【アメリカの話題】

ジェンダーの平等を目指して(6)

武田 尚子

■政治的権利の獲得

 政治的権利の獲得については、フランスでも、イギリスでも、アメリカでも、なかなか順調には運ばなかった。1867年に、経済学者、スチュアート・ミルはイギリス議会を前にして、英国最初の、婦人の投票権を求める弁論を行った。『法の名の下に、一方の性を今一方の性に従属させている関係そのものが誤りであり、これが人類の進歩を阻む主な障害の一つになっていると私は確信している。これは完全な平等に位置を譲るべきである』と。彼は著述の中でも、家庭および社会での男女平等を断固として要求した。
 イギリス女性はフォーセット夫人の指導のもとに政治的に団結した。

 フランスの女たちは、1866−1871年にかけて女性の境遇を研究し、さらにまた、不貞な妻に裏切られた亭主に『その女を生かしておくな』と忠告した『椿姫』の作者、アレクサンドル・デュマ・フィスを相手取って激しい論戦を取り交わしたマリア・ドレームの後に従った。

 1869年に<女の権利>を創刊したレオン・リシエは1878年に開かれた女権国際会議のお膳立てをした。投票権問題の口火を切ったのはユベルチーヌ・オークレールであり、彼女は<女性投票>というグループと<女性市民>という新聞を創立した。多くの協会が彼女の影響下に設立されたが、内輪もめが多く、あまり実績をあげられなかった。女は女としての連帯性をもたず、最初からそれぞれの階級に結びつけられている。ブルジョワ女性とプロレタリア女性とでは利害は一致するわけにはいかないのである。

 革命派の女権論者はサン・シモン派やマルクス派の伝統につながっている。ルイズ・ミッシェルという一女性が女権運動に反対を表明し、この運動は階級闘争のために総動員するべき努力を脇道にそらすだけだと理由を挙げた。資本の廃止によって、女性の境遇も自づから改善されるという考え方である。

 1879年には社会主義連盟が男女両性平等の声明をし、それからはもはや女権運動と社会主義との結びつきを否定するものはなくなった。女性は労働者全般の解放のうちに自由を期待することになり、自分自身の利害は二儀的になってしまった。
 これと反対に、ブルジョワ女性は現状のままの社会の中での新しい権利を要求する。彼女らは革命家になる意志はなく、ただ、わいせつ文書や売淫の禁止といった風俗改革を行おうとする。1897年には裁判書類の中で女性が証人に立ちうる法律が通過した。しかし弁護士になろうとした女の法学博士はその要求を断られた。

 1898年には、女は、商事裁判所に対する選挙権と、労働参議会に対する選挙権および被選挙権、貧民救済参議会および美術学校への加入許可を獲得する。1901年に初めて、女性投票権の問題が議会に提出された。

 この頃から女権運動は勢いを加えだした。1909年にはブランシュヴィック夫人を指導者とする婦人投票権のためのフランス連盟が設立され、講演や集会や会議や示威を行った。1910年にはトマが女性投票権のための提案をしたがいれられず、1918年に再び繰り返され、1919年の議会で勝利を収めた。にもかかわらずこれは1922年に上院で破られた。

 状況はきわめて複雑であり、ブランシュヴィック婦人のいわゆる独立女権主義の他にも、キリスト教的女権主義がこれに参加し、ブノワ15世は1919年に女性の投票権のための声明を行った。カトリック教徒たちは女性がフランスにおいて信心深い保守的な要素を代表していると考えていた。急進派が心配しているのもまさにこの点であり、彼等が反対する真の理由は、女性に投票を許可した場合に、票数を保守系に食われることなのである

 上院でも多数のカソリック系議員や、共和同盟の一派や極左の政党などは女性の投票に賛成であるが、全議員の過半数は反対である。上院は延期手段を用いて、女性投票権の討議を拒否してきた。ところが1932年になって、下院が319票対1票で女性に選挙権を与える修正案を可決すると、上院は数回にわたって討議を行い、その結果修正案は否決された。議事録には反女権論者の半世紀にわたる論議が全て示されていて、非常に興味深い。

