■中日関係の発展のために

-今何をなすべきか-       段  元培

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<はじめに>
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 中日間の15年間にわたる戦争が終了して、60年が過ぎた。この60年間に
両国関係の修復、発展のために両国の有識者が多大な努力を払い、1972年の
国交正常化およびその後の友好関係の発展をもたらし、「子々孫々、世々代々友
好」のムードを盛り上げることができた。ところが、ここ数年来両国関係が急速
に悪化し、ついて国交正常化以来の最悪の状態に陥った。この状態が中日両国の
経済、政治、国民感情など、あらゆる面に損害をもたらしているだけでなく、ア
ジアの平和と安定にもマイナスの影響を与え、諸外国の関心を呼び寄せている。
 
 戦後の中日関係を振り返ってみれば、まさに「ローマは一日にしてならず」の
感慨を覚える。なのに、私にとってはそれが一夜にして崩壊された思いがする。
これではいけない。新しい中日関係の発展のために努力しなければならない。戦
後の中日関係を振り返り、今何をなすべきか、私なりの提議をしたい。

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(1)民をもって官を促す
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 戦後の中日関係をみると、大体三つの段階に分けられる。
 第一段階は1945年から1972年国交回復まで。この段階の特徴は一般に
「民をもって官を促す」と称される。日本の国民が「日中友好」「国交正常化」
の要求を掲げて、政府を促した。日本で「民をもって官を促す」ことができた
のは、何よりも中国において「民をもって官を促す」ことをしたからである。
 
 終戦直後の中国人民の反日感情がどんなものであったかは想像がつくと思う。
1931年から1945年までの15年間に中国人民が侵略戦争で受けた筆舌に
尽くせない苦難の思いは、まだ生々しく脳裏に残っていた。こういう時に平常心
でしかも友好への誠意をもって日本人に対処させるのは、大変困難なことである
のはいうまでもないであろう。革命に成功した中国のリーダーたちは、どのよう
に日本を位置付け、どのような方針と措置を講ずるかの決定を迫られたのであっ
た。
 その後の経緯が示すように、毛沢東はじめ中国のリーダーたちは脇目もふらず
中日関係の再構築に力を注いだ。これは大所高所に立った選択であったと言えよ
う。この間、中国が中日関係再構築のためにとった行為に即してたどってみよう。

”日本国民も被害者”
 八路軍が東北地方に入った時、東北に残留した日本人は数十万人を数える。そ
の人たちはソ連軍、国民党軍に相次いで略奪と暴行を受け、栄養失調の上、チフ
ス、コレラなどが流行して、苦しみのどん底であえいでいた。その時、毛沢東は
「日本国民も被害者である」と言って中国の人民や八路軍を説得し、救援の手を
差し伸べた。やがて全員無事に日本に引き揚げさせた。もちろん最初から中国人
民がみんな納得したわけではなく、八路軍の傷病兵が日本人看護婦の手当を拒み、
敵対の態度で臨むなど、いろいろのことがあったが、とにかくこの”日本国民も
被害者”の論が中国で定着した。日本の従軍看護婦の手記に当時の状況が書かれ
ているのを、私も読んだことがある。
 
 日本では、革命直後の中国の情報はまったく入っていなかった。”竹のカーテ
ン”の中国は、近くて遠い国と言われていた。そこへ、引き揚げた日本人が日本
の津々浦々で口伝えに、新中国の情況を話して言ったと思う。それが、終戦後の
最初の中日友好の種子を蒔いた人たちであったと言えよう。
 
”謝ることはない、二度とそのようなことがなければ”
1956年に元日本陸軍大将南郷三郎が訪中され、毛沢東と会見した時、南郷さ
んが過去の戦争について謝ったところ、毛沢東は「謝ることはない。二度とその
ようなことがなければそれでいい」と答えた。過去の不愉快な歴史を口にするよ
りも、これからの中日関係やアジアの平和発展を考えるべきだという意向を示し
たものである。
 
 また1960年に野間宏を団長とする日本文学者代表団が訪中され、その一団
には開高健や大江健三郎、中島健蔵などそうそうたるメンバーが含まれていた。
当時外相をつとめていた陳毅元帥と会見した時、やはり戦中のことに触れた。陳
毅外相は「もう過ぎたことだから、過ぎたことにしよう」といい、野間団長は「
いや、日本人としては忘れられない」と話を続けると、陳毅は膝をたたいて四川
なまりで「そうだ。日本人は忘れられないといい、中国人は過ぎたことにしよう、
ということで、これが中日友好だ」というのであった。後で通訳仲間の一人が「
『過ぎたことは過ぎたことにしよう』という表現は日本語らしくない、日本語の
表現は『過ぎたことは水に流しましょう』というべきだ」と話と合ったことを覚
えている。
 
