【コラム】
宗教・民族から見た同時代世界

両候補ともイスラム勢力頼みのインドネシア大統領選挙

荒木 重雄

 4月に投開票されるインドネシアの大統領選が過熱している。再選を目指す現職ジョコ・ウィドド氏(闘争民主党)と、前回選挙で惜敗した元陸軍特殊部隊司令官の野党党首プラボウォ・スビアント氏(グリンドラ党)の一騎打ちである。
 この選挙で注目される一つの点はイスラムとの関係である。国民は必ず宗教をもつべきとされるインドネシアでは、人口の約88%がイスラム教徒で、キリスト教徒が10%弱、ヒンドゥー教徒が2%弱、仏教徒が1%弱。この数字からも、イスラム教徒の動向が勝敗を左右することが推測されよう。本コラムではこの観点から大統領選を瞥見する。

◆◇ 権威主義者と宗教強硬派が結託

 開発独裁とよばれた政治で一時代を画したスハルト元大統領の娘婿で元陸軍特殊部隊司令官の肩書をもつプラボウォ氏が依拠するのは、インドネシアのイスラム勢力でも強硬派を代表するとされる「イスラム防衛戦線」(FPI)である。インドネシアのイスラムには穏健派・強硬派ともに独立以前からの伝統ある組織と運動があるが、FPIはそれらとは異なる新興団体で、もともとはスハルト時代、民主化運動を抑え込むため軍や警察が後ろ盾になって設立され、スハルト体制崩壊後は一旦凋落しながら、野党や右翼勢力の先兵として働くことで再び勢いをつけてきた。左翼団体への脅迫や、賭場や売春宿の襲撃などをこととするが、みかじめ料を徴収しているとの噂もあり、「イスラムやくざ」とも囁かれている。

 このFPIが一躍名を高からしめたのが2017年のジャカルタ特別州の州知事選挙であった。当時、現職で選挙に臨んでいたバスキ氏は、少数派の中華系キリスト教徒でありながら、汚職対策などの実績が評価され、好感をよんでトップを走っていた。ところが、選挙中の些細な発言をFPIがイスラム侮辱と捉え、10万人を動員した集会・デモなどネガティブ・キャンペーンを浴びせかけ、さらに宗教冒瀆罪で刑事告発して政治生命を断った。

 このFPIが今度は現職ジョコ氏の攻撃に回ったのだ。昨年12月、ジャカルタで大規模な反ジョコ集会を開いた。だが、この集会をめぐる顛末が、はしなくも挑戦者プラボウォ氏の資質を露呈することにもなった。
 たしかに集会では首都中心部を大勢のFPI=プラボウォ支持派が埋め尽くした。だが、参加人数を「1,100万人」と胸を張るプラボウォ氏に対し、地元メディアは警察発表などを引用して4万人とか10万人と報じた。これに対してプラボウォ氏は怒りを顕わにし、メディアを「フェイク・ニュース」「ウソばかり」と断じた。発言はメディア批判にとどまらず、「1%の金持ちが富の半分を独占」「エリート層はウソばかり」から「インドネシア・ファースト」「インドネシアを再び偉大に」と展開し、「トランプ流」ポピュリスト(大衆扇動家)ぶりを発揮した。

◆◇ 開明派が売りの現職候補も国家権力利用

 一方、現職候補のジョコ氏は、地方のインフラ整備など1期目の実績や世俗的実務派のイメージからプラボウォ氏に20ポイントほどの差をつけ、「政策を戦わせ、けなし合うことはやめよう」と呼びかけて選挙戦をスタートさせたが、前述、17年統一地方選でのジョコ氏の盟友バスキ氏の失脚の轍を警戒して、国内最大の穏健派イスラム組織「ナフダトゥール・ウラマ」(NU)の前総裁マアルフ氏を副大統領候補に立てた。インドネシア大統領選では正副大統領候補のペアを選ぶ仕組みだ。

