■随想 

五浦の海                  高沢 英子

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  高沢 英子
 海は静かに凪ぎ、五浦海岸には暮色がたちこめていた。
 一夜明けて、五浦は雨だった。雨脚は細かく、沖のほうは煙っていた。
朝のうちは干潮で、宿のすぐ下まで、砂浜がひろがっていたが、やがて、
じわじわと波が打ち寄せ、昼頃には、浜辺の岩に砕ける波の音が、雨の音
を打ち消してしまった。
 以前から、一度、五浦は訪れたいと思っていた。現在は茨城県北茨城市
磯原町という地名だが、かつては多賀郡北中郷村磯原といい、茨城県の最
北端、福島県に隣接した漁村地帯である。海岸線は、複雑に入り組んで、
変化に富み、大小の奇岩が、波の間に突出している。
 岡倉天心が、この地を愛して、別荘を建てたのは、明治三十一年夏のこ
とであった。余談になるが、ここ磯原は、また野口雨情の故郷でもある。
野口家は、廻船問屋を営む土地の名家で、天心がこの地に来た翌年の明治
三十二年に、雨情の父量平は、村長に推されて就任している。雨情は東京
遊学中であった。

 雨は一向に止む気配もない。宿を出ると、その辺を廻ってみることにし
た。茨城県は、天心を記念して、天心記念五浦美術館という、立派な美術
館を建てている。
 天心が、日本美術院を創立したのは、千八百九十八年、明治三十一年の
ことであった。しかし、西洋美術の芸術観や手法をとりいれ、新しい日本
画の世界の創造を、目指したものの、実験的技法の一つ、朦朧体の試みは、
画壇に容れられず、創立当初の意気込みは次第に衰退していく。日本画の
伝統的手法の壁は厚かった。やがて、創立まもない美術院は、早くも衰退
の兆しを見せ始めた。天心は、事態を新たに変革すべく、若い優秀な画家
たちと諮り、ここ五浦に美術院を移転する。明治三十九年のことである。
彼はこの地をバルビゾンと呼び、芸術の近代化活動の拠点として、画家た
ちの制作を指導した。

 今年はそれから丁度百年になる、というので、いま、美術館では、その
当時の画家たち、横山大観,菱田春草、下村観山、木村武山ほか、河合玉
堂、安田ゆき彦などの作品を展示している。題して「天心と日本美術院の
俊英たち」、各地から集められた六十九点の作品が、展示されていた。小
高い丘の上の会場は、すっきりした建物で、広々しており、海が一望でき
る。

 天心という偉才の、意表をつく言動、およびその複雑な生涯を辿って、
意味づけするのは容易なことではない。「たやすく郷党に容れられ、広く
同胞に理解されるには、兄の性行にけん介味があまりに多かった。」と弟
の岡倉由三郎氏をして嘆かしめた生来の気象。
 しかし、わずか五十余年の生涯で、彼の果たした仕事は膨大なもので,
そのバイタリティには驚かされる。
 晩年はアメリカ、ボストンと日本を往来して、精力的に活動したが、世
界のなかのアジアと日本は、彼の頭を、離れることのない、命題であった。
しかし「アジアは一つなり」という彼の理想は、其の本質的意味を、まっ
たく理解しない、軍国主義政治家たちによって、故意にゆがめて解釈され、
今世紀の戦争で、大東亜共栄圏という美名の下に、繰り広げられた、無謀
な侵略政策に悪用されたのは、残念というほかない。拙劣で短絡的な外交
方針で、国民に塗炭の苦しみを味わわせる愚は、もういいかげんにやめて
ほしい。
 言葉を勝手に切り取って、スローガンにし、その人の名を使って喧伝
し、人心を操るのは、もっとも許しがたい罪である。
 わたしは、かつて、クラーク博士が、北海道農学校を去るにあたり、愛
する師弟に残したとされる、餞別の辞「Boys be ambitio
us to Jesus Christ!」という叫びを、日本では、勝
手に「Jesus Christ」を切り捨ててしまい、少年たちを、ひ
たすら、魂のない成功主義者たるべく、駆り立てようとした、と、以前、
北海道に、長く滞在していた、ひとりの外国人宣教師から、聴かされたの
を、はしなくも思い出した。