”日本文化の尊重”
 同じ1960年代に日本歌舞伎団が初訪中された。中国関係当局では、歌舞伎
ははじめてのことなので中国人になじめないのではないかと心配して、切符を配
る時に、「中途で退場してはならない」と再三注意した。それでも、退場する人
が次々に出たら日本文化を尊重しないことになり、訪中公演一行の日本人に失礼
なことが起きるのを心配したらしく、劇が始まると動じに劇場の門を閉め切って
出られないようにしたと、観劇して帰った人から聞いた。
 このようなことは、今では考えられない。今こういうことをしたら、きっと大
騒ぎになるだろう。それにしてもこの一例が示すように、日本人に対して中国の
友好の誠意を示すためにどれだけ神経を使ったかがわかるだろう。
 
”戦犯の人格を尊重”
 1954年の正月は、私が日本から中国に帰国して初めて迎える正月であった。
その正月が過ぎたら、私は撫順に行かされた。一千名余りの戦犯がシベリアから
引き渡されて来たからである。この人たちは両手とも中国人の血で汚れていた。
愛新覚羅ふ儀はじめ元満州国かいらい王朝の文武百官も入っていた。この売国奴
と殺人鬼たちにどのように対処し処分するか、皆好奇心をもって眺めていた。
 
 ところが、私たちははじめから面くらった。何と将官クラス以上の人は、小釜
の飯を食い、佐官クラスの人たちは中釜の飯、尉官以下の人は大釜の飯を食うの
だった。当時の中国は戦時共産主義の尻尾を引きずっていた。幹部と普通の職員
との格差は主に食べ物の違いに現れていた時代である。中国の高級幹部は小釜の
飯、中級幹部は中釜、私たち平の職員は大釜の飯しか食えなかったのである。だ
のに、その戦犯でも将官クラスは、中国の高級幹部と同じ待遇であったのだ。当
然これに不満をこぼす中国人もいた。だが、そういう人には「いいものを食べた
いか、食べたかったらあの人たちのところへ行って食わせてもらえ」と言われた
のを覚えている。
 
 この人たちの日常は、将棋、バスケットで遊んだり、本を読んだりして、まる
でクラブで休暇をとっているようだった。この人たちは数年後、全部日本へ帰ら
された。日本に帰国後、この人たちは中国帰還者連合会とかの組織を作って、日
中友好に貢献した。
 当時私たちは自分たちの仕事を「鬼を人間に復帰させる仕事
と言っていた。
 
”倍償放棄を決定”
 1972年の国交回復共同声明に、中国は戦争倍償を放棄すると明記されたが、
実はこの決定は日本政府がアメリカの中国封じ込め政策に加担し、中国敵視政策
を実行していた1960年代初期にすでに内定していたのであった。「中国は日
清戦争以後、各国から莫大な倍償金を取られて貧困のどん底に追いやられた。日
本国民にそのような苦しみを与えたくない」という話を、私は周恩来から聞いた
ことがある。
 
 当時両国間に国交がなく、しかも冷戦の対立する両陣営に属していたので、い
ろいろな摩擦や問題が生じた。だが、幸いにも松村謙三さんのように、ことある
毎に中国に御足労され、意志の疎通や誤解の解消につとめるという、まさに”日
中のかけ橋”の役割を果たす人々がいたことである。残念ながら、現在そのかけ
橋を努める人がいなくなった。
 以上の一連の行動により、日本で中国に対する理解が広まり、日中友好の機運
が醸成されていった。国交回復前に日本では中央に「日中国交回復国民会議」、
地方に同じ「県民会議」、「市民会議」ができ、国会および各県市議会の「日中
国交回復議員連盟」、さらに日中友好を促進する各種の大衆組織が日本全国に見
られた。これが日中国交回復の強固な大衆的基盤となったのである。

