【コラム】大原雄の『流儀』

ファンタジー・モーツァルト
~映画『プラハのモーツァルト』~

大原 雄


 35歳で夭折した天才音楽家・モーツアルトは、生涯の3分の1に当たる、ざっと10年は、旅の空の下で過ごした。パトロンや支援者に招かれて、各地で、演奏したり作曲したり、という生活を送り、現金収入を稼がなければ生きて行けなかった。著作権を始め権利関係が保護されていない時代の芸術家は、貧乏生活にも耐えなければならなかった。若くして結婚したモーツァルトは、さらに家庭的、あるいは家族的にも苦労した。
 旅の空の下では、当時はヨーロッパの地方都市だったチェコのプラハには、モーツアルトは数回滞在しているので、居心地がよかったのかもしれない。プラハのモーツァルトというのは、モーツァルトの人生では絶頂期だったのかもしれない。特に、1787年は、1月と10月の2回もプラハを訪れている。何があったのか。映画『プラハのモーツァルト』でジョン・スティーブンソン監督は、まさに、この1787年に絞り込んで、モーツァルトの生活を描いている。

 映画によれば、経済的な苦労も家族的な悩みも忘れて、プラハ滞在で、モーツァルトは音楽に取り組み、艶福家としての生活も楽しんだようである。「モーツアルトは、何者か」という課題に対するジョン・スティーブンソン監督の答案は、「女たらしのモーツァルト」のようであった。私は、さらにスクリーンの外側に二つの補助線を引いて、モーツァルトの別の部分を解明しようと挑戦してみた。二つの補助線は、幻のようなもので、スクリーンには、絶対に映し出されない。用が済めば、拙評とともに、消え去るのみ。

 モーツァルトといえば、小学生でも、音楽の時間に学んでいるから、誰もが知っているビッグネームだろう。ウォルフガング・アマデウス・モーツァルト。18世紀の音楽家。クラシック音楽に興味がない人でも曲名も少しは知っている。モーツァルトはウィーン古典派音楽の3大巨匠の一人。3大巨匠とは、ハイドン、ベートーヴェン、モーツァルト。つまり、人類の共通財産としての稀有な音楽家である。ヴォルフガングは、ドイツ語圏の男性名。ヴォルフ=狼、ガング=道、旅という意味。狼の道。勇ましく生きよ、とでも、親は願ったか。

 1756年1月17日、オーストリアのザルツブルグで生まれたモーツァルトは、2016年生誕260年になった。1791年12月5日にウィーンで逝去した、この夭折の天才音楽家は、35年10ヶ月という短い生涯を、まさに駆け抜けていった。音楽家、作曲家としては、凝縮した天才ぶりを発揮したが、私生活では、経済的にも家族的にも辛い体験をした。
 1782年26歳で結婚したモーツァルトは、生涯で4男2女の6人の子どもたちに恵まれたが、3人は、幼いまま亡くなってしまった。モーツァルト自身も、7人兄弟の末っ子として生まれ、5歳上の姉以外の5人は、幼児期に死亡している。この幼児たちの生存率の低さは、当時の社会状況、医療状況では、普通であった。まあ、そうはいうものの親の立場になれば、生まれてくる子どもたちが幼いまま、次々と亡くなって行くのを見るのは辛かっただろう。そういう苦難の時代、1784年、前年に幼いまま長男を亡くし、次男が生まれたばかりのモーツァルトは、フリーメイソンに加入する。

◆フリーメイソンとモーツァルト

 フリーメイソンの公式ホームページによれば、この組織は、「会員相互の特性と人格の向上をはかり、よき人々をさらに良くしようとする団体」であるとされているが、具体的な活動内容は公開されていない、いわば、秘密結社でもある。しかし、外形的な活動から窺えることはある。対外的には学校設営や慈善団体への寄付などのチャリティ活動をしている。よき人々の善行。「よき」とは何か。

 「フリーメイソンは何をしているのか」という問いは、ロータリークラブやライオンズクラブが何をしているのかという問いと同様であり、「ボーイスカウトを思い浮かべるのもよい」という答えがあるそうだ。私にはよく判らない。