 第一は、我々は女のためを思えばこそ投票させたくないのだといった女思いの議論であり、プルードン流の<娼婦か主婦か>の二者択一に満足する<まことの女性>が称揚される。投票などすると、女は魅力を失ってしまうだろう。女は偶像にまつられているいまの台座を自らおりるようなまねはやめた方がよい。投票者になる事で女は一切を失いこそすれ、何一つ得するものはない。女は投票用紙などもたずとも、ちゃんと男を統治しているではないか。

 あるいは、女性の場所は家である。政治論議は夫婦間に不和をかもすだろう。またあるいは、女は男に比べて知能も教育も劣っている。女が投票するなら、男まで女性化してしまうだろう。政治教育のない女というものは男の言いなりに投票するだろう。女はもし自由になりたければ、その前に洋裁店から解放される事だ。などなど。
 このように、いずれも内容の貧弱な反対説にも関わらず、フランス女性が政治的能力を獲得するためには1945年まで待たねばならなかった。

 1893年からニュージーランドでは女性に完全な権利をあたえており、オーストラリアも1908年にはそれにつづいた。イギリスやアメリカでは勝利は一筋縄ではいかなかった。
 ヴィクトリア朝時代のイギリスは女を家庭に縛り付けていたので、ジェーン・オースチンは隠れてものを書いたし、ジョージ・エリオットやエミリー・ブロンテになるためには格別の勇気と運命が必要だった。

■イギリス女性の活躍

 イギリス女性はつとにフォーセット夫人の指導のもとに政治的に団結した。
 1903年頃から、女性の権利要求が独特の動きを見せる。パンクハースト一家がロンドンで<女性社会政治同盟>を創立した。そして労働政党と結びついて大胆に戦闘的行動に取りかかる。女が純粋に女性としてのはっきりした努力をしたのはこれが史上最初である。彼女らは15年にわたって、圧迫的政策を押し通し、暴力を否定しつつ、巧妙にその代用品を考えだした。

 自由党の集会の途中に、彼女たちは<女性に投票権を>と記した旗を押し立ててアルバート・ホールになだれ込んだり、ハイドパークとトラファルガ広場で集会を開き演説をする。作戦、デモの際には警官を侮辱したり投石したりして訴訟沙汰を引き起こし、拘置所内ではハンスト作戦に出るという活動ぶりで醵金を集め、何百万という男女を味方に引き入れ、世論を動かしてついに1907年に200人の議員が女性の投票権のための委員会を構成した。以後、毎年、そのうちの何人かの女性議員が女性の投票権を求める法律を提案し毎年却下される。1907年には、女性社会政治同盟V.S.P.U.の女たちが議会を目指して突撃し、それには肩掛けを着た女工の他に、数名の貴族の女性も参加したが、警官に撃退された。 1908年には、一部の炭坑が既婚女性の仕事を禁じようとしたのに反対して、ランカシヤの婦人労働者がロンドンで蹶起大会をおこなった。

 1910年7月18日、女性の投票権にかんする法案提出の当日には、延々9キロに及ぶ行列がロンドン市内を練り歩く。法案が否決されると、また集会と逮捕が反復されるが、1912年には、これまでより過激な作戦をとり、空家を焼き払い、花壇を踏み荒らし、警察に投石し、同時にロイド・ジョージやエドワード・グレー卿へ次々代表を派遣する。アルバート・ホールに潜んでいてロイド・ジョージ演説の途中で騒がしく妨害する、などなど、様々な行動で対抗した。しかし戦争のために、彼女たちの行動は中止した。

 これらの行動がどの程度まで事態を進捗させたかは疑問である。投票権は先ず1918年に制限された形のもとに、ついで1928年に無制限にイギリス女性に与えられることになった。この成功を得させたものは、主に彼女らが戦争中に行った国家への奉仕であった。

■アメリカ女性の投票権要求の道程

 アメリカの女性は最初、ヨーロッパよりも解放されていた。開拓時代には男と肩を並べて働き、戦った。女の数は男に比べひどくすくなかったために尊重された。しかしその状況は次第にヨーロッパに近づいて行った。女性への配慮は維持され、教養への権利と家庭内での支配的な地位は温存され、法律は女性に宗教的、道徳的な役柄を授けていたが、それでも社会の要求は男性の手に独占されていた。