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(2)官民一体の友好促進 
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 第二の段階は1972年の国交回復から1990年ごろまで。
 この段階の特徴は、官民一体による日中友好促進であった。1972年に田中
角栄首相が訪中し、中日の国交が回復された。国交回復共同声明で「日本は過去
の戦争を通じて中国国民に重大な損害を与えたことについて責任を痛感し、深く
反省する」という表現で不幸な歴史をしめくくった。それから中日友好の環が一
段と拡大され、「子々孫々、世々代々友好」の声が両国の巷に満ちあふれた。
 私が1980年代に東京の中国大使館に勤務していた時、日本各地の友好団体
のいろいろな催しに列席したが、どこへ行っても親しい笑顔に接し熱烈な歓迎と
好意を感じさせられたものである。
 
 中国大使館の門衛に当たった日本の警官の一人が、いつも笑顔で挨拶してくれ
たので、この人は他の警官と少し違うなと思った。後で聞いたところでは、その
警官の兄弟の一人が1972年に国交回復を祝う大相撲北京場所で訪中した大相
撲のメンバーの一人だった。その大相撲一行は中国で官民一体の熱烈な大歓迎を
受け、中国に好感をもつようになったので、その警官も多分その影響を受けたの
だろうと思った。友好の環が大相撲界にまで広がったことに感心した。
 その頃中国では日本製品が大歓迎され、北京の町に走る車はこれまでのソ連車
に替わってほとんどトヨタ一色になった。高校の先生をしていた家族が、家に持
ち帰った生徒の作文をめくってみたら「黒色のトヨタ一台がすべり込んだ」とい
う記述が目につくほどであった。
 
 日本政府が日中関係発展のためにいろいろと尽力された。特筆すべきものは、
1979年から始まった中国に対するODA円借款である。それが1979年か
ら昨年(2005年)まで毎年続けられ、あわせて約300億ドルにのぼる。1
979年といえば中国が改革解放政策をスタートしたばかりで資金などの面が非
常に欠乏していた時であったから、日本の円借款の役割が大変大きかったと思う。
それが主に中国のボトルネックであつたインフラ整備に使われ、経済発展の基盤
づくりの重要な資金であつた。
 国交回復後、日本の歴代総理がそれぞれ関係発展のメルクマールともいうべき
プロジェクトを中国に残している。中日友好病院、中日青年交流センター、環境
保全施設などがそれである。
 
 私が直接かかわったのは小ふち恵三元首相のことである。小ふち氏が自民党幹
事長され、総理になる少し前に訪中された。その時若い世代間の友好交流を考え
て、毎年500名の中国青年を日本に招待する提案を出されたが、それが実現さ
れなかった。その後小ふち氏が総理に就任してから、中国の環境改善のための特
別基金を設けた。これを一般に小ふち基金と呼んでいるが、この基金を使って毎
年日本からボランティアを組織して中国の砂漠地帯に植林させ、動じに中国の農
民と交流できるようにしてきた。この事業は今も続いており、中国の環境改善に
大きく寄与している。
 友好関係の発展につれて、両国間の経済、文化、観光、科学、技術など各方面
にわたって飛躍的な発展を遂げ、両国の国民を潤したことは言うまでもない。貿
易額ひとつとってみてもわかるが、国交回復当時、両国の貿易総額は10億ドル
台だったが、今では2000億ドル近くになっている。

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(3)政冷経熱-靖国問題の浮上
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 第三の段階は2000年頃から現在までである。1990年代以降、中日関係
はピーク時を過ぎた感じだが、決定的に悪化したのは小泉首相が繰り返し靖国神
社に参拝しているからである。この段階に入ってからの特徴は一般に「政冷経熱
」と称される。また靖国問題とともに「中国脅威論」が日本で一部の人によって
吹聴されている。
 
 まず靖国問題が中日関係発展の最大の障害になっているばかりでなく、人々に
疑心を抱かせざるをえない。小泉首相はなぜ国家関係の悪化を顧みず、靖国神社
参拝を続けるか。国家関係を悪くしても参拝を続けるのには、日本がこれまでの
平和発展の進路を変え「大東亜共栄圏」の夢よもう一度と考えているのではない
かという疑念を抱かせられる。またこれまでの日本政府が関係修復のためにとっ
た一連の行為や度重なる「責任痛感、深く反省」の表明にはどれだけの誠意があ
ったのかと疑問を持たざるをえない。
 
 なぜなら靖国は諸外国の無名戦士の墓と違って、中国人民に絶大な苦難を与え
たA級戦犯が祭られており、そこには過去の戦争の成果を誇り、戦争を吹聴する
火薬臭い雰囲気がみなぎっているからである。
 その戦果はまさに中国人民に苦難を与え、残虐極まる行為の記録なのである。
 小泉首相の言うような、「靖国参拝は諸外国で無名戦士の墓に敬意を表するの
と同様の性格のもの」では決してない。このようなことはドイツでは、違法行為
とみなされている。靖国参拝は中国人民に苦難の歴史を呼び起こさせ、古い傷を
ほじくられる思いがするのである。中国政府がそれなりの措置を取らなければ、
中国人民は納得しないだろう。
 
