【エッセー】

ジェンダー、今女性の役割の再構築を目指してできること(5)

                     高沢 英子

 3月8日は国際女性デーとして、世界の女性が、男女平等のために立ち上がる記念日になっている。この記念日は、歴史的には1904年(明治37年)3月8日、ニュ—ヨ—クで女性労働者たちが、待遇改善と婦人参政権を要求してデモをしたことに因み、1910年(明治43年)国際社会主義者会議で、ドイツの社会主義者で党の婦人部長だったクララ・ツェトキンが「女性の政治的自由と平等のためにたたかう」記念の日とするよう提唱したことから始まった。
 そのとき提案された記念日の趣旨は次のようなものだった.
(1)女性だけの運動ではなく,自国の労働者階級を代表する政治組織や労働組合組織といっしょに行われるものである。
(2)女性の参政権をはじめとして,あらゆる女性の問題を社会主義の立場から取り上げる。
(3)国際的な連帯のもとに行う。

 日本では、1910年(明治43年)といえば、5月、社会主義者、幸徳秋水が、「大逆罪」(註1)を適用され、当時の社会主義者根絶を目的として、30名近くの一斉検挙が行われた年である。そして、翌1911年1月24日、幸徳秋水以下24名の死刑が執行された。この事件では、ただひとり、女性刑死者もいる。菅野スガである。彼女については、のちにもう少し詳しく触れるつもりである。
 註1)大逆罪とは天皇や皇后その他皇族の暗殺を企てたとする者に適用される刑法で、1882年に施行され、のちに大日本帝国憲法制定後1908年に施行された刑法73条で、天皇、皇后、皇太子等を狙って危害を加えたり、加えようとする罪をさす。しかし、幸徳秋水らはそのような計画は持っておらず、同志の一部にそういう動きはあったものの、殆どでっち上げの判決だったことが現在では明らかになっている。

 同じく1910年5月には、日本政府は強硬な手段で、台湾を武力討伐を行い、韓国の警察権を手中に収め、夏には韓国併合条約の調印が行われ、8月29日公式発表と共に同時に韓国併合に関する証書が下り、韓国は朝鮮と名を改めさせられている。

 また同年、石川啄木は「時代閉塞の現状」を発表、次のように述べている。
 「今日我々のうち誰でもまず心を鎮めて、かの強権と我々自身との関係を考えてみたならば、必ずそこに予想外に大きい疎隔(不和ではない)の横たわっていることを発見して驚くに違いない。実にかの日本のすべての女子が、明治新社会の形成をまったく男子の手に委ねた結果として、過去四十年の間一に男子の奴隷として規定、訓練され(法規の上にも、教育の上にも、はたまた実際の家庭の上にも)、しかもそれに満足——すくなくともそれに抗弁する理由を知らずにいるごとく、我々青年もまた同じ理由によって、すべて国家についての問題においては(それが今日の問題であろうと、我々自身の時代たる明日の問題であろうと)、まったく父兄の手に一任しているのである。これ我々自身の希望、もしくは便宜によるか、父兄の希望、便宜によるか、あるいはまた両者のともに意識せざる他の原因によるかはべつとして、ともかくも以上の状態は事実である。国家という問題が我々の脳裡に入ってくるのは、ただそれが我々の個人的利害に関係する時だけである。そうしてそれが過ぎてしまえば、ふたたび他人同志になるのである」。
 啄木が鋭く見据えて指摘した日本人の国民性は、現在でもさほど変わっていないのではないか、と考えさせられるのは、不幸なことではないだろうか。

 ちなみに、国際社会での、この記念日の最大の事件としては、1917年のロシア革命があげられる。3月8日ペテルブルグで行われた女性労働者を中心としたデモが、男性労働者から、さらに兵士まで巻き込んだ大規模な蜂起となり、最終的に帝政を崩壊に追い込んだのである。

 以来70年、国連は、1975年にこの日を正式に「国際婦人デー」と定め、現在は国連事務総長が、女性の十全かつ平等な社会参加の環境を整備するよう、加盟国に対し呼びかける日となった。
 さらに1981年には「国連女性差別撤廃条約」を発効、それにもとづく各国のさまざまな働きを調査、報告書をまとめている。

