■ ガン告知から抗がん剤まで (2)          黒岩 義之


  ◇退院後の取り組み 


 
  久しぶりに家に帰って、さてこれからどうするか考えた。退院したからといっ
て病気が治ったわけではない。相手がガンであり、ましてガンの中でも難病で延
命率の低い膵臓ガンである。何時、転移・再発がおこるか分らない。何が何時起
きてもじたばたしない覚悟が必要だが、さりとてすべてを運命と諦めて、なげや
りな生活を送ることも出来ない。退院を喜び病気の回復に希望を持っている家内
の顔を見ていると、とてもそんないい加減な態度は許されない。
  ともかくいきなりゴルフや旅行は望むべくもないのだから、ごく普通の日常生
活が送れるよう体力の回復をまず心掛けることに決めた。
  実行に着手したひとつは、入院生活の延長で、朝晩、体温と血圧、体重の測定
を欠かさず一日の便通の回数と内容とともにパソコンの表に打ち込むことだった
。これをプリント・アウトして東京女子医大での定期検診に持ち込み、患者がこ
れだけ体調に注意していることを示せば、医師もいい加減な診察はすまいという
計算からで、今もずっと続けている。
 
朝のウオーキングも退院翌日から始めた。当初は自宅の周囲を10分程度、そ
ろそろと歩く程度にとどめたが、次第に距離を伸ばし、月末には坂を下ったり上
ったりを含めて30分くらいの歩行が出来るようになった。6月は快晴の日が多
く、木々の緑が目を楽しませてくれた。
  三つ目、新に日常生活に取り入れたのが午後の昼寝である。朝のウオーキング
の影響もあるのかも知れないが、退院後暫くは、午後になると疲労を感じベッド
に横になりたくなることがしばしばだった。そう言うと家内が心配するので、表
向き健康法と称して午後、1時間程度の昼寝を宣言した。私はどうも昼日中、寝
られないたちなのだが、ベッドで目を瞑るだけでも疲労は取れるだろうと横にな
った。時にはうとうとして2時間くらい寝たこともあったろうか。
 
これが、退院後、私が実行し始めた療養法だが、午前中は必ず書斎でパソコン
に向かい本を読んだ。突然のガン告知、入院、手術、しかも生死の境を彷徨して
何より後悔したことは、やり残した“仕事”があったからだ。
“仕事”といっても別にたいしたことではないのだが、ここ10年、ひそかに書
き溜めてきた雑文の最終稿が手付かずのままであった。
  この雑文は、10年余前、“毎日が日曜日”の生活に入ったとき、学生運動や
アルバイトに追われて不勉強に終始した大学生活を悔いるあまり、もう一度、専
攻した日本の近・現代史を自分なりに見直してみようと殊勝な志を立て、関連の
書物をひもとき、“或る女性への手紙”という形式で纏めてきたもので、入院直
前には、最後の章にとりかかったところだった。それだけに、“もしかしたら”
と完結できぬ悔いが胸に重く塞がっていた。だから退院後、まずこれに手を付け
、7月16日に脱稿した。入院中の胸のつかえがとれるような気がしたものであ
る。

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  ◇抗癌剤投与に踏み切る
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  そうこうしているうちに、6月27日の退院後第一回の検診日が迫ってきた。
前述したように、手術後は抗癌剤治療を行う、抗癌剤は“ジェムザール”(点滴
薬)を使用、と主治医から告げられていたので、まず間違いなく抗癌剤の投与が
行われるだろう。果たして副作用は大丈夫だろうか、それが一番の懸念であった

  抗癌剤の副作用についてはかねて聞かされていたし、退院後の或る日、従兄弟
の高橋秀正君から懇切な忠告を電話で受けた。彼自身、大腸ガンで都内の病院に
入院、手術を受け、現在は退院して自宅療養中で、既に5年を経過しているが、
医師が勧める抗癌剤投与を一切拒否して喧嘩になったという。
  「抗癌剤など使いなさんな。頭髪が抜けたり、嘔吐、下痢、食欲不振など起こ
して体力を消耗するだけ、碌なことはないよ」と断固たる口調で言い、彼自ら探
り当てて抗癌剤の代わりに服用してきた「ハナビラタケ」の健康食品を教えてく
れた。5年間、この健康食品を服用し続けて、いまはガン細胞が消えてしまった
というのだ。

