【コラム】中国単信(150)
中国茶文化紀行 「茶禅一味」(87)
茶禅一味・スカッと!?
趙 慶春
2014年から2022年まで、あるテレビ局で放送されていた「痛快TV スカッとジャパン」という番組を見たことがあるだろうか。
世間の理不尽、非常識な行為に何等かの手段で反撃したり、撃退したりして、気持ちをスカッとさせたエピソードを再現して見せる番組だった。取り上げられた内容の賛否は別にして、日常生活に密着していて、因縁の相手に仕返しをしてスカッとしたい庶民の心理を的確に掴み、人気があった。こうした民衆心理は古今東西、人間の普遍的心理と言えるだろう。
今から100年あまり前のアメリカで、一人の自営業者が仕事終了後、そのままうす汚れた業務用の車で町の銀行に行った。順番待ちをしていると銀行のスタッフから車の移動を求められた。理由はお客様専用駐車場だからというものだった。自分も客として来店していると説明するもスタッフからは相手にされず、やむなく車を移動させたが、彼はその銀行の自分の口座を解約し、100万ドル以上の預金をすべて別の銀行に移した。100万ドルは今の為替レートで1億2000万円程だが、100年前の100万ドルはとんでもない「大金」と言えるだろう。銀行へのせめてもの「怒りの反撃」だった。
似たような「事件」は中国でも起きている。新型コロナが流行中の2021年9月、上海にある銀行に一人の中国人富豪が訪れると、マスク着用を強要された。しかし、当の銀行員は「あごマスク」だった。その富豪は「銀行員の態度が悪い」として数億円分の預金を全部おろして、別の銀行に移してしまった。

(「ABEMA news」より)
この「ニュース」は日本でも報道されていたが、最初の情報源はその富豪本人のSNSだった。当事者本人が自ら書き込みをして、「事件」の経緯を語る心理には「自分は間違っていない」ことを広く知らせたいという思惑が伺える。社会的な出来事には、ほぼ間違いなく「賛否両論」がついて回るものだが、上記のような事例には支持者が圧倒的に多数を占める傾向がある。
こうした民衆心理から一つの「意識」(「審美道徳」と言うべきか)が見出せる。
① 相手の目の前で行うこと。② 仕返しの結果がすぐ現れること。③ 周囲に目撃者、あるいは関係者がいること。
「善有善報、悪有悪報」(善には善の報いが、悪には悪の報いがある)とはよく言われるが、「三世因果」となると時間的に「長すぎ」て、今の自分には確認できない。そのため自分自身で確かめられる「(結)果」、つまり「現世果報」(中国語で「現世報」という)の意識が強まる。特に「仕返し」となると、相手の目前で、相手にもその結果を見せつける方が効果があり、「報復の快感」もより高まる。さらに当事者以外にも目撃した人がいるとなれば、勝利感、優越感、面子挽回の達成感は増し、それは社会的認知度に比例している。
加えて、その「怒り」に対して「正義」(ほとんど「自分は正しい」という認識)の大義名分が得られて、社会の目を意識するほどにより過激な「報復行動」を起こしやすくなる。例えば、店員のミスを理由に土下座強要などはその代表例だろう。「度を超えている」自覚を持つことはほとんどない。相手が悪く、自分は「正義者」として反撃していると思っているからである。
「怒り」を含めた我々の「感情」は、我々の「理性」を覆って正しい行動を遠ざけてしまう。冷静であれば、銀行預金の全額引き下ろしも、ミスした店員への土下座強要も、人生にとって何のプラスにもならないし、自分の「心」の平穏を破壊した「悪業」にほかならない。
だが、大富豪でも見下され、冷遇され、面子をつぶされてもじっと堪えて、やり過ごす人はどれだけいるだろうか。一方、地位や権力、財力を持たない庶民は「預金全額下ろし」などできないし、店員への土下座強要もしたことはないかもしれない。しかし、同じ場面に置かれたなら、「怒り」の感情が前面に出てきて心の中では「報復手段」や「相手への攻撃手段」を考えるのではないだろうか。ただし、実際行動を踏みとどまる人の方が多いが。
つまり、「我執」の持ち主である我々は誰もが「怒り」に任せて愚かな行動に走る予備軍にほかならない。我々人間は「怒り」を代表とする各種の「感情」を引き起こす「我執」から逃れられないのである。
中国に「犬に噛まれたら、犬に噛み返すのか」という俗語がある。相手の怒りを鎮め、報復行為をしないように説得する時によく使われている。犬を相手に「噛む」という勝ち目のない無謀な行動はするなという理由だけでなく、相手と同じ低いレベルの「争い」をするなという戒めも込められている。これには少々、下品な言い方もある。「あなたはパンツではあるまいし、なんですべての『屁』を受け止めるのか」と。
要するに、「冷遇された」「見下された」「面子を潰された」「理不尽だ」「非常識だ」などの「我執」に執着せず、「怒り」も「悔い」も起こさないことが肝要なのだ。
それほどに「我執」は我々の心の平和を邪魔するものにほかならない。
(大学教員)
(2026.4.20)
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