 靖国参拝への受け止め方は、日本国民とアジア諸国の人民との間に大きな食い
違いがある。今日本国内では参拝賛成と反対する人々が大体半々に分かれている
ものの、反対する人の理由をみると約7割の人が中国と外国がうるさいから参拝
を中止した方がいいというのであり、靖国参拝自体を問題意識としていない。そ
れも不思議ではない。かつての歴史の事実について日本の教科書にはほとんど出
てこないし、反対にそれを美化し合理化する内容で教えられてきた。
 
 戦争が終わり60年、終戦の年に生まれた人が今は還暦を迎える歳である。
にもかかわらず、この歴史の事実をほとんど知らないのである。この歴史認識の
違いは日本の今の世代、さらに次の世代へと、アジア諸国人民との隔たりを広げ
る根源となっている。中日関係では、1972年に国交回復時に一応過去の歴史
をしめくくり、”戦後”に終止符を打った筈だったのに、その”戦後”がまたむ
し返されたようである。
 
 今の日本国民は歴史の事実を知らないから、中国人民の気持ちなど理解する筈
がない。かえって、中国人は生まれながらにして反日的にできているように思っ
ているのかもしれない。そこから中国人民に反感を持つようになってくる。もち
ろん中国の過激分子による日本領事館への投石などの不法行為が日本人の反感を
かうことは残念であり、恥ずかしいことだと思う。しかしこれは中国の正常な人
の行為ではなく、このような不法行為を犯した人は中国の公安警察が逮捕し処罰
している。
 
 日本の一部国粋主義者が靖国や歴史問題を持ち出して、日本の自尊心を高めよ
うと考えているかもしれないが、それは決して賢明なやり方ではない。靖国問題
がこじれるにつれ、これまで高みの見物をしてきた諸外国の人もこれに関心を寄
せ、靖国の本質を知るようになっている。故吉田茂元総理の『大磯随想』に「外
交勘のない国民は亡びる」と書いてあった。1934年吉田茂がニューヨークで
エドワード・ハウス大佐と会い、ハウスは「外交勘のない国民はは亡びる」とい
って、日本が戦争に突入しないように忠告したが、日本軍部はそれを聞き入れず、
戦争に突入し、日本があの敗戦という非運に見舞われた。吉田茂は「もしもわれ
われがハウス大佐の忠告に従って戦争に突入することがなければ、日本の敗戦と
いう非運にも見舞われず、世界の・・・大国として今日に至ったであろう」とい
って残念がっていた。今の日本の国粋主義者たちにどれだけの「外交の勘」があ
るのだろうか。
 
 日本はすでに厳然たる経済大国であり、一流の科学技術を持ち、良質の製品を
世界に送り出しており、世界の中でも国内における地域の格差や都市部と農村の
差異も非常に小さい。ましてどこの国よりも治安がよく、国民の素質が高いなど、
そのまままともであれば自然に世界から尊敬される筈だから、歴史問題をいじく
る必要は何もないと思う。
 
 明治維新以後、日本はずっと中国よりいろいろな面で進んでいたが、ここ二十
年来、中国がやっと立ち直り始めた。どうしたことか、日本では何時も冷ややか
な目で中国を眺める人がいる。それは「中国崩壊論」、「改革失敗論」から「報
復論」、「中国脅威論」など次々に口調を変えてけなし続けてきた。これらの論
調をたどってみると、「報復論」以後は皆アメリカが発明したものである。日本
は中国に近いし、文化的にもアメリカより近似しているから、日本独自の研究成
果や事実に即した科学的批判がどうして出せないのだろうか。もう少し中国の実
状や世界の流れを勉強するよう進言したい。
 
 日本には「長いものには巻かれろ」という言葉がある。人々の発想は巻くか巻
かれるかの両極端に走り易い。時代は前進する。かつて弱肉強食の論理に基づい
て世界各地で植民地支配をし、植民地争奪のため世界戦争まで起こした。現在、
欧州はECからEUへと前進している。相互依存、和平協力が世界の主流にな
りつつある。これからリジョナリゼーションとグロバリゼーションが同時に進行
すると思う。
 
