【コラム】
『論語』のわき道(1)

プロローグ

竹本 泰則


 会社勤めを終えて「日日是休日」を過ごす中で『論語』を読み始めた。以来幾年か経たが、今も気が向いたときに読み返したりしている。
 『論語』はある程度の年齢を重ねたあとから面白くなるといわれているが、そうかも知れない。しかしそれは何も『論語』に限らず、多くの文学作品に通じることではなかろうか。重ねた年輪が、より明瞭なそして実感を伴った理解を可能にするように思える。

 『論語』の面白さの一つは、文章表現にあるようだ。その文章は簡潔と評されるが、あえて言えば、それを超えて舌足らずの文章が多い。このために真意が分かりづらく、時に論理の飛躍としか言いようがない表現に出くわしたりする。そんなとき、何を言おうとしたのか、あるいは前の句と後の句はどうつながるのだろうかなどと迷い、考え込んでしまう。これはこれで面白い。

 大抵の解説書は現代日本語に完訳してくれているので、何も迷うこともなさそうなものである。しかし『論語』という書物は、その歴史的経緯からも、硬直的あるいは教条的な解釈に偏した傾向があり、今でもその残渣のようなものが漂う。更に文字、言語の意味の正確さを重んじるからであろうか、訳文自体がこなれず、分かりづらいことも少なくない。こうした憾みは中国文学の専門家の本により多く感じられる。

 その点、畑違いともいうべき人の解釈には面白いものが出てくる。例えば、全体の半分だけに終わっているが、フランス文学者の桑原武夫も『論語』を書いており、その見方には目新しさを感じさせる部分がある。最近の著作の中でも専門外の学者による本に独特の解釈が見られる。そうしたものにも触発されながら、自分なりの読みを考えてみる。どうせ素人の珍釈、奇説が関の山であるが、納得できる解にたどり着いたときは一人悦に入る。
 一方ではどうにもすっきりしないという難物も数多く残る。
 一人の賢哲にかぶれてしまうほどの純な気持ちは、馬齢を重ねるうちに薄れてしまった。試験などがあるわけでもないから、模範回答や正解にも無縁である。これからも本道とは別の道を勝手気ままに逍遥していこうと思う。

         ◇        ◇        ◇

   これを知るを これを知るとなし、知らざるを知らずとなす。これ知るなり

 よく知られた『論語』の一章の言葉である。この文章の前には「子曰く、由(ゆう)よ、女(なんじ)にこれを知ることを教えんか」という句が入る。孔子が、子路(しろ)と呼ばれる弟子の一人に、その本名「由」で呼びかけて語った言葉である。
 子路は勇気をとても大事にし、性格は剛直ながらいささかおっちょこちょいな面もあったといわれ、日本の『論語』愛読者の間では大層人気者である。中島敦はこの人を主題に『弟子(ていし)』という短編を書いている。

 この章は、一見、知っていること、知らないことについて、子供でも言いそうな単純な内容に読める。現に、『論語』を注解した古い時代の中国の学者は、素直にそのような解釈をしている。そこでは子路という人が知ったかぶりをしがちであったため、そのことを孔子がいさめた発言と解釈するのである。たしかに、この言葉は特定の人を対象としたものと考えることもできる。そうではなく一般論であるならば、子路に呼び掛けている言葉を省いてしまって、頭を「子曰く」だけにして、子路への呼びかけはない方が自然であり、ほかの章句の表現形式ともバランスがとれる。

 日本の学者は、この章を知・不知の分別として説くものが多い。中国史家の宮崎市定は「千古不変の真理。あらゆる学問の分野で、どこまで分っているかが分っている人があったなら、その人が第一人者」と解説する。桑原武夫は「人生におけるもっとも立派な教えの一つ。知っていることと、知っていないこととの区別を明確にすることが、個人としては、行動を明確にするし、また学問・技術などの進歩のもととなる」と述べている。
 一方、伊藤仁斎という江戸時代の学者は、この章に関して「知者とは真の知性の所有者であって、博大の知識の所有者ではない」といっている。これを引いた子安宣邦という学者は、知るに値することは何か、知らなくていいようなことは何かを弁別するという知性のあり方を教えるものだ述べている。
 言葉自体は難解なものではないが、さまざまな読み方が成り立つようである。一つ一つに肯きながら、さてどのように読んだものだろうと思案する。

         ◇        ◇        ◇

   知者(ちしゃ)は水を楽しみ、仁者(じんしゃ)は山を楽しむ
   知者は動き、仁者は静かなり
   知者は楽しみ、仁者は壽(いのちなが)し

 「水」は、「みず」の意味はもちろんあるが、川をいうときもこの字を使い、特に山と対になるときは、まず川の意である。「仁者」は孔子が理想とした人物像で、完璧な人間性が備わった人、「壽」は「寿命」の寿で長生きすることと注される。

 この章句も有名なものであるが、分かるようで分からない代表格でもある。
 斯界の大家である吉川幸次郎は「含蓄を含む条である。私は安易な解釈を加えることを、さしひかえる」とかわしている。桑原武夫も「注釈を加えれば恥をかくばかり」と逃げる。
 いくつかの解説書を比較してみたりするが、しっくりする名訳にはめぐりあっていない。

 この章がそうであるが、『論語』には、字句の意味を日本語にし、それをただ並べただけではわけが分からないという文章が出てくる。
 そういうところの解釈には読む人の経験、感性、考え方といったものが反映される。その故か『論語』を訳すことは、自らを、その馬鹿さ加減までを含めて、さらけ出すことだといわれる。
 自分だけの解釈をひそかに温めることにしよう。

 (「随想を書く会」メンバー)

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