早速、教えてくれた販売元の「ユニチカ」に電話してパンフを送ってもらい、
同社が開発した「ハナビラタケ」の錠剤(商品名「白幻鳳凰」)のカプセル
(100粒入り 9450円)を選んで毎月1日定期的に届けるよう注文し
た。秀正君の推薦なら間違いあるまいという、真に自主性のない選択であった
が、その後、秀正君の兄、健三さんから「ハナビラタケの可能性」という本を
送っていただいた。著者は小澤博樹という病院長で、内容の紹介は避けるが、
「幻のキノコ」といわれた「「ハナビラタケ」の人工栽培に成功した話から制
癌剤として効用が著しく認められた多くの臨床例が紹介されていた。大変参考
になり心強く感じて、私も7月から毎日服用を始めた。
  ただ27日の検診日にこの本を持参して藤田女医の意見を質してみたのだが、
「その種のサプリメントはいろいろありますが、効果があるとは一概に言えませ
んね」と関心があるようには見受けられなかった。ガン専攻の医師にもいろいろ
な立場があるということだろう。
  この日の検診では、問診のあと予定通り抗癌剤投与を指示された。秀正君のよ
うに医師と喧嘩してまで抗癌剤拒否を貫く度胸も自信もない私は唯々諾々として
ケアルームへ、付き添いの家内を待たせて室内に入り、血圧、体温測定後、長椅
子に座ってジェムザールの点滴を受けた。所要時間は約四十分、その間、副作用
が起こるかと緊張したが、別に何も異状は起こらなかった。看護師さんに聞くと
、点滴の途中で嘔吐を催したり気分が悪くなったりする人も少なくないそうだ。
それにしてもケアルームで点滴を受ける患者の多いこと、全部が全部ガン患者で
はあるまいが、少なからず同病がいることは間違いない。なにがなし気休めを感
ずるのだからおかしなことである。
  副作用が起きたら、その時はその時、なにか打つ手はあるだろうと腹を括った
気持ちになった。

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  ◇副作用チェック手帳
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  抗癌剤の投与が終わると、看護師さんから「副作用チェック手帳」なるものを
手渡された。次の投与まで1週間、記載の項目ごとに副作用の有無、程度を0か
ら4まで5段階で毎日チェックせよというのだ。その程度の目安が記されている
ので、これからガンになる人の参考に紹介しておこう。
  項目は、まず「日常生活への影響(ニコニコ度)」からで「全く問題なく活動
できる、無症状、元気」がグレード0、「ある程度の症状はあるが、一人で歩行
でき軽作業や座っての作業は出来る、例、軽い家事、事務作業」グレード1、「
一人で歩行でき自分の身の回りのことは全てできるが、作業は出来ない、ときに
、又しばしば介助が必要、日中の50%以上はベット外で過ごす」グレード2、
「限られた自分の身の回りのことしか出来ない、介助が必要、日中の50%以上
をベットか椅子で過ごす」グレート3、「全く動けない、自分の身の回りのこと
は全く出来ない、完全にベットか椅子で過ごす」グレード4、という分類、その
他は以下の通りになっている。

◇グレード  0   1     2      3     4
◇食欲不振  なし 食欲がない 食事量が  殆ど食事が 重篤 要点滴
                明らかに減少 出来ない。

◇吐き気   なし  食べられる 食事量が 殆ど食事が   重篤
                 明らかに減少 出来ない。
          
◇嘔 吐   なし (1日)1回  2ー5回    6回以上  重篤 
◇便秘    なし 下剤又は食事の工夫が必要  下剤が必要(いつも) 
摘便又は浣腸が必要(頑固)(いつも)      重篤
◇下痢    なし  1ー3回   4ー6回   7回以上    重篤  