 中国がアジアの平和協力と共同発展のために、ずてに行動し出したと私は感じ
ている。たとえばASEANと中日韓(10☆3)の相互交流を積極的に推進、
実現させ、ASEANとの自由貿易協定(FTA)締結に尽力し、メコン川流域
の共同開発計画を実現させ、ベトナム、ミャンマーなどアジア6カ国の債務を減
免し、靖国問題が出てくるまで一貫して中日友好を促進し、中日韓の東亜3国の
FTAについて共同討議を提唱するなど、いわゆる「アジア新時代」を始動させ
ようとの姿勢を示してきた。中国の一人当たりのGDPが日本の30分の1であ
るから、たいしたことはできないが、経済の発展につれてアジアの平和協力、発
展のための責任を果たしていくと思う。

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(4)中国歴代トップの発言
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 今後の中日関係を悲観的にみている人もいるが、中国においても日本において
も楽観視する人が大多数を占めている。なぜなら平和発展の指向が中国の国是で
あり、また日本もいずれは平和発展の道を歩むと信じている。中国の歴代のトッ
プリーダーの中日関係についてのはつげんから中日関係楽観論を裏付けることが
できる。

 毛沢東--「中国人民と日本人民はよき友だ」
 登(とう)小平--「あれこれ言っても中日友好関係が何よりも重要である」
 周恩来--「中日両国人民は子々孫々、世々代々友好的に付き合わなければ 
       ならない」
 胡耀邦--「中日両国とも影響力のある国だから、両国の友好関係を発展さ 
       せることは両国の政治家の責任であり、義務である」
 江沢民--「中日友好関係を発展させていくことが唯一の選択である」
 
 一方、日本でも多くの政治家や外交当局も「日中関係は日米関係とともに日本
外交にとつて重要である」という発言をしてきた。最近、日本外務省のとったア
ンケートによると80パーセントに近い回答者が日中関係の改善を望み、7割近
い人が今後の日中関係は良くなると楽観的回答を出している。
 中日間には東海ガス田開発、釣魚島の領有権をめぐる争点以外は実質的な利害
対立はほとんどない。歴史問題は感情的問題であり、双方が冷静に対応すればそ
の解決はそんなに難しくないと思う。なぜなら歴史的感情的問題よりも両国がア
ジアの平和協力、”アジア新時代”の構築のために友好協力し合う方がはるかに
重要だからである。
 
 領土問題は日本ではあまり経験したことがないが、中国ではこれまで周辺諸国
との間に数十年間にわたって領土問題をかかえ、相互理解と相互譲歩の精神に基
づいてその解決に努力してきた。ロシア、モンゴル、朝鮮、ミャンマー、ベトナ
ム、ラオスなどがそれであり、残っているのはインドだけになった。中日間の領
土問題は登(とう)小平が言うように、解決できなければ当分棚上げして、その
うちわれわれの子孫がわれわれよりも頭がよくてもっといい解決方法を出せるか
も知れない、という考え方もある。
 今両国の経済関係が双方にとってますます重要になってきており、国交正常化
の当初、両国の貿易総額は僅かに10億ドル台であったが、今年は2000億ド
ルを突破する筈である。中日貿易は既に日米貿易を追い越して、日本経済好転の
かなり重要な役目を担うようになった。

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(5)大所高所に立とう
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 以上述べた理由から、私は今後の中日関係を楽観視しているが、ただ両国がそ
れなりの努力も必要だと思う。ここに次の諸点を提議したい。
 
 第一に、両国とも国際社会における責任を自覚し、大所高所に立って両国間の
     問題に対処することである。
 
現在、中国はある程度の経済発展を遂げ、国連の常任理事国であり、すでに大
国と見なされるようになった。国民の意識もかつての侵略を受けた被害者の心理
状態から脱却し、大国としての責任を自覚しつつある。したがって、中国の置か
れている位置から考えて、何よりもアジアの平和、安定、繁栄を年頭におき、大
局的に中日関係を処理するように心掛けるべきだと思う。日本の一部国粋主義者
の雑音に影響されることなく、大国としての風格をもって問題を処理することで
ある。
 
 一方、日本も世界第二位の経済大国であり、経済力相応の役割を国際社会で果
たすのは当然だが、そのためには偏狭な国粋主義を克服し、大国らしく行動し、
何よりも周辺諸国の信頼を取り戻すことだと思う。かつて冷戦という特殊条件の
もとで日本が大国に依存して経済大国に発展したことは素晴らしいが、真の経済
大国になるには外国依存ではなく、それなりの自助努力が望まれる。

