【沖縄の地鳴り】

伊江島米軍基地と沖縄のガンジー阿波根昌鴻(あはごんしょうこう)
の非暴力闘争 

(Okinawa>janua>2007 基地の島「伊江島戦後編」より)

 米軍に収容された2100名の島民は、他の島に移された後も、本島の今帰仁、本部、石川等を転々とした。そして2年後ようやく島に帰ってきた時には、島の63%が米軍の軍用地となっていた。島民はそれを見て呆然となった。米軍にとってもこの島は、有益な軍用地に他ならなかったのである。
 島民を追い出していた二年間の間にも、戦争の終結を知らず島のあちこちに隠れ住んでいた人も多い。
 伊江村の西側に、「ニーバンガズィマール」と名付けられた大きなガジュマルの木が現在も立っている。信じられないことに、この木の上で二人の日本兵が丸二年間暮らしていたというのだ。昼間は木の上で過ごし、夜になると木から下りて食べ物を集めていたという。

 更に米軍は、伊江島での軍用地拡大を目指した。本格化したのは1953年である。家を焼き払い、ブルドーザーで整地し抵抗するものは投獄するという「強制土地接収」が開始された。「銃剣とブルドーザー」と、呼ばれるものである。
 1954年6月、初めての立ち退き命令が4戸にだされ、米軍が軍用地を接収しようとしていることが明らかになった。合計152戸の農民が琉球政府・立法院にも陳情を繰り返し訴えた。
 1955年3月11日から米軍は300人の武装兵を上陸させ、民家13軒の強制立ち退きを実行した。家に火を放ちブルドーザーで引きならし、それを制止しようとした老人に暴行を加えて拘束した。「この島はアメリカ軍が血を流して、日本軍よりぶんどった島である。君達はイエスでもノーでも立ち退かなければならない。君達には何の権利もない」と米側は言い放った。
 米軍が駐屯してからは飛来した銃弾や爆弾による被害が続出し、土地の補償もうやむやにされはじめた。農民は生活に困窮し演習地内に入って耕作を続け、逮捕者が多数ではじめる。当時の芋かす、ソテツ、お粥等の粗末な食糧では、100人のうち92人が栄養失調となり、ついに餓死者が出た。長嶺キヨさん34歳が、最初の餓死者である。米軍は住人152戸の立ち退きを計画したが、住民の反対闘争によって、この時期いったんは13戸に食い止めることができた。しかしアメリカはこの13戸をブルドーザーで壊して、住民たちをアメリカ軍の古い天幕に押し込んでしまう。

 同年7月、こうして家を奪われた真謝区の住民たちが、有名な「乞食行進(ムンクーチャ)」を始めた。那覇市の琉球政府前から出発し、米軍の行為を沖縄(うちな)ぐちを使い、訴えた。「安保条約によって、われわれの土地は取られた。家も仕事も、食べるものもない。どうすればいいか、教えてください」と、那覇から糸満、国頭と1年あまり訴えの行進を続けた。
 これは、報道規制のために米軍の横暴をまったく知らされていなかった沖縄の人々に大きな衝撃を与え、「第一次島ぐるみ闘争」へと発展していく。
 翌年1956年7月、米軍は更にガソリン使用した家屋の焼き払いを再開した。沖縄では「全沖縄土地を守る協議会」が結成され、続いて15万の民衆が結集し、アメリカ統治そのものに対し抗議の声が上がり始めた。そして「取った土地を返せ、焼いた家を造りなおしてくれ」と訴えた。これらの運動は、米軍に一括払いを撤回させ、土地評価額を上げさせることとなった。しかし1958年、立法院が地代の一括払いを認める法律を成立させ、地主の中にも契約をする人が出てきた。

 また1959年には不発弾を回収していた2人が爆死する。石川清鑑28歳と比嘉良得38歳である。また1961年にも平安山良福20歳が米兵に射殺される事件が起こっている。また演習弾の直撃で1人が即死し、これらを機会に「伊江島土地を守る会」が結成された。これら一連の運動のリーダーとなったのが、有名な阿波根昌鴻(あはごんしょうこう・1901生2002歿)である。

 1967年末「伊江島土地を守る会」は「団結道場」の建設を計画し、1970年9月完成させている。そしてこの団結道場を拠点として、「島ぐるみ闘争」は本格化していく。現在の団結道場は、その役割をほぼ終えたかのように、米軍演習場をにらむ位置に建っていた。吹きすさぶ北風が、私の頬を突き抜けていく。
 そして1970年、米軍は事実上農民が生活し耕作していた土地を解放した。また安保条約を危惧した沖縄の軍用地主3000人が、1971年「権利と財産を守る軍用地主会」(「反戦地主会」)を結成する。
 こうしてこの闘争も1972年5月、沖縄の日本復帰を境に、新たな局面を迎えていく。1973年:枯れ葉剤散布、1974年:狙撃事件(山城安次君20歳)、1981年:反戦地主が強制使用認定取消訴訟提訴、1982年:一坪反戦地主運動が発足。

◆沖縄のガンジー阿波根昌鴻の非暴力闘争と人間愛の対米軍心得
 そして、1984年、身障者の作業と交流の場としての「わびあいの里」が作られ、その中に反戦平和資料館として「ヌチドゥタカラの家」が完成する。

(写真 「ヌチドゥタカラの家」と阿波根昌鴻さん)
画像の説明

 館内には現在も薬莢や核模擬爆弾、有刺鉄線にゴエモン風呂など、闘争当時の品々が展示されている。現在は伊江島土地闘争の歴史を語り継ぐシンボルとなっているが、私が最も阿波根昌鴻さんの活動に感銘を受けたのは、闘争の過程で自ら定めた米軍を相手に交渉するときの心得である。

(1)手になにも持たないで、座って話すこと。
(2)悪口、ウソを言わないこと。
(3)この不幸な問題が起きたのは、日本が仕掛けた戦争の結果であり、我々にもその責任があることを忘れず・・・・という内容である。

 この非暴力無抵抗主義と、人間愛に溢れた姿勢こそ、彼が「沖縄のガンジー」と呼ばれてきた源であろう。阿波根昌鴻さんが2002年に亡くなったあと、現在「ヌチドゥタカラの家」を切り盛りしているのは、謝花悦子さんである。多くのお話をいただいたが、一つ一つの言葉に強い信念と意志を感じた。

 1989年6月、国頭村で実力阻止された「ハリアー・パット」が、住民の反対を押し切り伊江村が受け入れを表明して建設された。村には58億円の見返り予算がついた。こうして米軍用地は訓練・射爆場から海兵隊基地に移行した。2002年の伊江村の歳入68億円のうち基地関連歳入は、実に25億円で37パーセントを占める。そして現在も、島の35%を米軍基地が占めるのである。
 伊江島の闘いは非暴力・非妥協で粘り強く進められた。戦後民主主義の運動史において、もっとも特徴ある闘争の一つとして検証されるべきであろう。

<主な参考文献>
 阿波根 昌鴻『米軍と農民』(1973岩波新書)
 阿波根 昌鴻『命こそ宝』(1992岩波新書)
 真鍋 和子 『シマが基地になった日』(金の星社)


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