 海辺の広い敷地に、天心が建てた邸宅や、六角堂というあずまや、さら
に記念館などがあり、一般に公開している。長屋門を入り、辺りを見回し
た。五浦に来て見て、岡倉天心がこの地を愛し、別荘をつくったのが、う
なずけるような気がした。けだし彼の人生そのものが、複雑で、あるとき
は、自ら好んで、岸壁に当たって砕け散るような情熱に身をゆだね、また
あるときは、波乱の中に、身を没入させるような、激しい一生であった、
と思えるからである
 
 わたしが多年愛読してきた茶の本は、千九百六年ニューヨークで刊行さ
れた。その三年前に、彼はロンドンの出版社から「東洋の理想」、同じ年
に、ニューヨークで、「日本の目覚め」(いずれも英文)を本にしている。
 いつになったら、西洋が東洋を了解するであろう、という彼の嘆きは、
おそらくいまも解消されていない。明治という難しい時代にあって、己を
偽ることなく、信じる道を歩き通しえた一人の大教養人の、蹉跌多く、し
かも遺すところ巨大な足跡、そんなことを、漠然と考えて佇んでいた。

 小糠のような雨が、庭を濡らしている。海辺にある建物の方に、下りて
ゆく道は、かなり急峻である。だが、早くも崖を下り始めた二歳の孫に、
手を引っ張られるようにして、夜来の雨で、ぬかるんでいる細い崖の石段
を、踏みしめるようにして下りていった。海に近い台地に、彼の家と六角
堂とよばれている、あずまやが建っている。
 
 六角堂は、家からさらに険しい崖道を、海のほうへおりていった尖端に
たっている。瓦屋根の下に軒庇を張り出し、全体が正六角形で、ガラス窓
から、内部の様子が、よく見える。小さな堂宇で、人一人がゆったり安座
すれば、いっぱいとなるほどの、大きさである。六角形に、しっかり組み
合わされた、頑丈な甍の天辺に、如意宝珠の飾りが据えられている。朱塗
りの柱は色鮮やかで、全体に、小さいながら、がっちりしている。一説に
は、中国の杜甫の草堂を模したともいわれ、どこか中国風を思わせる造り
で、あるときは道教に傾倒し、またときに仏教に沈潜し、揺れる心を海に
托し、天心はここに独り籠もり、瞑想したり、思索にふけった、のであろ
う。

 潮が満ちてきて、目の前の、岩を積んだ石垣に、波が砕け散っている。
天心が自ら名づけた堂の名は「観瀾亭」とか。時に嵐が来て、大波を巻き
上げ、岩を噛むさまも見ることもあったのであろうか。
 外から見える室内は、何もない虚の空間、といいたいところだが、その
日は、部屋の中央に異形の巨大なものが座っていた。一見してブリキ製の、
ロボットのようだが、明らかに人間のかたちでないものが座っている。四
足の獣のようでもあるが、中身はなく、空洞の筒で関節の部分がいちいち
組み合わされて鎧のようでもある。正面から見ると、犬に似て長く垂れた
耳がある。顔の部分は黒い面だ。

 「あれなんだろうね。あんなものないほうがいいのに」と見学に来たらし
い二人ずれの女性が覗き込みながら、囁きあっている。わたしもよく目を
凝らしてみたものの、どう見ても、これがなぜここにあるのか、意味がよ
く分からない代物である。もちろん、天心が、これをおくよう指示した、
とは考えられない。
 
