【コラム】
ケニア・タイ二都物語―国連で25年----南の国から大好きな日本へ

上海に日本人が来た――抑留された思い出――

大賀 敏子

◆ イッチ、ニッ、サン、シッ……

 イギリス女性で88歳のスウ* は、ショートカットの銀髪と大きなサングラスが似合う。ローヒールのパンプスで、ゆっくりではあるが、しっかりした足取りで歩く。
 ロンドンで夫を看取った後、息子の任地であったバンコクへ移った。その息子が転勤しても動かず、もう20年一人暮らしだ。家事はもちろん、スマホもパソコンもこなす。2人の子供たちや旧友に会いに、毎年必ず海外旅行をする。行けなかったのは、がんの手術を受けた6年前とフライトがなくなってしまった今年だけだ。高齢なので、空港では車いすを頼むとのことだが。

 スウは「イッチ、ニッ、サン、シッ……」と、日本語で数えられる。柔道や空手を習ったわけではない。第二次世界大戦のとき上海にいて、日本軍の concentration camp** で暮らし、毎朝の点呼で教えられたためだ。

 *  本人の希望により、仮名。
 ** 本人がつかう言葉をそのまま表記した。邦訳は「強制収容所」

 上海は外国人居留民が多い国際的な街で、父親は戦争までは事業を営んでいた。そんなところに「Japanese came(日本人が来た)」と話す。親と兄姉、先生とクラスメートだけで回っていた10歳の少女の毎日に、突如として軍靴が踏み込んできた。

 キャンプにいたのは600人強。アメリカ人は「A」、イギリス人は「B」と書かれた腕章をつけさせられた。兄姉5人と両親、計7人が一室に住んだが、6台しかベッドが入らず、末っ子のスウは母親と一緒のベッドで寝た。ミルク、肉などは限られてはいたが、いちおうあった。
 キッチン、バス、トイレは共同だ。キャンプのなかでリーダー格だった父親は、公衆衛生のために特に重要だった上下水の管理を指揮していたようだ。天秤棒を背負った中国人が、毎日汚物を取りに来たが、たまに来ないことがあるとトイレがあふれた。
 朝の点呼のとき私語をとがめられ、兄が罰を受けたことがある。しばらく立たされたというようなものらしい。「日本人は、私たちにそれほどひどいことはしなかった。でも現地の中国人にはもっと厳しかった」と淡々と語る。

 終戦とともに、兄たちは英国領香港へ移転した。スウもハイスクールを卒業してから後を追った。両親は上海に残った。人生をふりかえっていちばん残念に思うことは、家族がバラバラになってしまったことだ。そのきっかけが concentration camp にあるとも言える。

◆ 楽しかった

 筆者はスウを知って1年ほどになるが、この「Japanese came」で始まる体験談を何度か聞かされている。筆者が日本人だから、つい思い出すのかもしれない。せめて「日本人が来た」と一般化せず、「日本軍が来た」と言ってくれれば、聞きやすいのだが。
 もっとも、被害を受けた側の思いは、それを与えた側が想像する以上に深いのだろう。筆者には、日本への本土・民間人攻撃に携わっていた米兵を父親に持つ友人がいる。「オヤジは命令に従っていただけ」と割り切られると、日本人の痛みはいかほどだったかと、聞きかじりの歴史の知識を話してしまう。頼まれもしないのに、つい日本代表のような気分になってしまうのだ。戦争は、いつまでも人と人を対立させる。

 しかしスウは、恨みつらみは言わない。「父母に守られていたから不安はなかった。同じ年頃の子供たちが大勢いて、むしろ楽しかった」とさえ。
 スウは意見をはっきり言い、行動力も勇気もある。いまも聖書を教えるリーダーだが、がんの手術を受けるまではタイ人に英語を教えていた。誰かがぼそぼそ話していると「はっきり話しなさい!」と声を飛ばす。牧師と見解の相違があって別の教会に移ったことがあるが、議論の顛末を聞かれれば、いまでも冷静に理論立てて説明する。