 フリーメイソンの起源などは、諸説がありはっきりしないが、カトリックとの対立関係は長く、1738年には、ローマ教皇クレメンス12世がフリーメイソンの破門を教書で宣告している。モーツァルトがフリーメイソンに加入した頃の時代は、そういう時代であった。モーツァルトは、フリーメイソンに加入した翌年、フリーメイソンのために、葬送曲(K.477)を演奏している。ウィーンのシェーンブルン宮殿に招かれ、6歳でマリア・テレジアの前で演奏を披露したという天才児は、貧しい生活の中、「よき人たれ」という意識(「よき人」は、「よき生活か」。婆、上昇志向だろうな)が幼い頃から芽生え、幼い長男を失ったという心の痛手を克服しようという気持ちも強かったのかもしれない。

 イギリスとチェコの2016年共同製作作品の映画『プラハのモーツァルト』では、モーツァルトがフリーメイソンに加入した3年後にプラハを訪れた1787年の姿だけが描かれる。その前年、1786年5月、モーツァルト作曲のオペラ「フィガロの結婚」がウィーンで初演され、評判を呼ぶ。ただし、まだ、評価は不安定。初日こそ、大成功したと記録されているが、再演は、8回で打ち切られてしまった。しかし、30歳のモーツァルトの評価は、ウィーンだけでなく、ヨーロッパの各地にも広がり始めていて、1786年12月のプラハでの上演は成功し、1787年1月のプラハでは、現地に出向いたモーツァルト自らが指揮をして、人気を博した。モーツァルトは、この成功を踏まえて、プラハの劇場から新作オペラ「ドン・ジョヴァンニ」の作曲を依頼された。この1787年に絞り込んで、映画『プラハのモーツァルト』は、スクリーンに映し出される。

 映画『プラハのモーツァルト』は、1787年10月、モーツァルトが再び訪れたプラハで「ドン・ジョヴァンニ」を初演したという史実に想を得て、女たらしのドン・ジョヴァンニを主人公にした喜劇オペラ創作の背景に、モーツァルトを巻き込んだ華麗なる恋と横恋慕の果ての悲劇の物語が仕立て上げられた。

 生誕260年を記念して製作されたジョン・スティーブンソン監督作品の映画『プラハのモーツァルト』では、モーツァルトの、もう一つの私的な面をクローズアップする手法をとる。31歳のモーツァルトの、いわば人生の絶頂期の姿に絞って描き出そうとする。フリーメイソンとモーツァルトには光を当てないし、モーツァルトの生涯全ての追跡をするわけではない。だから、『プラハのモーツァルト』(原題は、『Interlude in Prague』。「Interlude」とは、幕間、間奏曲、あるいは間狂言などの意味)。その意味合いについては、おいおい語ろう。

 音楽的な成功の陰で、モーツァルトは、さらに生まれたばかりの三男を亡くしている。相次ぐ子どもたちの死。死の影は、モーツァルトの短い生涯を何度も覆う。公私の生活に刺す光と影。

◆「百塔の都」プラハの美しさ

 この映画の見どころは、まず、「百塔の都」と言われるチェコの首都・プラハの街並みの美しさであると思う。野外ロケのプラハのシーンが美しい。旧市街のプラハ歴史地区などに残る中世以来の建物。ナチスドイツの支配など激動の時代を乗り越えながらも、多くの古い建物が破壊を免れ残されてきたプラハは、千年の都である。チェスキー・クルムロフ宮殿劇場(映画では、「ノスティッツ劇場」と想定された劇場でオペラの上演シーンが撮影されている)、庭園、街中の石畳の路地など。18世紀にモーツァルト自身も訪れた市街地や建物もロケの舞台に使われていて、馬車を走らせたりしている。

 1984年に製作され、1985年のアカデミー賞を8部門で受賞したアメリカ製作の映画「アマデウス」も、野外ロケはほとんどが、プラハの古い町並みであった。屋内撮影もプラハの歴史的建造物が多かったというが、『プラハのモーツァルト』も、同じ手法を踏襲していると思う。だから、スクリーンに映し出される「背景」の数々は、『プラハのモーツァルト』でも見逃せないシーンだ。古都の美を楽しみたい映画だ。