 NUは、オランダ領東インド時代の1926年に創設されて以来、農村各地に設けたプサントレン(イスラム寄宿学校)を拠点に宗教教育と地域の福祉向上を中心とする活動をすすめ、同組織を国内最大の動員力をもつまでに育ててきた。
 寛容を旨とし、他宗教や世俗団体とも協力関係を築いて多くのNGOを創り、農村開発をはじめ、人権や民主主義の促進を重視する革新的な社会活動を展開してきた、いわばイスラム運動の王道の一つの典型である。
 政治とは程よい距離感を保つが、スハルト後の第4代大統領に同組織の前総裁ワヒド氏を擁立した力量をもつ。
 したがって民主派・開明派を標榜するジョコ陣営には、NU前総裁マアルフ氏の副大統領候補起用は妥当な判断といえよう。

 ところがその開明派・庶民派が売りのジョコ氏であるが、最近は再選狙いから反対勢力の摘発強化にのりだしている。捜査機関の反汚職委員会は、ジョコ氏が前回選挙で敗れたスマトラ島北部アチェ州(同州では同国で唯一、イスラム法を採用)の州知事など、反ジョコとおぼしき20余りの自治体首長を汚職容疑で逮捕した。疑惑を抱えてジョコ氏支持に寝返った政治家もいる。警察も「大統領交代」を掲げる市民運動への取り締まりを強化し、中心人物を別件容疑で逮捕したりしている。
 庶民派・民主派のイメージを損なう国家権力の濫用という批判も生まれている。

◆◇ 分断と不寛容がひろがる時代の雰囲気のなかで

 独立以前からイスラム勢力はインドネシアの政治に多大な影響を及ぼしてきたが、スハルト後でも、スハルトを継いだ大統領は、スハルトがイスラム勢力の大政翼賛化を図って設立したインドネシア・ムスリム知識人協会の前会長ハビビ氏であり、次の大統領は前述ナフダトゥール・ウラマの前総裁ワヒド氏であり、また総選挙の得票率でも開発統一党、民族覚醒党、国民信託党などイスラム系主要5党がつねに3割以上を占めるなど、その影響力は維持されてきた。

 ところが、前回14年の総選挙・大統領選挙では、イスラム系5党を合わせても得票率は10%台半ばで、大統領候補者もイスラムの影をほとんど払拭して闘った。その前後、政治面でのイスラム・パワーの凋落は顕著だった。ところがその一方で、タレント説教師のブームや、「ハラル認証」商品の普及や、お洒落なデザインの「イスラム・ファッション」の流行やの生活文化面、あるいは若者の婚前交渉や同性愛や飲酒への忌避感情など、価値観面でのイスラム化は著しかった。

 これは当時、筆者も当コラムに記したところだが、思うに、この5年ほどの間に生活文化面や価値観面から人々の内部に蓄えられたイスラム的な力が、米トランプ大統領の出現に象徴されるような分断とポピュリズムと不寛容が広がる世界的な風潮のなかで、再び政治との結びつきを強めはじめたようである。

 イスラム・パワーの動向に視線が偏りがちなインドネシア情勢であるが、その陰で、声を潜めている少数者の人たちもいる。スマトラ島では昨年8月、イスラムの礼拝を呼びかけるスピーカーの音が大きいと苦情を言った仏教徒の女性に、地裁が宗教冒瀆罪で禁錮1年6カ月の判決を下し、仏教寺院が襲撃された。ジョクジャカルタ特別州では12月、カトリック教徒が公営墓地に持ち込んだ木製の十字架がイスラム教徒に拒まれてT字形に切断された。キリスト教会やヒンドゥー寺院の破壊も相次ぐ。

 強硬派FPIに依拠するプラボゥオ氏が巻き返して勝っても、穏健派NUを後ろ盾とするジョコ氏が再選を果たしても、イスラム勢力に配慮した政権運営をせざるをえなくなるであろう大統領選後のインドネシア社会での、少数宗教者の境遇が懸念される。

 (元桜美林大学教授・『オルタ』編集委員)
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