 1830年頃から、自分たちの権利を要求する女たちが現れ始め、黒人のための運動をも起こした。
 1840年ロンドンで開かれた奴隷反対会議から閉め出されたため、クエーカー教徒のルクレシア・モットが女権論者の会を創立した。1840年7月18日、セネカフォールズに結集した会議において、彼女たちは今後のアメリカの女権論の範例となる一つの宣言書を作成した。『男も女も平等に作られており、創造主によって、奪い取る事のできない権利を授けられて居る。しかし男性は結婚した女性を公人として死人にしてしまう。男性の活動範囲を決めるのはエホバだけなのにそのエホバの特権を男性は横取りしてしまった』

 3年後のビーチャー・ストウ夫人の<トムおじの小屋>は黒人のために大きな世論を呼び起こした。エマーソンとリンカーンは女権運動を支持する。南北戦争に、女性は熱烈に参加する。しかし黒人に投票権を与える修正案の『皮膚の色も、性の別も...投票権の妨げにはならない』という彼女たちの要求はいれられなかった。

 1869年に、女権運動の偉大な指導者アンソニー嬢は、女性の投票権を目指す全国連盟を設立し、同年、ワイオミング州は女性に投票権を与えた。1893年にコロラド州が、1896年にアイオワ州がつづいたものの、その後は遅々としてすすまない。

 とはいえ全部で9つの州だけだが女性に投票権を与えたのである。1913年には投票権要求運動はイギリスの戦闘的運動を手本にした。ウイルソン大統領から、旗とのぼりをたて大行列を行う許可を得、講演やデモをも組織した。女性投票の認められている9州からは有権女性が大挙してロンドンに押し掛け、国全体のために女性投票権を要求する。

 シカゴでは初めて1つの党に結集した女性たちが、女性解放を叫び、この集まりは<女性党>に発展した。1917年には投票論者はホワイトハウスの門前に旗を手に、追っ払えないように門柵にからだを縛り付けて順番に座り込んだ。6ヶ月目に彼女らは逮捕されて、オクスカカの懲治監獄におくられたが、ハンストのあげく釈放された。政府もついに議会に投票委員会を設置する事に同意した。女性党はワシントンで会議を開き、その期の終わりに、女性投票権のための修正案が議会に提出され、1918年1月10日に可決された。その後上院の賛同を待ったが、平坦な道ではなく、この修正案は2票の差で否決される。1919年の6月にこの修正案は共和党会議によって可決された。続く10年間には男女の平等権獲得の戦いがつづけられた。

 1928年にハヴァナで開かれたアメリカ共和州第6回会合において、女性は国際女性委員会の創立を獲得する。19のアメリカ共和州が、女性に一切の権利の平等を与える規約に署名した。1933年に、モンテヴィデオの協定は国際規約によって女性の地位を向上させた。

 北欧では、ノルウエーの女性が1917年に、フィンランドの女性は1906年に投票権を手に入れたが、重要な女権運動の存在したスエーデンは、保守党の敵意にぶつかり、さらに数年待たねばならなかった。

■ファシズムと女性解放

 イタリアでは、ファシズムが徹底的に女権運動の発展を押さえた。協会の同盟を求め、家庭を尊重し、女性の奴隷化の伝統を延長して、ファシストのイタリアは女を国家権力とその夫に二重に隷属させた。

 ドイツは状況が異なり、1790年に学生ヒッペルがドイツ女権運動の最初の宣言を行った。1848年に、ドイツの最初の女権論者ルイゼ・オットーは祖国の変革に協力する権利を女性のために要求したが、その女権論は根本的には国家主義的だった。1865年に、彼女は<ドイツ女性総同盟>を設立した。一方、夫人労働者団体や連盟に、社会主義者の夫人同盟が現れ始めた。ドイツの社会主義者たちは、両性の不公平の廃止を要求する。ドイツの女性は1914年女性国民軍を組織させる事に失敗するが、戦争の遂行に熱心に協力した。ドイツの敗戦後、彼女たちは投票権を獲得し、政治生活に参加する。ローザ・ルクセンブルグは、リープクネヒトと肩を並べて戦い、1919年、暗殺された。

