【コラム】酔生夢死

マスクからみた政治学

岡田 充

 岸田政権が3月13日からコロナ感染禍で定着したマスクの着用を、「個人の判断」に委ねることにした。NHKをはじめTVのお昼のニュースは空港や駅、飲食店、コンビニ、病院など多くの人が集まる場所から「街の声」を拾い、賛否両論を伝えるのだった。
 新聞休刊日だったこの日、全国紙のデジタル版もやはりマスク問題を大きく取り上げた。目を引いたのが、「よくわかる」と題したコーナーで『マスク着用、13日から「個人の判断」 何が変わる?』という長文記事を掲載した全国経済紙。
 記事は、▽「個人の判断に委ねる」とは何か?▽企業の対応は?▽再び感染が拡大したらどうする?―に自問自答する内容。「個人の判断に委ねる?」の回答は「感染状況やその場のリスクに応じて、自分で着用したり、外したりを判断することが基本」。「自分で判断することが基本」としているのだから、それ以上の細かい説明と指南は必要なのだろうか。

 心臓と肺の持病を抱えるわたしはこの3年、外出の際は必ずマスクを着用しガードしてきた。ただ朝のウォーキングの時は「息苦しさ」が耐えられず、「個人の判断で」マスクは着けなかったが、それを咎められたことはない。
 マスク着用の基準は、要するに「感染を防ぎ、感染させない」ことに尽きる。何から何まで、「お上」に判断を委ねる日本社会の伝統的体質は、「お上と民」の距離と関係を示す日本社会の特殊性を物語る。
 記事によれば、厚労省のパンフレットは「個人の主体的な判断が尊重されるようご配慮をお願いします」と書いているそうだ。裏返せば、「個人の主体的判断」が尊重されないケースがいかに多いかということになる。事細かに「お上」に判断を仰ぐ日本社会の伝統的体質は、お上にとっては「御しやすい」対象に違いない。
 この新聞はおまけに『「脱マスク」へ混乱を避けたい』と題する社説までつけた。「個人の判断とは~中略~一斉に外せというメッセージでない。改めてこの点を周知させてもらいたい」「人々の困惑を招かぬよう、政府に丁寧な説明を求める」。

 ここまで読んでほぼ「抱腹絶倒」しかけたけれど、すぐ真顔に戻った。いくら大新聞といったって、多くの民が「困惑」しないようお上に「丁寧な説明を求める」という主張は、民を無知蒙昧な存在とみなす「衆愚論」なのではないか。「愚かな民」を賢明に支配・統治する「偉大なリーダー期待論」にも通じる。誰が隣の大国を「専制国家」と笑えるのか。
 安倍晋三元首相が退陣に追い込まれた理由の一つは、「安部のマスク」の国民向け配布だったと思う。マスクを着けるたびに思い出す「身体性」を持った政治の「あほらしさ」を、衆愚が揃って見抜いたのだった。(了)

(2023.3.20)
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