 18世紀のプラハを再現する美術や衣装、小道具の担当者。時代考証の衣装を担当したのは、映画『おみおくりの作法』(2013年製作)のパム・ダウン、美術担当は、アカデミー賞受賞デザイナーのルチャーナ・アリギなど。その見せ場は、仮面舞踊会(マスカレード)のシーンだろう。
 荘厳な雰囲気、華麗なる衣装、正体を隠す艶冶な仮面。仮面の下に隠れた数々の瞳。そして、その視線。フロアーを踊り回る人々。秘密めかした小声の会話。18世紀の上流社会の栄華と退廃が再現される。このマスカレードの場面にこそ、フリーメイソンの秘密性、非公開性のような「棒のごときもの」が貫かれたまま、蹲(うずくま)っているように、私には思えた。フリーメイソンについては、『プラハのモーツァルト』では、全く触れていないが、マスカレードの場面の妖艶さは、秘密結社・フリーメイソンの持ち味のようなものが滲み出しているように思え、興味深く見た。

◆音楽ドラマとしての見どころ(1)

 もう一つの見どころというか、聴きどころは、音楽ドラマとしての映画『プラハのモーツァルト』の魅力だ。まずは、歴史に残る二つのオペラの名作。

 喜劇オペラ「フィガロの結婚」(K.492)の原作は、ピエール・ド・ボーマルシェの戯曲「たわけた一日、あるいはフィガロの結婚」である。時は18世紀、舞台はスペイン、セヴィリャのアルマヴィーヴァ伯爵の館。伯爵の従者で理髪師・フィガロ、同じ伯爵家の小間使・スザンナの結婚式当日のこと。二人の主人である伯爵が、手先の音楽教師バジリオを使って、スザンナを誘惑しているという。フィガロは怒って、伯爵をこらしめる作戦を考える、という。

 スザンナとフィガロ、男爵ならぬ「伯爵」のスザンナへの横恋慕は、そのまま、映画『プラハのモーツァルト』の、スザンナ、モーツァルト、サロカ男爵の三角関係と容易に重なる。「フィガロの結婚」は、また、中世に廃止された「初夜権」(領内の若い女性が結婚する前夜、領主が独占的に「味見」、つまり、女性の人格無視。女性の処女性を権力者が奪うという権利)をカリカチュアした芝居である。映画『プラハのモーツァルト』の悪徳「男爵」(バロン)・サロカが、モーツァルトと恋仲になったソプラノ歌手スザンナの処女を奪おうと執拗に迫り続けるのは、アルマヴィーヴァ伯爵の素行をパロディ化していると言える。

 もう一つ。喜劇オペラ「ドン・ジョヴァンニ」(K.527)は、スペインの女たらし、ドン・ファン伝説が原案。時は17世紀、舞台はスペイン。伝説のドン・ファンことドン・ジョヴァンニは、女であれば誰でも口説く。その挙句、最後には自分が誘惑した女の父親の亡霊によって地獄に落される、という物語。

贅言;「ドン・ジョヴァンニ」の序曲の作曲を忘れていたモーツァルトは、初演初日の前夜、徹夜で書き上げたというエピソードが伝えられているが、このエピソードは、今回の映画の中でも使われている。

◆モーツァルトと鶴屋南北

 「ドン・ジョヴァンニ」も、また、映画『プラハのモーツァルト』に出てくる悪徳男爵(バロン)・サロカのパロディである。映画で言えば、この辺りのキャラクター作りは、歌舞伎の悪人たち、「実悪」=バロン・サロカ、「色悪」=モーツァルト、というような連想を私の脳内に浮かばせてくれて興味深い。映画『プラハのモーツァルト』が、元々、意図的に「フィガロの結婚」や「ドン・ジョヴァンニ」の枠組みやキャラクターを下敷きにしているのである。そういう連想からすれば、喜劇オペラ「ドン・ジョヴァンニ」のように、悪人を主人公に据えるモーツァルト自身の発想は、江戸時代の歌舞伎の狂言作者・四代目鶴屋南北の発想に近いかもしれない。

