと怒り、作品の受け取りを拒絶した。偉大な作家の性器など記念像で露出する必要はない、という。

 首のない両手で怒張した男根を握り締めた全裸像は、映画では、バルザックと判らなければ良いのだろうと、完成した塑像から首を切り落とす場面として描かれる。裸体がダメなら、ガウンを着せよう。フード付ガウン像、ナイトガウン像が作られた。7年に及ぶ制作活動の末、1898年、最終的なバルザック像になったのは、ナイトガウンを着たバルザックであった。しかし、ロダンは、彫刻家としての本心は妥協していない。バルザックの真髄は、最終的なバルザック像でも貫徹されている。当初の創作意図は、変化せず、一つの方向に収斂されただけだ。

 つまり、バルザックの裸体をすっぽり覆いつくすことで、バルザックの全身が男根像そのものになったのである。背中の表情にその人間の本質が現れている、とロダンは思ったのだろう。バルザックの文学は官能性だ。そしてそれは男根によって象徴される。そう言えば、ロダンの彫刻作品は背中から腰・尻にかけての曲線が美しい。バルザック像は、顔以外はガウンに覆われている。手も足も隠されている。背中も尻も見せていない。ダルマさんのようだ。バルザック像を見る場合は後ろ姿を見落としてはならない。ナイトガウンで包み込んだ後ろ姿をみると、全身が勃起した男根で、ガウンの上に見える頭は、男根の包茎部分から露呈した亀頭のように見えるのではないか。このブロンズ像では、バルザックの全身像はさらに5度の角度で勃起した男根像になっている。

 ロダンとバルザック。この二人は、性欲の強さが創作欲の旺盛さを支えたのではないか。バルザック像の男根への拘りは、創作欲の源泉である性欲への拘りであり、また、創作表現の自由への拘りがロダンには強くあったのではないか。背後から見たら、文豪の全身像は男根そのものというロダンのたくましいユーモアには、脱帽!! そういう意味では、バルザックは私だとロダンは思っていたのかもしれない。

◆ 5)高村光太郎とロダン

 高村光太郎は20歳代の頃、欧米に遊学している。アメリカからヨーロッパに廻った光太郎は、1908年6月にパリに入った。パリではロダンの工房を訪ね、教えを乞うた。ロダンは68歳。光太郎は、25歳であった。光太郎は1909年3月に帰国した。その後、光太郎はブロンズ像の数々を作り、「ロダンの言葉」という本も出版している。

 映画では、高村光太郎は出てこない。日本人の女優が、花子役で出演している。ロダンはヨーロッパ巡業中の日本人の女芸人の座長・花子をモデルにして58点の彫刻と30点以上の素描という作品群を残している。1906年、マルセイユの博覧会で出演中の花子を見初めた。翌年から花子をモデルに作品を作ったのである。森鴎外が「花子」という短編小説を書いている。映画では、ロダンと花子の交流を描いているが、光太郎は出てこない。このシーンの映画の時代設定は、1907年だろう。後に、伝統的な仏師・高村光雲の子ではなく、彫刻家・ロダンの子である、と言われた高村光太郎がパリに赴くのは、翌年の1908年6月であった。映画でいうなら、光太郎登場の前に、既にエンドタイトルが流されてしまった。

 性欲の強さでは、高村光太郎を思い出す。実は、高村光太郎も性欲が強かった。光太郎の性の求めは執拗で智恵子を悩ませた。智恵子を精神病に追い詰めた原因の一つに光太郎の強い性欲がある、という説がある。光太郎の智恵子への純愛には、そういう背景があるかもしれない。ロダンも若い愛人のカミーユを追い詰めてしまった。光太郎とロダン。官能性が、二人の芸術の源泉には、あるのだろう。

◆ 6)箱根・彫刻の森のバルザック像の下

 変遷した習作の果て、バルザックの男根像は原型に収斂され完徹された。高さ1メートルの実作サイズのものもあるが、原型とされるのは高さが3メートルの拡大像。この拡大バルザック像は、いくつかあるが、日本では箱根の彫刻の森美術館だけで見ることが出来る、という。箱根の彫刻の森美術館のシーンが、映画では極めて象徴的に描かれることになる。映画では、子どもたちの鬼ごっこ遊びと拡大バルザック像をセットにして表現したところが秀逸だろう。

◆ 7)子どもたちの鬼ごっこと「だるまさん」

 映画では、箱根の彫刻の森美術館のシーンが登場する。日本人の子どもたちが遊んでいる。日本語の「だるまさんがころんだ」が聞こえてくる。立木の代わりに巨大なバルザック像に寄りかかり目を伏せる「鬼ごっこ」の子どもの鬼。目を伏せたまま鬼役の一人の子どもが「だるまさんがころんだ」と掛け声を唱える。「初めの一歩」が遊びの開始の合図。鬼が「だるまさんがころんだ」と掛け声を唱えている間に、鬼以外の複数の子どもたちが鬼役の子どもの背にタッチしようと接近する遊びだ。接近しながら、鬼に移動中の動作を見つからなければセーフ、静止のポーズで動作を止めてもセーフ。見つかってしまえばアウトで、鬼に捕まったことになる。捕まった者は「捕虜」にされてしまう。捕虜たちは鬼の背から数珠繋ぎに列を作らなければならない。捕虜になっていない仲間が鬼の背中にタッチをすると捕虜たちは解放されたということで逃げることができるが、鬼に捕まると、次は自分が鬼にならなければならない、というのがざっくりしたこの遊びのルール(詳細は違う)だ。いつ頃から始まったものか。そういう鬼ごっこ遊びである。

