【コラム】神社の源流を訪ねる(93)

伊勢の神々③瀬織津比咩、大日孁貴、天照大神

栗原 猛

 天照大神は、瀬織津比咩(せおりつひめ)、大日孁貴(おおひるめむち)、天照大神などの名前を持ち、名が変わるたびに重要度が加わった。                
 伊勢神宮の内宮の最高神、天照大神は荒木田氏が、代々禰宜を務めていた神だった。天照以前の太陽霊はアマテルと呼ばれ男の神とされる。アマテルは全国各地に存在した土地の勢力や人々の守護神とみられた。

 まず瀬織津比咩は記紀には登場しないが、神道の儀式、大祓詞(おおはらえのことば)にはシャーマンとしての役割を果たしたようだ。瀬織津比咩については中島利一郎氏の「日本地名学研究」によると、「新羅語からでも、今の朝鮮語からでも「都(ソウル)つ媛」「京(セオル)つ媛」の義であって、日本語「添(ソホリ)も「都」の意味として知られているとして、天照大神と新羅の首都との関係に着目する専門家もいる。         
 伊勢にはこの瀬織津媛を祭る神社がいくつかあることも注目点だ。片山神社をはじめ蚊野神社、御船神社、竹神社などいずれも古社として知られ、瀬織津姫が祭神である。                     

 中世に入ると、伊勢神宮の外宮の神職、度会家行氏は「伊勢神道(度会神道)では、豊受大神は天之御中主神・国常立神と同神で、この世に最初に現れた始源神であり、外宮は内宮よりも立場が上である」と説いた。この論争は内宮との間で長く熱っぽく続けられる。         
 次の大日孁貴は、神の近くにつかえる最も地位の高い巫女は、孁「むち」とされる。「ひるめむち(日孁貴)」は「日の女神」を表し、「貴」は「巫女の最高位の称号だ。また「孁」は「巫」と同義だから、太陽神に仕える巫女が、次第に位を高めて最高位に駆け上がったことになる。

 伊勢神宮は内宮の皇大神宮と、外宮の豊受大神宮で構成されているが、外宮の豊受大神は、京都府丹波の「元伊勢籠(この)神社」から外宮に移っている。このために、籠神社は「元伊勢」と称している。一見紛らわしいが、この呼称について、伊勢神宮側も理解しているといわれる。              
 金達寿氏は、「信仰にも手順が大事だとして、まず穀物に対する穀物神があり、次に司祭に対する信仰が生まれるのが順番だと考えると、内宮より先に外宮の豊受大神があったと思われる」と説く。
 度会氏も内宮の荒木田氏とともに、往古からこの地方の豪族で、創立の時から禰宜を務め、その前は共に新羅から来たとされる。 

 神話学者の松前健氏は「アマテラスの古い原型は伊勢の漁民の磯部氏らが奉じる男性太陽神で、そこに大和王権が着目して皇祖神と同一視して祭るようになった」とみる。           
 斎王は伊勢には行っておらず、大和で日祀を行っていた。最初に伊勢の大神に仕えたのは天武天皇の大来皇女とされる。

 直木孝二郎氏は「壬申の乱で天武天皇の勝利が、大神の冥助による天照を皇室の氏神とし、皇祖神化する契機となった」とみる。私も壬申の乱が大きな画期になったとみる。戦で掌握した政権は基盤がしっかりするので、権力的になりがちだと言われるが、アマテラス以前の皇祖神としては「古事記」「日本書紀」の天孫降臨の物語や、「古事記」の神武天皇東征の物語に天照大神と並んで主座を占めているタカミムスビ神だった感じがする。
 天照大神は太陽神としての一面を持ち、また神御衣を織らせ、神田の稲を作ったり、大嘗祭を行う神であるから、太陽神であるとともに、祭祀を行う古代の巫女の一面も持っている。               
 「大隅小八幡」縁起の「オホヒルメ」が、日の光に感じて御子を産むという伝承もあり、「ヒルメ」という名前が太陽神の妻という意味だったという指摘もある。壬申の乱は兄弟の不幸な争いだったが、勝利した天武朝の基盤はこれまでになく強固になり、また東国経営にも強い関心を持ったことで、アマテラスの立場も飛躍的に高まったのではないか。

以上

(2026.8.20)
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