 しかし、2002年、国連人権高等弁務官のメアリー・ロビンソン(Mary Robinson、アイルランド初の女性大統領)は、21世紀に向けて「女性が権利の獲得に向けたこれまでの歩みを祝うと同時に「女性被害者は、いまだに跡を絶たないことを想起する日」である」と言明する文書を発表している。

 日本の女性問題は、国際婦人デー提起などに呼応して徐々に気運の高まった国際社会の動きと対比して、明治の開国以来、どのような経過をたどって今日まで来たか。スイスの世界経済フォーラムが昨年発表した男女平等指数によると、日本は136ヶ国中105位で、先進国とのあいだに大きな差がついている。
 雇用状況の中身を見ると、2人に1人が非正規雇用、給料格差も男性の約2分の1。第1子出産後離職する割合6割。さらに他のどの分野においても、女性の参画は遅れているという。

 具体的に理由はいろいろ挙げられるが、雇用に関する限り、識者は1985年に「男女雇用機会均等法」が成立してからも依然として女性の立場は改善されず「均等法」の実効性が低いこと。働く人を守ってきた「労働法」が次々規制緩和されたことを挙げている。

 こうした傾向の根底にあるのは、やはり日本の社会全体にひそむ依然として改善されない女性蔑視と人権意識の低さにあると思う。さらにそれには政府関係者自体の意識の低さもおおいにかかわっている、といわねばならない。
 また、多年の国民心情や考える習慣(人はそれを伝統という名で呼びたがる)がしらずしらずそれらの意識を都合よく支える働きをし、その結果、ウォルフレン氏の観察にもある通り、日本では依然として、「富める国の貧しい国民」と、そこに不承不承隷従して暮す女子供は、ほしがりません勝つまでは、とばかり、がんばらされているのである。

 国際女性デーに関しては、わが国でも、1921年(大正10年)4月、社会主義者の堺利彦の娘、当時18歳の堺真柄の提唱で、日本初の女性社会主義団体「赤瀾会」が結成されている。境真柄は、山川菊栄や伊藤野枝を顧問とし、社会主義者の家族や親戚で構成されたメンバー42名。児童文学作家の北川千代なども会員の一人だった。赤瀾会という命名の趣旨は、社会主義(赤色)の潮流に、さざ波くらいは起こしたいというのが願いという慎ましい意図を表明してはいるが、顧問に、青鞜運動の中心人物であった伊藤野枝と、女性問題にはじめて、より科学的、批判的視点を持ち込んだとされる山川菊栄を択んだという点、会の活動に、心情派と理性派のバランスをとろうという工夫が見られる。

 しかし、結成1週間後の第二回メーデーで、20名が新橋から飛び入りで参加したが、その場でことごとく検束されてしまう。当時の日本では、女性は、夫や子どもに仕えるものであるという思想が、ますます牢固として居座っていたので、政治結社に参加することはもとより、政治演説を聴くことさえ、表むきは禁じられていたので、メーデー参加などはもってのほかだったのである。

 赤瀾会はそれにも屈せず、堺真柄はその後もたびたび検束、拘禁を繰りかえし、入獄もしているが、3月8日の記念日には集会を開催している。しかし、1923年(大正12年)5月のメーデーに堺真柄が再び逮捕され、9月には関東大震災で、伊藤野枝と大杉栄が帝国陸軍憲兵大尉甘粕正彦らに惨殺される、という事件が起こるという相次ぐ苦難の中で、赤瀾会そのものは自然消滅してしまった。

 ともあれ、明治の開国以来、為政者たちが、近代国家の形を整えて行くに際してやってきたことを振り返るとき、そこに顕著に見られるのは、ことあるごとに、強権をもって、自由な発言に対して言論弾圧を繰り返してきたという姿勢と、そうした施政方針に疑問をさしはさもうともせず、なすすべもなく、それに身をゆだねてきた大多数の国民の姿である。
 文明開化の旗印を掲げて近代国家への道を踏み出したものの、西欧の哲学や宗教に基づいて改革を進めようとする動きを嗅ぎつけるや、たちまち強圧をもってそれを封じ込めにかかり、女性は、かれらに都合のよい教育方針の下に、ひたすら良妻賢母たることを強いられ、家を守り、国家有為の息子たちを世に送り出すことに生涯を捧げることこそ、人間として最良の道と信じ込まされて生きてきた。こうして、伝統の名のもとに牢固とした男性優位の立場と、為政者任せの姿勢をとらされ続けた歴史を思うと、今後も男女平等問題が公正なかたちですんなり実現させることができるかどうか。見通しは暗いといわざるを得ない。