 毎年一人で海外旅行をすることは先述したが、つい昨年、バンコクでマンションを買い換えた。「役所も銀行もタイ語ばかりで英語を話してくれない」とこぼしながらも、不動産売買と移転に伴う手続きをこなした。
 先日、こんなこともあった。一人の女性が教会に逃げ込んできた。着替えもIDも持ち出せず、事情があって取りに返るのは危険だという。スウは「自宅はどこなの、いまから代わりに行って、取ってきてあげる」と、みなが唖然としてまうほどの行動力で立ち上がった。

 おとなしく、いつも自分を抑えて、他人の後ろに一歩下がっている、そんな人柄とは正反対だ。そんなスウだから、「上海に日本人が来た」せいでひどいめにあったと、言いたければ言うだろう。そう言わないのは、我慢しているのではなく、本心からだろう。

 実は、いまのスウは大きな不安をかかえている。コロナ禍による飛行機の運航停止が続けば、自分も子供たちも移動ができない。ひょっとすると、もう死ぬまで会えないのでは、と。いまの夢は、早く死んで、すでに他界した父母や兄姉に会うことだと言うくらいだから、寂しくてならないのだ。しかし、パニックになってはいない。なぜ平静を保てるのだろうか。

◆ 「いま」が贈り物

 日本人は、世界的にみて、道徳レベルがたいへん高い民族ではないかと筆者は思う。まじめで、こつこつと努力する人が多い。このため日本人は一般に、赦すとか償うとか立派なことをしなければいけない、不安や後悔はのりこえなければならないと、努力しようとふんばってしまう。
 スウは異なる。「私たちは自分を基準にして世界を見て、喜んだり怒ったりしてしまうが、実は、自分が何を望んでいるのか、何が自分にとって一番いいのか、何もわかってはいない」
 スウが子育てと介護に時間を費やした専業主婦だったから、世界の政治も社会もわかっていないという趣旨ではない。彼女が言っているのはこんな意味だ。

 神から見れば、およそ人間の知識は貧弱、判断力は稚拙で、間違えばかり犯す。その意味では、チャーチルもルーズベルトも、ヒトラーもエンペラーヒロヒトも、牧師もバチカン法王庁も、専業主婦のスウも、人間に過ぎず、五十歩百歩だ。忘れたくても忘れられない、赦そうとしても赦せるわけがない、ぬぐい去ろうとしても不安はどんどんわきあがってくる、そんな気持ちと、自力で戦おうとしてもうまくいくわけがない。ならば、「神は愛なり、悪いようにはぜったいなさらない」と信じ、いっさいを神に任せてしまえばいいのだ、と。

 過去の出来事や将来の不安で心をざわつかせる、そんな暇があったら、自分はいまを生きればいい。だからこそ、英語では“現在”のことを“プレゼント(贈り物)”と言うのだ。
 誰かが言っていた。スウの人生が信仰に支えられているのではない。信仰そのものがスウの姿をして、そこで息をして生きているように思えることがある、と。

◆ 聞いておきたいことはたくさんある

 自分に落ち度はないのに、人生がずたずたになってしまうことがある。あの人さえいなければ、あれさえなければと、なぜ私がこんな目にあわねばならないのかと、しょい込んだ運命に押しつぶされる。戦争はその典型だが、それ以外にも、親からの虐待、学校・職場でのいじめ、事故、災害、テロ、ジェノサイドなど多々ある。また、故意か偶然かを問わず、誰かの人生をずたずたにしてしまうこともあるかもしれない。しまったと思ったとしても、償えるものではないし、罪悪感はいつまでも容赦なく尾を引く。

 よく言われることではあるが、ずたずたになった人生を抱え込むことが一番つらいのではない。一番つらいのは、くやしい、うらみが消えない、できれば時間を巻き戻したいのにと、その出来事に支配され続けることを選んでしまうことではないだろうか。
 とは言え、語るのは簡単だが、不条理に慟哭する人に向かって、頑張って立ち直れと、さらにどやしつけるような精神論がむなしいだけのときも多々ある。人間にできることは、あまりに限られている。

 終戦にフォーカスした先月のオルタ広場には、厳粛な思いを新たにさせられた。あのころ銃を握った人たちはほとんど残っていない。スウのように、直接戦争体験のある人もどんどん消えている。戦争を抜きにして20世紀は語れない。聞いておきたいことはたくさんある。

 (元国連職員・バンコク在住)

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