 第二に、誠意と相互尊重が必要である。
 
 これまでの中日関係の経緯からみて、誠意と相互尊重に心掛ければ関係は良く
なり、そうでなければ関係は悪化すると言えると思う。日本は欧米以外の地域で
唯一の先進国であり、上に述べたような立派な所がたくさんある国である。しか
し中国では往々にして、戦争を起こした日本のイメージしか持たない人がまだ多
くいる。これは中国のマスコミや映画、テレビ番組にもいくらか責任がある。特
にここ数年来日本のよくない面の報道や番組が多く、良いイメージを与える内容
が少なくなっている。日本のODA円借款や日本の歴代首相がこれまで二十数回
にわたる戦争への反省を示す発言などがほとんど報道されず、中国の民衆はこの
実状を知らないから反日的感情を募らせる一要因になっている。同じことが日本
のマスコミにも言えると思う。これについては私が言うまでもなく、日本の皆さ
んがよく知っている筈である。
 
 第三は、さまざまなルートの交流が必要である。
 
 国が違えば文化、習慣なども異なるので、そこから誤解が生じやすい。例えば
死者に対する態度でも中国と日本では大分違う。中国では昔は「☆死」といい墓
を掘り起こすなどのやり方があった。つまり人が死んでもその罪を許容しない習
慣だが、日本では人が死んだら皆が仏になると考えている。これが靖国の問題に
対する中国国民と日本国民の受け取り方が違う要因の一つになっている。したが
って常に相互交流、率直な意見交換が関係発展にとって欠かせないのである。
 最後に、毛沢東が国交回復のために訪中された田中元首相と会見した時、冒頭
から「周恩来との喧嘩は済みましたかね、喧嘩しなければ仲良くなれないですよ
」と言って、話に入った。喧嘩とは国交回復共同声明をめぐって議論しあったこ
とである。この度の「政冷経熱」と「政冷経冷」での喧嘩を通じて中日両国が仲
良くなれば、と心から願うものである。

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【紹介】  筆者の段元培さんについて
                       評論家  鶴崎友亀
 
 今年の四月下旬、北京で段さんと久☆を叙して懇談した。「中日友好運動に中
日双方でたくさんの人が協力して、今日の繁栄を築いてきた。それが靖国神社参
拝を契機に中日関係が急速に悪化している。中国の歴代のトップリーダーは中日
関係の重要性を認識し、中日両国関係の発展に努力してきた。なんとか中日関係
を修復したい」と、彼はその苦しい胸の内をのぞかせた。
 
 私は「歴代トップリーダーの発言をまとめて、日中関係の発展のために日本人
に訴える文章にしたらどうか」と応じた。「一度書いてみましょう」というのが
彼の答えであった。それから1カ月たって、この原稿が送られてきた。読んでも
らえば判るが、これには段さんの日本人に対する熱い思いが溢れている。 段さ
んの先祖は中国の辞典を最初に編纂した段王栽という学者である。家庭の都合で
少年時代に日本に来て、戦後大阪のある高等学校から大阪市立大学医学部に進学、
そこで学生運動を経験し、1953年中国へ帰国した。以来外国特に日本との対
外連絡の仕事に従事、日本語の通訳や翻訳を通じて新しい中国建設に情熱を傾け
たという。
 
 私が1984年に中国国際交流協会の招待で日本の「評論出版訪中団」を組織
して訪中した時、全線案内に随行してくれたのが段さんであった。間もなく彼は
中国大使館の参事官として日本に赴任され、それから数年間は日本と中国の友好
都市運動や国内旅行で一緒して交流した。また退職された後も故照井千郷さんの
雲南旅行にも一緒し、旧交を暖めてきた。
 段さんは15年戦争の中で成人した”昭和1桁世代”である。そして日本留学
の知識階級の一人でもある。魯迅や周恩来、張香山、☆安博などの系譜を引く。
日本人の知己も多く、日本人以上に日本の行く末を心配している。私たちは中国
にたくさんの知日派がいることを忘れてはならない。
 
 ちなみにこの原稿は日本語で書かれ、自由に添削してよいと言われたが、ほと
んど手を入れる必要はなかった。張香山、劉徳有さんたちと同様に、留学組はど
うしてこんなに日本語が話せてよく書けるのだろう。段さんが日本を必死で学ん
だことの証しであろうか。民族を理解するためには、生半可でなく徹底的に学ぶ
べきだ。こんなことを思った。
 
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