 「和魂洋才」などという便宜的な用語を作り出し、国家有為の人材になるにはそれでなければならない、などと教育した結果、ひとびとはすべての状況で、事の本質究明を避ける姿勢をとり続ける習慣を持つようになってしまっているのではなかろうか。和魂などという曖昧な用語で、ひとびとの心を縛り付け、洋才のみを貪欲に取り込んで、磨きをかけ、先進国に追いつき、強い国に仕立て上げようともくろむのは、あまりにも拙速且つ便宜的過ぎるであろう。こうした砂の上に家を建てるようなやり方で、国民が真に幸福を享受できるわけがない。

 結果的に、女性問題に限らず、この国の社会問題の根底に常に横たわってきたのは、ひとびとが持っている危機意識の低さと、保守的な体制順応意識、さらにその底にあるのは、個人的自立心の本質的なレベルの低さではないだろうか。
 そこに見られるのは、依然として、啄木云うところの、政府の強権意識と民衆との関係に横たわる予想外の疎隔と、すべてが「便宜」のみで動くのがより現実的で賢い生き方とされる閉じられた社会の姿である。

 高群逸枝が「世間並み、この言葉、呪われてあれ!」と叫んだのも、こうした上っ滑りの閉塞的な社会にたいする自然な怒りの表現にほかならない。

 日本での女性問題を考えるにあたって、まずこうした歴史の体質を検証し、近代国家としての歪みを明確に認識することからはじめない限り、問題は解決しないと思うのである。その意味で、1868年の明治の開国以来日本社会がどんな状況で進展してきたかを、ふりかえっておおまかに整理してみたい。
 問題を一応太平洋戦争の戦前と戦後に分け、さらに戦前における歴史的社会背景とそのなかでの女性運動のゆくえをできうるかぎり具体的に検討してみたい。

1) 自由民権思想と女性問題

 1868年の開国にあたって、それまで徳川幕府体制下で、学問、思想は政府の手によって管理されているという政治体制の下にあった日本社会が、開国による急激な近代化の変化に適応できるような成熟は望めなかったのは自然な成り行きだった。
 民衆のあたまの切り替えと新思想による啓蒙活動は急務であったが、自由討議とか、自主的集団の多様な形成、などといってもそう簡単に実現できるわけがなく、現実に、藩閥政府は、混乱した世情をとりまとめるのに精いっぱいの状態で、成果をあげるのはなかなか困難ではなかったろうかと想像がつく。

 政府の介入で、早々と解散してしまった「明六社」ではあるが、繰り返すように、設立に賛同して集まった知識人達の大半が留学経験をもち、西洋の近代文明と多様な思想に触れた人たちで、近代文明に対する理解度も高く、人権に関する見識も一流だったといわねばならない。

 女性問題一つをとっても、その後同人たちの運動が広げた波紋は可なり広範に日本社会に浸透し、社会のより進歩的な改革に一定の成果はあげたと思う。社会正義の立場に立って、それまでの女性の弱い立場を擁護改善しようとこころみたかれらの努力は、幾分付け焼刃の嫌いはあるにしても、効果はあったはずである。
 なお、彼らの思想は、根本的には「天賦人権論」だと武田清子は述べている。言いかえると、天が人間に権利をあたえているという思想で、自然法思想にもとづく自然権の思想であると。

 これは、おそらく18世紀イギリスを始めとしてヨーロッパでさかんに論じられたホッブス、ロックの政治と一般社会の関係論や、フランスのルソーの「人間不平等起源論」や「社会契約論」の影響を多大に受けて形成された進歩した西欧の知識社会と、思想界の空気を吸った彼らが体得した人権思想で、キリスト教思想の天の超越的、普遍的法概念が非宗教化されて把握された合理的理性的啓蒙思想だった、と思う。そしてそこから、生じた近代化をめざしての新しい主張のひとつが婦人解放論であった、というのである。