 このシーンには、寓意が隠されているように見受けられた。一つは、頭以外をナイトガウンで包み込んだバルザックの裸像。手も足も出ていない。まるで、ダルマさんそのものではないか。それを揶揄するように子どもたちに「だるまさんがころんだ」と唱えさせて、ジャック・ドワイヨン監督は、日本の子どものたちの遊びの光景を撮影している。それでいて、ブロンズ像の後ろに廻ったカメラワークでは、バルザックの頭の部分が、男根の亀頭に見えるようになる文豪の全身像の後ろ姿を確信的に撮している。

贅言 ; ドワイヨン監督は、意識しているかどうか判らないが、「だるまさんがころんだ」という鬼ごっこの遊びの「10文字」には、日本国内でいろいろバリエーションがある。

 ある資料によると、10文字は、次のようなものがあるという。
 「坊さん(ぼうさん、ぼんさん)が屁をこいた」。「インディアンのふんどし」。「兵隊さんが通る」。「くるまん(の)とんてんかん」。「乃木さんは偉い人」。「インド人の黒ん坊」。「寿がきやのやきうどん」。「キャベツの運動会」などなど。
 いろいろ問題性がある。いつ頃からある遊びか。インディアン、黒ん坊などの差別語、兵隊、乃木さんなど明治期以降の大日本帝国の軍国主義を連想させる用語が目に付く。捕虜とか捕虜の解放とか、この鬼ごっこのルールは、本質的に戦争ゴッコの遊びではないのか。「レッドライト・グリーンライト」など、外国にも似たような遊びがあるが、唱える掛け声などに戦争色はなさそうだ。2007年製作のスペイン・メキシコ映画で、アカデミー外国語映画賞を受賞した『永遠のこどもたち』では、冒頭のシーンに、これに似た遊びが出てくる、という。

◆ 8)~スクリーンの外で~老いのエロティスム

 ロダンは老いを描かなかったのか。
 ロダンの「接吻」など、若い男女の交情の場面を静止させた有名な彫像は、女の豊満な肉体や男の筋肉質の引き締まった肉体が描写されている。バルザック像も文豪の精気溢れる、絶頂期の全身像だ。この映画『ロダン カミーユと永遠のアトリエ』の設定では、1907年が最後の場面。10年後の1917年11月にはロダンも没する。誰であれ、人間の真髄の姿を描こうとしたロダンが、「老い」に無関心だったはずがない。ロダンは、老いをどう描いたか。

 例えば、「若さと老い」(「Youth and Old Age, 1898(cast before1915)」)という作品がある。添付には「若さと老い、制作1898年〈鋳造1915年以前〉」と書かれている。ので、制作年は、あのバルザック像が完成した年と同じではないか。ロダンの中で、性欲と老いが共存していた。よく見ると、老婆が自分の膝の上に男の子を乗せている像なのだと判る。男の子はお婆ちゃんにキスをしようとしている。お婆ちゃんは男の子に自分の体重がかからないように、左右の両手で、自分を支えている。お婆ちゃんのモデルは誰か。ロダンの妻・ローズだとしたら、男の子は誰だろう。ロダン夫妻には、息子がいるが、ロダンが認知しなかったため、戸籍にも入っていない。その息子の子どもだろうか。

 ほかの作品を探してみた。
 「美しかりしオーミエール」(1885-87年作)という彫像も、一人の女性の老いが描かれている。しなびて垂れた乳房、浮き上がった肋骨、痩せた手足。「若さと老い」では、男の子との関係で、見えにくかった身体の部分が、こちらの彫像ではよく見える。老醜か? 老いのエロティスムか?

 「美しかりしオーミエール」は、かつて美しかった女性も老いる、という裸像だ。この全裸像は、彫刻家ジュール・デポワ(1851-1935)の「悲しみ」という作品をロダンが見て感動し、そのモデルになったイタリア人のカイラという老婆を紹介してもらった、という。ロダンもカイラをモデルにこの像を作った、というわけだ。先の「若さと老い」には、別称で、「ヘルメットメーカーの妻」、「若さの勝利」、「病気と回復」、「おばあさんのキス」などという通称があるというから、「若さと老い」の老婆は、「美しかりしオーミエール」、つまり、若い頃は美しかった「ヘルメットメーカーの妻」ということで、二つの彫像は同じモデルを使っているということになる。ロダンは、この映画で取り上げているロダン40歳の頃から、老いも表現の対象としていたということだろうが、ドワイヨン監督は、今回の映画では、カミーユに重きを置いて描いているわけだから、老いをスクリーンの外に置いた、ということなのだろう、と思う。

 この映画は、11月11日(土)から、東京の新宿ピカデリー、Bunkamura ル・シネマなど全国ロードショーとして公開される。

 (ジャーナリスト(元NHK社会部記者)。日本ペンクラブ理事。オルタ編集委員)

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