*遅咲きの熟年者・鶴屋南北の生涯は、1755(宝暦5)年から1829(文政12)年。
*夭折の天才児・モーツァルトの生涯は、1756年から1791年。

 こうして二人の生沒年を列記してみると、歿年こそ、35歳で夭折したモーツァルトと74歳まで生きた南北とは大きく違うが、生年を比べれば、まさに、同時代人だと判る。東西で、情報の交流もほとんどない時代だろうに、時代相の共通性ゆえか、二人が同じような発想をしていることに興味津々。もっとも、下積み生活が30年近くあった南北は狂言作者として芽を出すのは晩生(おくて)で、立作者として独り立ちしたのは、満年齢の48歳と遅咲きだったから、活躍するのは、1803年以降(四代目南北を襲名するのは、1811年)、モーツァルトが亡くなった10年以上も後ではあるが……。

◆音楽ドラマとしての見どころ(2)

 映画『プラハのモーツァルト』で演奏される「フィガロの結婚」と「ドン・ジョヴァンニ」の場面も見どころ。当時のノスティッツ劇場と想定された劇場(現在のチェスキー・クルムロフ宮殿劇場)での演奏場面である。実際に演奏したのは、プラハ市立フィルファーモニー管弦楽団の人たち。皆、当時のような衣装をまとい、白銀の鬘をつけ、18世紀のプラハ人になりきって、演奏していた。

 このほか、映画に登場するモーツァルト作曲の主な作品は、次のようなものである。「証聖者の荘厳晩課」(K.339~「主をほめたたえよ」)、ピアノソナタ第14番ハ短調(K.457)、ディヴェルティメント変ロ長調(K.137)ほか。

 クラシックファンには、18世紀のプラハを再現する映像とともに、耳から入ってくるモーツァルトの音楽も合わせて楽しめる。

◆女たらし・モーツァルト

 映画『プラハのモーツァルト』では、新作オペラ「フィガロの結婚」のプラハ初演の好評により、当時のノスティッツ劇場のパトロンである名門貴族のサロカ男爵らの寄付による招待でモーツァルトがプラハに招かれたという想定でドラマは進む。

 プラハに来たモーツァルトは、10年来の知人であり、プラハのオペラ歌手ヨゼファ・ドウシェク夫人の邸宅(別荘「ベトラルムカ」)に逗留し、プラハの上流階級の人たちと交流しながら、「フィガロの結婚」のリハーサルと新たに注文された新作オペラ「ドン・ジョヴァンニ」の作曲に取り掛かる。モテモテのモーツァルトには、担当の小間使・バルバリーナがつくが、モーツァルトは、作曲の合間に、早速、若い小間使と懇(ねんご)ろになる。

 一方、リハーサルの途中で、歌手の一人が突然役をおりてしまう。代役としてバロン(男爵)・サロカが指名したのが市会議員の娘で、美貌のソプラノ歌手スザンナ・ルプタック。女好きのモーツァルトは、スザンナに一目惚れ。スザンナは、処女らしく妻帯者のモーツァルトには当初こそ警戒心を抱いたものの、無邪気な神童のようなモーツァルトの天真爛漫さに次第に魅了されてしまう。美しい古都・プラハで繰り広げられる美男美女のメロドラマ。仮面舞踊会(マスカレード)が、ファンタジー・モーツァルトのハイライト場面になる。
 それはまた、既に触れたように、36歳の誕生日まで、後、2ヶ月というところで、人生を駆け抜けてしまうモーツァルトの生涯の絶頂期でもあったのではないか。モーツァルトは、亡くなるまで、数回プラハを訪ねている。ウィーンとは違って、プラハは、居心地が良かったのだろうな、きっと。まさに、プラハ体験は、モーツァルトにとって、絶頂期と同義語のようなキーワードであったのだろう。