 あとでもらったパンフレットによると、これは、取手市在住の、島田忠
幸という彫刻家の苦心の作で、今年、天心が五浦に土地を求め、六角堂を
建ててより、丁度百年にあたるのを記念して、当五浦美術文化研究所が、
特に制作を依頼し、展示してもらったものという。「考える犬」という題が
付いた作品で、犬につける鎧という発想から作られ、別名「プリニウスの
犬」とか。ローマ時代の大学者の名を冠した犬が、天心と、何らかのかか
わりを持つ、と考えられたものか、これは、その犬の鎧らしい。

 いわくー、天心は老子に傾倒し、部屋の本質は虚なる空間にあるといっ
た、という観点から、犬の鎧は、そこにあるはずで、実は存在しない生命
の感覚は虚であり、ボリュームとも言い換えられる、まさに虚なる本質を
具現している、近代彫刻の本質に迫るものであるー。            
 分かったような分からないような解説が刷り込まれていて、波の音を聞
きながら、小雨に打たれてきた、わたしのこころは、いささか疲れてしま
った。 

 海外に知友の多かった彼は、またインドの詩人タゴールとの親密な交友
でも、よく知られている。タゴールの姪、という女流詩人プリョンボダ・
デーヴイ・ヴァネルジーとの半ば霊的な恋、また、九鬼夫人波津子との秘
められた、許されざる恋、私生活の面でも、波乱に富んでいる。
 波津子の息子、九鬼周造の随筆のなかに、幼年時代の彼の目を通して語
られる、天心と,九鬼氏、および、その夫人の身の処し方は、古き時代の
恋の罪の贖いのすがたの、厳しく、しかも節度と品位を失わない、日本的
かたちの象徴として、心に残る。

 姦淫の罪を犯してしまった二人にとって、事態はいかに苦痛に満ちたも
のか、測り知れないが、その間にあって、九鬼氏の取った計らいと、それ
を静かに、甘んじて受けた夫人、一定の距離を保ちながら、夫人とのかか
わりを、大事にしていたらしい天心の行動、それらをつぶさに見ていた、
幼い周造。そこに、後年「いきの構造」の哲学者として、日本の哲学世界に、
ユニークな仕事を残した九鬼周造の、魂の原型を見る心地がするのである。

 六角堂と道を隔てた向かいは樹々の鬱蒼と茂りあった小高い林が広が
っている。道に近い麓のほう、根元から何本も枝分かれした大樹のもとに、
天心の墓があった。天心の遺志で分骨されたおくつき、との説明札が立っ
ている。こんもりと土を盛り上げただけの小さな塚で、古代好みの天心に
ふさわしい。辞世の歌というのが記されていた。
  
  我が逝かば 花な手向けそ 浜千鳥
  呼び交う声を印にて
  落ち葉の下に深く埋めてよ
 
 大正二年(没年)とあるが、これが本当に彼の作かどうか、どのようにし
てここに記されているのか、経緯のほどはわからない。東京の墓地は豊島
区の染井墓地にある。

 昼過ぎには雨はやんだ。海沿いの道を少し走ってみる。天心には、この
地が、よほど、気に入っていたらしい。「六物記」という釣り日記が残さ
れている。海に、愛用の釣り舟をうかべ、朝まだき,舟の上で朝食を取る。
「私は、海の深みに心通わせて生きる、すべての漁師たちの、心境です。
私はここで、彼らと同じく、夢を釣るのです」と書き送ったりしている。
 
 死の二週間余り前の八月二十一日、プリョンボタ・ヴァネルジーにあて
た、最後の手紙が、遺されている。
 「三日前、私は新しい舟を進水させました。・・・竜王丸です。設計は
私自身でやりました。・・・日本の漁船とアメリカのヨットの組み合わせ
です。まるで優秀な水夫のように見えます。今年の夏は大半海の上で過ご
すでしょう.私はよろこびの大洋にただよっているのです」
 彼の魂は、今も、この海のどこかで、漂っているかもしれない。想像す
るのは自由である。 
                 (筆者は東京都大田区在住)
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