◇疲労感   なし 軽度増すが日常 一部の日常生 日常生活に支障 重篤
           生活に問題なし  活が困難  あり(重症)  重篤
◇口内炎   なし 痛みのないただれ 粘膜の痛み、  同上    重篤
           軽度の痛み   ただれ、腫れ  食べられない 重篤
                  食べられる
◇知覚障害  なし 症状はなく、診察  しびれはあるが  同上  活動不
能 (しびれ)    検査で手足の感覚 日常生活に支障なし 支障あり
          の低下が分る                
          

このグレード内容を見ても抗癌剤の副作用がさまざまで並々でないことが分る。
  さて、私はどうだったのか。
  この手帳の初めのページを繰ってみると、最初の投与日は何事もなかったが、
3日目の6月29日には「午後37度台の発熱あり。夕刻には下がる。多少ダル
サを感ずる」とメモが記され、「ニコニコ度」と「疲労感」がグレード1になっ
ている。翌30日から7月3日まで4日間「下痢」が続き、30日の「ニコニコ
度」がグレード1、「疲労感」は四日間グレード1が続いた。
  さらに2週目の投与日、7月4日からは3日間、夜中に37度4ー5分の微熱
が数時間続き、6日には微熱から急に熱が高まり38度7分まで上がって、家内
が慌てて氷枕を用意するなどの騒ぎを生じた。しかしいずれの場合、翌朝には平
熱に下がったので、病院に駆け込むほどには至らなかった。
  微熱はその後、9月初めに一回あり、高熱も9月7日に夜、38度3分という
ことがあったが、これも一時的ですぐ回復した。
藤田女医の診断では、微熱は抗癌剤の副作用と見られるが、高熱は腸内の細菌が
胆管に紛れ込んで悪さをするのが原因だそうだ。
  人間の腸の中には善玉、悪玉様々の細菌がうようよしていることはよく知られ
ているが、これらの細菌が胆管や膵管に入り込んでこないのは、十二指腸への出
口に関門、いわば関所のような弁があり、自動的に細菌の侵入を妨げているから
だという。手術でその弁を除去してしまったため、たまたま細菌が胆管や膵管に
紛れ込んで炎症を起こし、ひどいときは胆管炎などを発症して、そのために高熱
が出る場合があるので、その時はすぐ病院に来るようにとのお達しであった。