 まあ、妻との手紙が多数残っているモーツァルト。実際には、愛妻家ぶりがうかがえる。史実はいざ知らず、イギリスの新進男優、アナイリン・バーナードが演じるモーツァルトの女たらしぶりは、彼の短い人生の絶頂期のシンボルのように受け止められた。アナイリン・バーナードの眼が実に色っぽい。男ながら、コミックに登場する目の大きな美少女のような瞳。男をも惑わしそう。
 横恋慕のバロン(男爵)の手で、破滅した人生へと蹴落とされる悲劇のヒロイン・スザンナは、モーフィッド・クラークが演じる。その横恋慕の憎まれ役の中年男のバロン・サロカは、ジェームス・ピュアフォイが演じている。バロン・サロカは、ドン・ジョヴァンニを再現した人物造形であっただろうか。スザンナに目をつけ、彼女とモーツァルトの恋の邪魔だてをする。まあ、判りやすい展開ではあるが……。仕掛けの大元も、下敷きは喜劇「フィガロの結婚」と即座に思い浮かぶだろう。

◆映画の本質は、コミック・モーツァルト

 もう一つ、コミカルな要素は、バロン・サロカの元に派遣されたザルツブルグ大司教の特使の登場だ。モーツァルトは、知られているようにオーストリアのザルツブルグの生まれである。モーツァルトは、16歳でザルツブルグ宮廷の正式な宮廷楽団員になったほか、23歳でザルツブルグ大聖堂のオルガン奏者となる。しかし、1781年、25歳の時にザルツブルグ大司教と決裂し、ウィーンに逃避した。大司教はモーツァルトに対して、執念深く害意を持ち続けているようで、特使は、モーツァルトを社会的に抹殺するよう命じられてきたらしい。バロン・サロカは、特使を利用して、モーツァルトとスザンナの密会の証拠を探らせようとする。モーツァルトを監視し、追跡する特使ら(男爵雇いの情報部員たち)。この追跡劇が、夜のプラハの石畳の道で展開される。モーツァルトとスザンナの乗った馬車を追う特使たち。途中で降りて、路地の闇に消えるモーツァルト。魔都、プラハ。

 横恋慕男のバロン・サロカは、スザンナ・ルプタックの父親の市会議員に圧力をかけ、己の欲望成就に協力させようと、ルプタック議員に娘との結婚を申し入れる。プラハの実力者として名門男爵家との成婚を喜ぶ父親は、娘にバロン・サロカに嫁ぐよう強いる。父親も娘の人権無視。

 スザンナは、悪名高い男爵家に嫁ぐ前に、モーツァルトに処女を捧げる決意をする。二人のセックスシーンは、まさにファンタジーの極致。いまどきの映画では珍しいくらいの、おとなしくて、淡い性愛場面が展開する。

 業を煮やしたバロン・サロカは、男爵の権力をかざして、劇場からスザンナを拉致し、自宅へ連れ込み、諍いの果てに、スザンナの首を絞めて、殺してしまう。映画の結末は、横恋慕の男爵(バロン)による殺人事件となる。仮面舞踊会(マスカレード)、オペラ観劇、情報部員たちの暗躍。横恋慕の果ての殺人事件。映画『プラハのモーツァルト』は、喜劇の味がする悲劇であった。

 35歳で亡くなっているモーツァルトの「晩年」と言っても、30歳代だろうが、著作権の確立していない時代であり、亡くなるまでの数年間は収入も減り、借金を求める手紙が多く残されている。史実のモーツァルト自身も、品行は決して良かったとはいえず、その上、浪費癖(モーツァルトの収入は多かったというが、モーツァルトは常に先々の収入をあてにしながら前借りで家計を運営していたとか、フリーメイソンへの献金やギャンブルに使い果たしていたとか、いろいろな説があるようだ)があった、という。

 品行宜しからずのモーツァルトを巻き込んだ三角関係の果ては、嫉妬に狂った中年男の猟色家、バロン・サロカの常軌を逸した行為を引き起こしたスザンナ殺人事件、というコミックのような筋の顛末となった。この映画が描き出すモーツァルトの人生の見どころは、もちろん音楽であるし、その当時の時代や地域のモーツァルトへの受容の様子であろうが、艶冶な仮面の下で妖しく動く瞳の持ち主、モーツァルト像も見逃せない。若い女性にモテモテのモーツァルトの存在感は、この瞳(め)にあり! スザンナも惑わされただろうが、映画の観客も惑わされるだろう。この瞳こそ、この映画の最大の見どころだと思う。ファンタジー・モーツァルトは、ここへ来て、コミック・モーツァルトになったようである。

