【日中・侃々諤々】

中国理解の困難とは

—年の瀬のささやかな一日の「できごと」から—

木村 知義


 われわれの中国認識はどれほど深いだろうか?!
 年末の選挙の投・開票日の「小さなできごと」である。
 日本で活動する中国人ジャーナリストから連絡があって「新聞の編集作業を手伝ってほしい」と。オフィスに出向くと「先生、きょう中国のテレビ局から出演を頼まれた。自民党の開票本部でレポートするのをビデオカメラで撮ってほしい」「エッ! 新聞の作業は? それより、カメラは?」「これではだめでしょうか」と、家庭用のハンディカメラを差し出す。「それよりなにより、平河クラブと話はついているの?!」「前の選挙の時、取材に行って入れました」「う〜ん、どうかな、日本の記者クラブの縛りはキツイからな・・・。カメラはこれで撮れないことはないが、マイクをきちんと付けないとレポートは鮮明にならないよ」「じゃ買いに行きましょう」、絶句したが家電量販店へ。

 ビデオカメラに接続できるワイヤレスマイクはないかと店員に相談しながらふと彼を見ると視線は展示してあるカメラへ。「先生、このなかでどのカメラならいいと思いますか?」いまは放送局でも家庭用カメラを取材に活用している場合もある。まあこのレベルであればと、家庭用カメラの域を少しこえた上位機種を指すと「これ買いましょう!」。

 オフィスに戻ってバッテリーを充電したり、ワイヤレスマイクのテストをしたり。すべて「先生、お願いします!」で事がすすむ。閉口するが、問題はこんなことにとどまらない。本当に自民党本部の開票センターに立って取材できるかどうかだ。
 ここまで読んだ日本のメディア関係者はどんな「結末」を想像するだろうか。
 許された紙幅ではとても書ききれない、日本のメディアの「常識」をこえた熱意と努力で、テレビの世界でいうところの「立ちリポ」を5パート、それも何度ものNG−やり直しを重ねて、自民党本部の現場で撮り終えてオフィスへ。

 本当にたまたま、少しクオリティの高い映像編集ソフトを載せているパソコンを持参していた。すぐに編集にとりかかる。その間にも安倍首相が開票本部に現れたというので「もう一度取材に行ってくる・・・」といって飛び出していく。
 ここまでのあれこれも言語に絶するものだった。しかし!事態はもっと深刻である。
 とにもかくにも編集を上げたところに戻ってきた彼は中国のテレビ局に連絡を入れる。「で、これを中国に送るのは?」「先生、どうすればいいでしょう?!」「お〜い!!」と、もはやことばにならない。

 すると電話が鳴る。「先生、放送まであと5分!」「おい! そんなことは聞いてないぞ!! 段取りを考えて取材に行ったんじゃないのか」。スピーカフォンにしてある電話からは中国の放送局の女性スタッフの悲鳴ともなんともいえないわめき声が。そんなこんなで、としかいえない顛末で、知りうるかぎりの知識と知恵と工夫を総動員して、とにかく素材を送ることを試みる。放送で使える品質の動画をネット経由で送るのはそんな瞬時にできるものではないのだ。これ、常識!などと説いている場合ではない。汗をかきかき、オフィスにある4台のパソコンを総動員して送る。遅々として進まない。もはや中国からのわめき声など耳に入らない。

 1時間ほどの放送が終わったあと、「先生、全部は無理だったけど2パートが放送できた! 見てください」と笑顔とともに差し出されたスマホには中国で放送された彼の「立ちリポ」姿の画像が送られてきていた。

 思い出すだけでも「悪夢」のような半日。書いていても疲れる。しかし、と思うのである。5パート全部が放送できなくとも2パートは On Air できたじゃないか、段取りもなにもすべては、日本の「常識はずれ」だったかもしれない、しかし、突破できないことはない。この体験でずいぶん勉強した、知識も得た、次はもっとうまくやる。それが「中国流」というものだ、といえなくはない。

 日本のメディア関係者に話したら、「あなたよくそんなことに力を貸せましたね。普通は怒りますよ、そんなバカなことは、できない!と」という。これが日本の「正しい常識」であることはいうまでもない。だがしかし、中国はやっていくだろうな、と私は思う。
 相互の交流が深まれば関係はよくなるというのは物事の半面しか語っていない。交流が深まれば深まるほど双方の「違い」が露呈するのだ。その「違い」をどう受けとめ、どうのりこえることができるのかが、今ふうに言えば、リアルな勝負となる。
 われわれに、この中国の「突破力」を理解する視界の広さがあるかどうか。

 問いは冒頭に戻る。
 われわれの中国認識は深いだろうか?!
 はっきり言えることは、われわれの尺度で考える当否や賛否とは関係なく、中国は突破していくだろう、やり遂げていくだろうということである。

 中国に対する認識を深くしなければならない。
 われわれにとって、これは古くて新しい問題である。しかし、いうほど容易いことではない。このことを知ることができるかどうか、今こそ問われている。今こそ、というのは、中国がもはや既成の枠組みに身の丈を合わせなければならない「リアクター」ではなく、世界の秩序を形づくる「アクター」の主要な「一人」としての存在を重くしているからだ。
 世界は変わりつつあるのだ。

 これまた、もはや言い古されたことかもしれない。しかし現実には、つまりリアルな世界では、これが実にむずかしい。
 中国の現在(いま)について、われわれはどれだけ理解できているだろうか。
 ほんの、ささやかな、一日の「できごと」であった。

 (筆者は元NHKアナウンサー・北東アジア動態研究会代表)


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