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  ◇がん治療ー第四の選択肢
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  微熱だ、疲労だと副作用にびくびくしている頃、7月の半ばだったろうか、細
島泉先輩から一冊の本が届けられた。
「がん治療 第四の選択肢」という書名で、著者は東大名誉教授・江川滉二、協
力者として医学博士・後藤重則の名が記されてあった。
  巻頭見開きに「副作用がなく、有効性は抗癌剤に劣らない治療法」という見出
して、新たなガン治療の方法として「活性化自己リンパ球療法」を中心として「
免疫細胞療法」が第四の選択肢として取り上げられるようになったことが説明さ
れ、本文では、この治療法を患者に施して成果をあげている何人かの医師の臨床
経験が具体的に紹介されていた。
  さらに数日後、ジャーナリスト出身ながら東洋医学の研究者でガン治療法にも
詳しい、毎日新聞エコノミスト編集部の同僚であった友人、宮沢康郎君にも直接
会う機会があって、この「第四のガン治療法」を詳しく聞くことが出来た。おか
げで、私はこれまで知らなかった新たなガン治療法の現状を知ることが出来、大
いに力づけられたように思う。
私なりに理解し得た新治療法の基本的な考え方や方法を概略記してみよう。
  人間の身体は約60兆個の細胞から出来ており、細胞を構成する核と膜のうち
、全ての核の中にガン遺伝子があるといわれる。だから人間は誰しも体内にガン
遺伝子を抱えているわけで、何らかのきっかけでガン遺伝子が目を覚ますとガン
細胞が発生する。しかし一般的には細胞が持つ「遺伝子修復酵素」が働いてガン
細胞を押さえ込む、いわば生体に内在する自然治癒力が働くのだが、発ガン物質
などの作用で自然治癒力が及ばなくなり、細胞分裂によってガン細胞が独立する
と遠慮会釈なく増殖を繰り返して正常細胞を破壊するに至る。これがガンのメカ
ニズムだが、現在、ガンに対する治療方法は手術と放射線、抗癌剤の三本柱が主
流である。
  このうち手術と放射線は患部に対する直接の局所療法であるのに対し、抗癌剤
は静脈への点滴注射で、いわば全身療法といえる。が、いずれにしてもこの「三
本柱療法」はガンに対して外から圧力を加えて“やっつける”方法には変わりは
ない。ただ手術にしても放射線にしても適用できる場所に制限があり、ガン発生
の場所によっては適用できず、或いは効果が及ばないことも生じる。その場合は
抗癌剤に頼らざるを得ないわけだが、抗癌剤治療の難点は副作用にある。
  確かに抗癌剤は多年の研究によって効果的な薬剤が開発されては来ているが、
たとえば虫害に遇った森林に満遍なく防虫剤を散布するようなもので、正常な樹
林まで薬害にかかってしまう恐れが大きい。
  事実、嘔吐、下痢、めまいや頭髪が抜けるなど、副作用チェック表にもあるよ
うな副作用が患者を苦しめるケースが少なくない。これは抗癌剤でガン細胞ばか
りでなく正常な細胞までが破壊されてしまうからだが、これでは仮にガン症状が
軽減されても副作用による体力消耗の方が大きく、正常な生活を送れないようで
は何のための治療かと疑われるわけだ。
  こうした疑問から、専門医師の間で追求されてきたのが、第四の選択肢といわ
れる 「免疫細胞療法」である。この治療法は“ガンをやっつける”という「三
本柱」療法の考え方とは対照的に、細胞が本来持っている免疫能力、自然治癒能
力を利用してガン細胞の増殖を押えられないか、という思想で、具体的には、免
疫細胞(血液)を一度体外に取り出し、人為的に活性化して再び体内に注入する
方法で、臨床的にこの方法でガンの症状が軽減された例が多いという。何よりこ
の方法の利点は、副作用が殆ど起こらないことで、体力を消耗することなく、ガ
ンの大きさに変化がなくても患者が普通の日常生活を続けることが可能だという