 大部分のドイツ女性は秩序の側に味方し、そのうちの数人は国会に席を占める。ヒットラーは今一度、解放された女性たちに、台所、信仰、子供、という、ナポレオンの理想を押し付けたのだった。<女が一人でも交じっているのは、国会の不名誉である>と彼はいった。ナチズムは反カトリック、反ブルジョワだったので、母親に特権的な地位を与えた。私生児の母親や私生児に与えられた保護は、女性を大きく結婚のきずなから解放した。スパルタのように、女性はどんな個人のものより国家のものであるとされた。『そのため女性は資本主義のもとに生きているブルジョワ女性より以上に、またある意味ではより以下の自主性を与えられることになった。 ボーボワール』

■ソヴィエトの女権運動

 女権運動がもっとも大きな成果を収めたのはソヴィエト同盟であった。この運動は19世紀に、知識階級の女子学生の間で先ず起った。しかし彼女たちは革命運動全体の方により大きな関心を抱いていた。ヴェラ・ザスリッチは1878年にはトレポフ警視総監を殺害した。日露戦争の間は、女たちは多くの職業で男の代わりを務めた。彼女たちは自己意識に目覚めだし、ロシア女権同盟は男女の政治上の平等を要求した。議会の中に女権要求議員団が作られたが、効果はなく、夫人労働者の解放が実現されるのは、革命によってである。

 1905年から、女性労働者たちは大衆の政治ストに大幅に参加しバリケードの先頭に立った。1917年、革命の数日前の国際婦人デーにあたって、彼女たちはパンと平和と夫たちの帰還を要求して、ペテルスブルグの市街をデモ行進した。10月の蜂起にも参加した。1918年から1920年にかけては、彼女たちはソ同盟の侵入者に対する戦いにおいて、経済的にも、軍事的にも重大な役割を果たした。マルクス主義の伝統に忠実に、レーニンは女性解放を労働者の解放に結びつけて、女性に政治上経済上の平等をあたえた。

 1936年の憲法122条は次のように定めている『ソ同盟においては、婦人は経済、文化、公共、政治の諸生活の全ての領域で、男子と平等の権利を有する。』

 女性は男性労働者との賃金の平等を勝ち取り生産に意欲を持って参加した。今次大戦において、ロシア婦人がどんなに目覚ましい働きをしたかはよく知られている通りだ。彼女たちは鉱山や筏流しや鉄道のような、従来は男子の分野にも多大の労力を提供した。また飛行士や落下傘兵としても偉勲を立てた。

 こうして女性が公的生活におおいに参加したため、一つの難しい問題が持ち上がった。すなわち、家族生活の中での女の役割をどうするかという事だ。自由結婚の尊重や、離婚の便宜や、堕胎の法的認可により、男に対する女の自由が確立され、妊娠休暇や託児所や幼稚園などに関する法律ができて、母親の負担が軽減された、確実にわかっているのは今日では人口回復の必要から、従来と違った家族政策が出現しているという事である、家族は社会の基本細胞とみられており、女性は労働者でありまた主婦である。1941年6月7日の法律でさらに強化された法律以来、堕胎は禁止され、離婚制度もほとんど廃止され、姦通は社会の非難を受ける。

 最近、国際連合で行われた会議で、婦人問題委員会は男女の権利の平等を全ての国家が認める事を要求し、その法律の具体化を促すためにいくつかの動議を可決した。こうして、勝利は得られたようである。未来は、従来は男性だけのものであった社会へ女性がますます深く同化する方向にすすむとしか考えられない、と、ボーボワールは結んだ。

 ボーボワールの大著『第二の性』に、主として欧米に置ける女性の権利意識の発展を学びながら、ようやく現代に到達した。次回からはこの碩学を離れ、できるだけ今日の女性の置かれた状況を、筆者の住むアメリカを中心に探ってみたい。
 読者諸氏のご承知の通り、この面の世界の歴史、ことにアメリカのそれは、今日目覚ましい動きをみせていて興奮させられる。前史時代からの女性史を顧みた今、思えば長い旅路であったという感慨を押さえることができない。けれども、これが終点ではない。眠らされていた人類の半数の知性と創造力とエネルギーを総動員して男性のそれに加え、<ともに生きる社会>を本当に実現できますように。

 なお、初回でも申し上げたが、第二の性の書かれたのは、1949−53年であった事をお断りしておきたい。


 (筆者は米国ニュージャーシー州在住・翻訳家)
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