 具体的には、メンバーの一人津田真の廃娼論が、法令を変えさせる梃子になったことは前回紹介したが、会長の森有礼は日本で最初に一夫一婦論を書き、自身それを実行しようとつとめている(今では当然のこうしたことさえ、当時は評判になるほど、日本では女性の立場は低かったのである)。
 また、イギリス留学から帰国した中村正直は、明六雑誌に「人間改造論」を書き、キリスト教の洗礼を受け、サミュエル・スマイルズの「自助論」の翻訳(「西国立志伝」は当時のベストセラーで、文明開化期の日本の青年達を大いに奮起させたという)やスチュアート・ミルの「自由論」(日本訳「自由の理」)で思想界に大きな影響を与えた。さらにそうした観点から、日本の女子教育に大きな貢献をしたことが女性問題にとっての最大の功績であろう。自邸の庭に男女共学の私塾を作り、女史ももっと政治的啓蒙が必要だとするカナダのメソジスト教会宣教師夫妻による女子教育などを実行、山川菊栄の母千世もそこで学んだという。のちに東京女高師の校長もつとめており、幼児教育にも熱心で、日本に「幼稚園」を始めて作り、その必要性を説く、という開拓的な働きをしたひとでもあった。

 さらに注目されるのは「日本は婦人にとって地獄だ」と言ってのけた福沢諭吉の働きである。早くから一貫して人権思想を説き、「天は人の上に人を作らず、人の下に人を作らず」という有名な言葉の通り、男女を問わず、すべての人間が天のもとで平等である、という考えのもとに、わかりやすい言葉で、自由、自主、独立、自尊の人間となるためになにが障害か、なにが真の人間の闘うべき敵か?を非常に明快に捕らえ、多くの著書でその考えを披瀝した。数多い彼の仕事の中で、婦人問題もまた重要な位置を占めていたが、彼はもっぱら、婦人の自覚をうながすまえに、男性の横暴、不品行を具体的に指摘し、それを改めることを主眼にした男性教育論に主眼を置いていたのは前述したとおりである。それに関しては、江戸時代前期に、女性の生きる指標ともされ、広く教訓文書として用いられた、貝原益軒の「女大学」を槍玉に挙げ、痛烈な批判を浴びせた。益軒の「女大学」が、何を教示しようとしたか、その内容を読んで、驚かされるのは、これが1716年に刊行されて以来、日本の女性が身につけるべき処世訓としてひろく読むことを強いられたという事もさることながら、以来太平洋戦争前まで女子教育の教本的書物として規範的役割を果してきた。という事実である。

 「女大学」に述べられている「妻は夫を主君として仕えよ」などという教えを、いまだに本気で思っている女性はいないと思うが、その痕跡は、男女ともに日本人の心の奥底に、隠然と存在しているのではないかと思わされるのも事実である。さらに「嫁いだら夫の両親を実の親以上に大切にせよ」、などという教えは、私の世代には、まだ模範的美徳として真面目に主張している女性が現に存在する。

 「婦人は勤勉でなければならぬ。歌舞伎や、神社仏閣等人の多く集まる場所に行くのは四十歳未満の婦人は好ましくない」「夫の目から見て不埒で都合の悪い妻は離縁するべし」などなど。また「神仏に頼って祈りすぎてもいけない。人事を尽くせ」、といわれると、人事とはなんですか、と聞きたくなるし、じゃあ、神風にたよらず、バケツで焼夷弾を消さなくちゃいけなかったんですね、といいたくなったりするわけで、江戸時代当時の婦人は、これをどう考えていたのだろうか、と考えてしまう。

 ともかく、福沢諭吉の「新女大学」では、これに反して、子育てに男子の協力の必須であることを既に力説、全般に、彼の説くところは、今も充分通用する合理性をそなえており、なぜ諭吉の「新女大学」が軽視され、益軒の「女大学」が、重視されたのか、そのあたり、日本の教育界の旧態依然の体質と、男女の序列意識に凝り固まった社会意識のかたくなさが痛感され、日本の開かれた近代化の困難さを、今更考えさせられるのである。