  細胞の免疫能力を高めるには、こうした方法によらなくても、日頃の食事で白
菜や玉葱などの白色野菜を多く採ったりバナナ、パイナップルなどの果物を多く
食べることで効果を挙げることが出来ると宮沢君から聞いて、我が家も野菜スー
プやバナナ、パイナップルなどが食卓に欠かさないようになった。
  またノーベル賞を受賞した米国のポーリング博士(故人)がガンに利くと推奨し
たというビタミンC(これには学会で異論もあるようだが)の粉末やニンニクの
錠剤が、やはり免疫力を高めるというので、毎日、服用している。
  有体に言えば、制ガンに利くと聞けば、何でもなりふりかまわず服用するといっ
た体たらくのようで、いささか自主性に欠ける感がしないでもないが、まあ、人
事を尽して天命を待つといった心境でもあるわけだ。
  この免疫細胞療法についての医学的な解明は私には困難だが、この療法を実施
しているクリニックは「瀬田クリニック」(日本免疫治療学研究会 〒158ー
0095 世田谷区瀬田4ー20ー18 電話3708ー0086)を中心とす
る「瀬田クリニックグループ」があり、必要がある人は電話で問い合わせてみれ
ばよい。
私が通っている東京女子医大病院でも同医大の消化器病センターの免疫療法チー
ムを母体として6年前、「ビオセラクリニック」を開業、この治療法を提供して
いる。私も主治医と図って、もし必要が生じれば主治医の紹介でこのクリニック
の治療を受ける了解を取り付けた。ただこの治療法は健康保険の適用がないので
、「ビオセラクリニック」の場合、通常8回行われる細胞投与の総費用が180
万円という高額に昇るのが頭の痛いところである。
  幸い、私の副作用はその後殆ど起こらず、チェック表には各項目ともグレード
0が並んでいる。月一回の腫瘍マーカー検査も検査薬“CA19ー9”の数値は
8月から3ヶ月間に119、65、47と基準範囲37にはまだ高いにしても漸
減しており(その後、年末には30まで下がった)、“DUPANー2”の数値
も150、63、32と基準範囲150を下回っている。少なくとも抗癌剤「
ジェミザール」が利いているに違いない。
  当初、この抗癌剤投与の二度目に白血球の数値が三千に減ったため、2週間投
与を見送った末、2クール目から量を減らして投与を再開したのがよかったよう
だ。
  だから高い費用までかけて「免疫細胞療法」にかかるまでもあるまいと、ケチな
根性も手伝って今のところ抗癌剤投与を続けているわけである。
  ところがつい最近、NHKテレビで、東大医科学研究所の中村裕輔教授グループ
が「ガン・ワクチン」の開発に成功、臨床効果も挙げているというニュースを目
にし、早速、同研究所に問い合わせてみた。まだ試験段階のようであったが、現
在の治療法を質され、抗癌剤副作用の有無を問われたので、実情を伝えたところ
、「貴方の名前は登録しておきますから、副作用が起こって抗癌剤の投与が困難
になったらすぐ連絡してください」と言われた。こうした場合のワクチン利用は
無料ということで、いわばモルモットに過ぎないが、貧乏人にとっては無料は何
より、万一の場合、これを利用しようかとも考えている。
ともかくいろいろな道が開けてくるものだと思ったことであった。

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  ◇何事も“神”の意志のままに
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 退院してからもう4ヶ月半になる。抗癌剤の投与も4クールを終わって11月
から5クール目に入る。副作用も前述したような初期症状が過ぎてからは何の異
状も起こらず、日常生活に差し支えはない。朝のウオーキングは雨天の場合を除
いては欠かさず、最近では途中でラジオ体操の仲間に加わって、約10分間、第
一、第二体操に身体をほぐす。これまで無縁であったので気づかなかったが、あ
のラジオ体操は実によく出来ており、満遍なく身体の筋肉をほぐし、血の流れを
よくするようだ。
そのせいか、朝から食欲は旺盛で不振を感じたことがない。日中の疲れも次第に
感じなくなって、昼寝も止めてしまった。
  友人との会合も再開して外出する機会が増え生活に彩りを添えることが出来る
ようになった。我ながら体力もついてきて、病気も確実に回復基調にあると思わ
れるのだが、果たしてこれが何時まで続くのだろうか。
前述したように相手はガンの中でも一番の難物の膵臓ガンである。何時刃を研い
で、襲い掛かってくるかも分らない。
  その時の覚悟は、正直に言って絶えず念頭から去らないが、しかし、考えてみ
るとこれまでの78年、よくぞここまで生きてこられたものぞという思いを押さ
えることが出来ない。
  私達の世代は幼少期から戦争の時代に入り、少年期まで戦いが続く。“支那事
変”の勃発は私が小学3年の時であったし、太平洋戦争は旧制中学1年の冬であ
った。
広い視野から見れば敗戦は必至であっただろうに、軍人となるべく昭和17年春
、13歳で広島陸軍幼年学校に入校した。そして予科士官学校に進んだ20年4
月7日、B29の空襲で、朝、同じ食卓を囲んだ同期生3人が爆死した。近くの
防空壕の入口にいた私は、間一髪、壕の中に飛び込んで助かった。1トン爆弾の
破裂まで1秒も満たなかったであろう。7月には航空兵科に選抜され、特攻隊員
となるべく運命づけられた。戦争がもう1年続いていれば私の今はなかったであ
ろう。
  幸い命長らえて郷里の土佐に復員出来たが、帝国陸軍の将官であった父は当然
の事ながら退職金も恩給もなく、戦後のインフレで我が家の僅かの貯えは忽ち底
を突いた。
運良く転入学出来た旧制高知高校から昭和24年、大学に進学してからは家から
の送金は途絶え、奨学資金とアルバイトで生活を支えた。そのうえ思想が左傾化
して学生運動に首を突っ込んだため、大学の講義は全くお留守となった。いまで
も私は何のために大学に入ったのだろうかと思うことが多い。
  だから大学卒業に際しては(文学部だったせいもあるが)就職の門は狭く、結
局、千葉県教委に勤めていた従妹の佐倉光子さん(現・福田光)の世話で、県立
千葉三髙(現在の千葉東校)社会科教師の口を得て糊口をつなぐことが出来た。
1年後、毎日新聞東京本社に入ったのも、正式入社ではなく、佐倉の叔父から親
戚の社会部デスクに紹介してもらい、今の言葉で言えば“非正規雇用”の形で裏
口採用してもらったのだ。
こうした一連の経過を振り返ってみると、あの当時、どこかでひとつ、つまづい
ていれば私は全く違った人生を送ったことになったであろう。とにもかくにも人
並みにかち得た今の境遇は望むべくもなかったに違いない。
  そう考えると、この78年にわたる私の生涯は、私一人の力だけではなく、な
にか「大いなる摂理」、「大いなる意志」の導きに与るところが大きいように思
われる。何でも自分ひとりの力、判断、努力で切り開いてきたように考えるのは
誤りで、自分では気づかない「大いなる意志」の導きによって、私の今日がある
ような気がする。
とすると、私が膵臓ガンになったのも、この「大いなる意志」によるものかも知
れない。

