【コラム】中国単信(147)
中国茶文化紀行 「茶禅一味」(84)
顛倒因果
趙 慶春
知り合いの日本人の女性のお年寄りから彼女の父親が亡くなる数年前からしきりに「数千万の日本人に申し訳ないことをした」と言っていたという話を聞いた。その理由は東京西部の山林整備に携わった際、成長の早い「杉」などの樹木の植林を推進した「張本人」だったからだという。その当時、花粉症などという名称はなく、数十年後にその「杉」類が花粉症の誘因となり、年間数千万の日本人を苦しめることなど予測できるはずもなかった。
では、「杉植林」は「悪業」だったのか?
野良猫に餌を与える人は救済の気持ちからで、「善行」と思っているのだろうが、野良猫の群れに嫌悪感を持つ人には、「餌やり」は「悪行」にほかならない。
では、「野良猫に餌を与える行為」は「善業」か、「悪業」か?
「立場」、「好悪」、更には「文化背景の違い」などで、人間の善悪判断はかなり異なる。ここでは前回に続き、「因果」の本質を見てみよう。
疑問4:「善・悪」の判断基準は何か?
立場、視点、生活環境などが異なれば、考え方、価値観なども当然、異なってくる。勿論「善・悪」に対する判断も。例えば、「安楽死」だが、A地域では「善」、B地域では「悪」と見られていることは十分あり得る。前述のように、野良猫や鳩への餌やりについて、Aさんは「善」、Bさんは「悪」と思う可能性も十分あり得る。同じように、個別組織、グループ、民族、国家もそれぞれの立場で、それぞれの利益を優先にして、それぞれの価値観で判断するため、やはり「善・悪」の判断は分かれてしまう。また社会通念と言われるものも、基本的に多数意見の反映であり、社会全体の確固とした考えとは言えない。つまり、「善・悪」の判断基準にはなり得ないのである。
仏教の理念としての「善・悪」について、下記の三点は押さえておく必要がある。
1,「善・悪」判断の基準は悟った人のみが分かる。悟った人にはおのずと基準が分かるからで、「善・悪」は絶対的な概念になる。
筆者はまだ悟っていないため、「善・悪」の絶対的な概念を語る資格がない。ただし、仏教の理念を紹介していけば、「善・悪」の本質も自然に浮かび上がってくる可能性はある。
2,「慈悲」は分かりやすい。「慈」は喜びを与えること、「悲」は苦痛を取り除くことである。つまり、「我」の執着や欲望を捨て「他者」に奉仕、貢献することが「善・悪」判断の基準となる。基本的に「利己」は「悪」、「利他」は「善」である。
3,「善・悪」は結果によって判断しない。例えば「利他」の善意で人を助けたが、その結果が芳しくなくても「善」である。逆に「利己」の心を隠し、「利他」の大義名分で行動し、結果が良くても「悪」となる可能性が高い。
こう考えれば、「善・悪」の判断は意外に簡単なのかもしれない。我々の言動にはどうしても「自分の感情」「自分の利益」が入り込んでくる。たとえ相手の立場に立つと言っても、やはり「自分」を消すことはできないため、「善・悪」の判断を難しくしている。勿論、因果では、「偽り」は通用しない。たとえ一時的にその「偽り」が成功しても、最終的に「偽り」が「偽り」となる結果になるのだ。因果の本質では「偽り」は通用しない。
疑問5:因果から見ると、結果論は意味があるのだろうか?
我々は「結果論」に慣れ過ぎている。
生活や仕事で、「成功」「失敗」「トラブル」などの「結果」が出れば、その「原因」を分析、究明しようとするだろう。「原因究明」には、会社でも、家庭でも多くの時間を割くものだ。一つの結果の原因を考え、修正して次の行動を始めようとする。「失敗は成功の母」とは、まさにこのことを言っている。修正、改善(改悪)、反省、改革、改正、調整、転換、補完、補足といった言葉は「原因究明」がもたらす派生用語である。
しかし、仏教の「因果」は、あくまで「因」を重視し、「因」の上で修行し、「果」を司ることである。「果」を見てからではなく、「果」を予知して、「因」の上で全力で取り組み、未来の運命は自分次第ということになる。これは仏教の智慧であり、仏や神に頼らず、自分が主宰する真の意味である。「因」でどのように頑張るのか、その智慧をどのように手に入れるのかについては、見地と修行の話になるので後述する。
ここでいう仏教の「因果」概念は形而上のもので、我々の身近な「現象」ではうまく説明できないのだが、敢えて一つの例を挙げよう。
中国に「人走茶涼」という言い方がある。「走」は離任、退職、退位の意味で、「地位や権力から離れた途端、温かいお茶も出されないほど相手にされなくなる」という諺だ。主に恩義を忘れた人の薄情を嘆く時使われている。だが、事後を嘆くより、在位中の自分の作為を正すべきだ、というのが「因果」の真意である。在位中は権力を握っているため、誰もが靡き、薄情で権力乱用でも誰も逆らわないため、「茶涼」になるとは考えもしない。他人の「人走茶涼」現象は多く目にしてきているのに、自分は別と思いがちである。だからこそ「因」の上で修行し、常に「利他」を忘れず、自分を正す智慧が必要なのだ。
因果の本質について「随縁消旧業、不再造新殃」という名言がある。「縁に従って以前の業の報いをしっかり受け止め、新しい悪業を作らない」という意味であり、因果の智慧である。
疑問6:「因」の根源は何であろうか。
「因果」について、語れば語るほど分かりづらくなり、非常に難しく感じられるかもしれない。だが、「因果」とは、簡単に言えば「原因→結果」にほかならない。
「因果」について、これまで作為、振舞などの言葉を使ってきたため、「因果」は実際の行動、行為、計画、プログラムなど実際に目に見える「もの」と理解されているかもしれない。しかし、すべての行動・作為は人間の「念頭」(意識)によって起こされ、稼働する。したがって「因」は最終的に人間の「一念」(意識の動き)ということになる。
つまり頭の中で「思う」ことが起これば、すでに「因果」に関わり、何らかの結果につながり始めるのである。
例えば、「うちの上司は無能なのに高い給料をもらい、しかもよく威張り散らしている」という「悪意」を持ち続けると、いずれ「因」として何らかの「果」がもたらされる。
因果の本質では「善悪・因果」から見て、最初の「起心動念」(意識の発動)は最も大事である。そのため『圓覚経』では、「善護念」(しっかり自分の念頭意識を汚さないように護る)を悟りの最上のキーワードとして挙げている。
大学教員
(2026.1.20)
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