 ともあれ「新女大学」では婦人の妊娠出産についても「父たる者は其苦労を分ち、たとい戸外の業務あるも事情の許す限りは時をぬすんで小児の養育に助力し、暫くにても妻を休息せしむ可し」とし「夫婦は両親の一家とは同居すべきでない」とし「新夫婦が竈を別にする丈けは我輩の飽くまでも主張する所なり」と説いているのは当時としては非常に進んだ考えで、「例えば家の相続男子に嫁を貰うか、又は娘に相続の養子する場合にも、新旧両夫婦は一家に同居せずして、其一組は近隣なり又は屋敷中の別戸なり、又或は家計の許さゞることあらば同一の家屋中にても一切の世帯を別々にして、詰る所は新旧両夫婦相触るゝの点を少なくすること至極の肝要なり」といい、「年齢も異なり、衣服飲食百般の事に就て思想好嗜の同じからざるは当然」であるから、余計なトラブルを避けるためにも距離を置くがよい、とし「相互に他の内事秘密に立入らざれば、新旧恰も独立して自から家計経営の自由を得るのみならず、其遠ざかるこそ相引くの道にして、遠目に見れば相互に憎からず、舅姑と嫁との間も知らず識らず和合して、家族団欒の幸福敢て期す可し」としている。即ち新夫婦は互いに睦みあい、新旧あい争うようなことは避けたほうがうまくゆくと説き、これは「畢竟人の罪に非ず、習慣の然らしむる所にして、新旧夫婦共に自から不愉快と知りながら、近く相接して自から苦しむ。居家法の最も拙なるものと言う可し」と新時代にふさわしい家族像を提示し、家族和合の極意を縷々説いているが、人間心理と社会通念をわきまえた良識ある判断は、今読んでも傾聴に値する。

 いっぽうで母親たる女性が「子供養育の天職を忘れて浮かれ浮かるゝが如きは決して之を許さず。此点に就ては西洋流の交際法にも感服せざるもの甚だ多し」といい、「又婦人は其身の境遇よりして家に居り家事を司どるが故に、生理病理に就て多少の心得なくて叶わぬことなり。・・・是等の事に就ては世間に原書もあり翻訳書もあり、之を読むは左までの苦労にあらず、婦人の為めには却て面白かる可し」などと実に細かく説いている。当時の世相をうかがわせる点で、これもまた興味深い。

 以上ざっと明治初期の日本の女性を取り巻く社会環境と、法制度に対する啓蒙思想による改革の動きのいくつかを紹介してきたが、惜しむらくは当時の日本の状況は、結局、すべて西欧の進んだ状況を見聞して目覚めた男性側の行動が中心で、女性自身は、いまだ自発的行動を起こすまでには成熟していなかった。それまでの日本の女子の地位と教育の極度な低さのために、当時としては思想的に男性側の論説に頼らざるを得ず、女性問題は、あくまでも男性主体の動きだった。

 そしてかれら啓蒙家たちの進んだ思想が立ち向かったのは、社会で優位にある男子の意識改革と、政府の不備な法制度改革を求めることであった。しかし、彼ら新思想の持ち主達が対象とした女性達は、どちらかといえば上層階級の子女達であって、あらゆる階層の女性たちが真に主体的人間として、独自にひろく社会に働きかけ、互いに連携する手段を曲りなりに持つようになるまで、まだまだ道は遠かったのである。

 こうして19世紀になって、遅ればせながら近代化に向かった日本において女性解放の問題がさらに活発化するのは、1880年以降、明治も中期にさしかかるころであり、そうした社会運動の大きな原動力となったのは、キリスト教思想であった。

 次回は、それを手がかりに、日本近代の男女平等思想が、どのような道筋を辿って形成され、実現の方向に進むことになったか、そしてそれが再びどんな紆余曲折をたどって苦難のみちを歩むことになっていったか、などの点をとりあげ、考察してみたい。

 (筆者は東京都在住・エッセーイスト)


最新号トップ掲載号トップ直前のページへ戻るページのトップバックナンバー執筆者一覧