 広幼の同期生で戦後、九大医学部に学び、後年、国立病院九州がんセンターの
院長を務めた肺がん治療の権威、太田満夫が先年、「私はがんで死にたい」とい
う本を社会思想社から出した。、その書名の意味するところは、脳卒中や心筋梗
塞など突然死をもたらす病気と異なって、自らの終末を予期させ、心の準備をさ
せる“がん死”の方が人間の尊厳死に相応しいというにあるようだが、私の2ヶ
月半に及ぶ経験は、この考え方に同調する。
  これから先、何年生きられるか分らない。半年か、一年か、或いはまた数年か
。しかし、終末はガンによることは間違いないだろう。それが徐々に訪れるもの
とすれば、その間に予定を立ててやらねばならないことが幾つもある。こうした
余生が「大いなる意志」によるならば、私は喜んでそれに従うであろう。
「大いなる意志」を「神」と呼んでもよいように思う。或いは唯物論者の毛沢東
さえ、晩年、米ジャーナリストのエドガー・スノーとのインタービューで「私も
間もなく天帝とまみゆることになるだろう」と語ったように、毛沢東の言う「天
帝」もこの「大いなる意志」をさすように私は思う。
  私がまだこれからしたいことは、これまでの海外旅行を「わが心の旅」と題し
て写真主体の紀行文に纏めることだが、これにはパソコンの画像処理法をこれか
ら学ばねばならない。果たして時間の余裕があるだろうか。
もうひとつ、「神」の意志が許すなら、もう一度大陸を旅して、360度地平線
をみはるかす、あの縹渺とした大陸の大地に身をおきたいというのが私の望みで
ある。                             
                                    
    (完)     (筆者は元毎日新聞社印刷局長)

 ※ この拙文は、私が東京女子医大に入院中、幼年学校のクラス会誌に投稿
    した「手術前まで」の経緯と、退院後、やはりクラス会誌に投稿した
    「手術と退院までの心の動き」、さらに旧制高校の支部会報に抗癌剤治
    療までを加えて、加筆、訂正して一文に纏め投稿した文が基になってお
    り、お見舞いや励ましを戴いた方々にせめてもの感謝の気持ちを込めて
    手作りの「小冊子」に纏めお送りしたもので、昨年10月31日脱稿し
    た。その後、今日まで抗癌剤治療をつづけている。
                    黒岩 義之 追記

                                                    目次へ