贅言;原題の意味を考えてみた。原題は、『Interlude in Prague』。「Interlude」とは、既に触れたように、幕間、間奏曲、あるいは間狂言などの意味がある。18世紀のプラハで上演された二つの喜劇オペラの幕間に演じられた間奏曲か、「寸劇」(間狂言)か。横恋慕男爵による三角関係殺人事の顛末話、というところか?

◆私が出会ったモーツアルトの足跡

 2009年の秋、私はオーストリアのリンツで開かれた国際ペン大会に参加した。ついでに、ザルツブルクへ足を伸ばした。当時の日記がある。一部補筆しながら再録したい。

<リンツからザルツブルグへ。>
 09年10・21 曇り。午前6時に目覚め、起床。朝食は、7時から取る。同行者たちは8時半にロビー集合で、ザルツブルグへ出発。リンツ駅まで、タクシー分乗。10時前の列車に乗る。ミュンヘン行きの列車。11時過ぎに、ザルツブルグに到着。途中、沿線は、霧が濃くなる。雪も残っている。先週末に降雪があったという。

 ザルツブルグ駅に着く頃には、晴れて来た。市内観光では、ザルツブルグ王宮の庭園、フルトベングラーとモーツァルトの生家などを見て回る。王宮とザルツァハ川を挟んで対岸にある生家は、共同住宅、いわば、アパートという感じ。自然光を取り入れるように工夫された部屋、部屋の作りがおもしろい。モーツァルトの生まれた部屋も保存され、展示室になっている。生家は記念博物館となっており、モーツァルトが少年時代に使用したバイオリンや、自筆譜などが展示されている。
 街中の広場の屋台で、ソーセージとパンを食べて、昼食。午後、別のバスに乗り換えて、郊外の湖へ。3ヶ所の湖を廻る。ひとつは、船で対岸に渡る。サウンドオブミュージックの舞台となった場所を辿るツアー。教会なども見て回る。

 午後6時8分、ザルツブルグを列車で発つ。ウィーン西駅行きの列車。こちらは、コンパートメントの客室。7時半、リンツ着。路面電車の通りまで、歩き、ザルツブルグ出身者の集まるという居酒屋風レストランに入る。午後8時、店内は、男の客が多い、賑わっている。ビールなど、2杯戴く。皆で、徒歩で、ホテルに戻る。入浴、洗髪。午後11時、就寝。

<リンツからウィーンへ。>
 09年10・24 曇り。朝、3時頃から目覚めてしまう。4時半に起床。出発の準備を整えて、5時のタクシーでリンツ駅へ。5時45分の列車で、ウィーンへ。8時前、夜明けのウィーン西駅着。駅前のホテルに荷物を預ける。地下鉄で、中心部へ。9時から11時前まで半日コース。馬車による観光。宮殿、庭園などを見学したが、モーツァルトが一時住んでいたアパートも観る。外観だけ。ウィーン時代、モーツァルトが住んだ家(借家)は、10数軒あるという。ただ一つ、現存するのがここ。

(注)1781年に25歳でウィーンに出てきたモーツァルトは、3年後の1784年から1787年までの3年間、このアパートの2階に住んでいた。つまり、フリーメイスンに加入した頃から、プラハに招待されて、作曲したオペラが好評を博し始めた時期まである。ウィーン時代、宮廷や教会に就職しなかったモーツァルトの経済状態は、安定しなかったが、「宮仕え」をしなくてもよくなっただけ、自由があり、モーツァルトはザルツブルク時代とは違って、より主観的な音楽を生み出していくようになる。

 この映画は、12月2日(土)から東京のヒューマントラストシネマ有楽町、新宿武蔵野館ほか全国各地でロードショー公開される。

 (ジャーナリスト(元NHK社会部記者)、日本ペンクラブ理事、オルタ編集委員)

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