【追悼・西村徹先生】

エッセイスト、オクシモロン(臆子妄論)八十翁の誕生(3)
―身近に接した西村徹先生(大阪女子大学名誉教授、英文学)―

木村 寛
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● 四、キリスト教関係(C・Sルイスなど)の翻訳者として

 およそ書き終わってから、四天王寺の古本市(5/4)で掘り出し物をみつけた。
 それは Walter Hooper, C.S.Lewis: A Companion and guide, 1996 で、ウォルター・フーパー/著、山形和美/監訳『C.Sルイス文学案内事典』1998、彩流社(18,000円、650頁)で、西村先生の文章や訳本も網羅されている。
 西村先生のルイスのキリスト教関係の訳書には、次の五冊がある。

 一)C・S・ルイス宗教著作集5『詩篇を考える』1976、新教出版社、2000(新装第一刷り)。
 二)同著作集6『悲しみをみつめて』(1976、同社、A grief observed 1964)、手持ちは1994年版。
 三)同著作集8『栄光の重み』、1976、同社(この一部は「おわりに」で言及する)、新装版があるかも。
 四)『かの忌わしき砦』、中村妙子/共訳、奇想天外社、1980。
 五)『サルカンドラ』、中村妙子/共訳、ちくま文庫、1987。
 六)マルカム・マガリッジ『イエス―今に生きる』。

 一)に関して、西村先生のあとがきには「『詩篇を考える』はそれまでに書いたルイスのどの信仰著作とも趣きが違っている。・・・この本には茶羽織をはおったとまでは言えぬとしても、一つ幕屋に同族とともにあるくつろぎがあると。」

 ルイス自身の言葉では、「これは学者の仕事ではない・・・。私自身無学な事柄について無学な人々のために、私は書くのである。」と。この本の誕生にはユダヤ系アメリカ人の妻の文化的影響が大きいらしい。

 引用されている日本語の詩篇は『文語訳』である。格調高さという点では文語訳はすばらしいに尽きる。私は20代の頃、一年かけて会社の昼食時に詩篇の文語訳を読み通したことがある。私は英語版では欽定訳を読んでいる。ちょっと古風な英語というか、そんな気がする。

 西村先生からいただいたルイスの訳本(二)の日本語はすごくネットリとしたもので、本当に英語もこんなにネットリとしたものだろうかと思ったことがある。書き出しは(Ⅰ、神はいずくに)
 「だれひとり、悲しみがこんなにも恐れに似たものだとは語ってくれなかった。わたしは恐れているわけではない。だが、その感じは恐れに似ている。あの同じ肺腑のおののき、あの同じやすらぎのなさ、あのあくび。わたしはそれをかみころしつづける」。
 本の表紙にはコスモス、裏表紙にも月見草らしい花があしらわれていて、死者へのやさしい雰囲気の追悼本であることがわかる。ルイスが59歳で結婚した相手がガンにかかっていて、その三年後に彼女が亡くなり、その後で書かれたのが本書であるとある。結婚後ルイスは「二十歳台で逃げて行った幸福を六十台になって手に入れようとは夢にも思わなかった」と友人に語っている。二人の姿を目にした友人には、二人がただ愛し合っているというだけでなく夢中だということがありありとわかったという。この本は西村先生の初訳本(1966年)で10年間、原稿は箱の奥深くで眠り続けた。

 なお、宗教著作集7は『神と人間との対話』―マルカムへの手紙、竹野一雄/訳、品切れ(再版はあるかも)とあるので、六)のマガリッジの訳本はルイスとのつながりで生まれたのであろう。
 しかしルイスの本は売れたのだろうか? どこまで日本人が理解できたのだろうか? そんな気持ちが残る。20年近くたって再版とは! なんとも悠長な世界である。四)と五)に紹介した本は見る時間がなかったので紹介を割愛する。
 なお次の寄稿二篇がある。
 1)「C.Sルイス―この不吉なしゃれこうべ」、大阪女子大学『女子大文学』(外国文学編)22,1970。
 2)「ルイス、晩年の愛の結晶」『新教』春季号、1976。

 六)は、Malcolm Muggeridge, 1975 『Jesus-The man who lives』の訳で、202頁の中で61頁ほど、イコンなど西洋絵画が占める不思議な本である。

 Ⅰ、イエスの来臨―イエス、この世に来たり給う
 Ⅱ、イエスの使信―何を語らんとてイエスこの世に来たり給いし
 Ⅲ、今に生きる人
 私には、ルナンの『イエス伝』に絵画がついたものかという印象があるのだが、間違っているかもしれない。マガリッジはイギリスではチャーチルを攻撃した毒舌家で知られているとか。末尾にステパノ奈良正一郎氏をしのぶよすがとなればとある。A4版に近い大きな本である。古本屋でみかけたことはない。

 西村先生は赤岩をとりまく人たち、田川建三らと親しかったはずなのに、『赤岩栄著作集』(教文館、1971)頃には一切自分の名前を出していない。なぜか明確に一線を画しておられる気がする。赤岩栄は私には「戦後の人騒がせな牧師」としか思えない。
 赤岩栄著作集7、「新しい人間誕生・ほか」をちらちらと見ていて、面白いものをみつけた。赤岩の「エミル・ブルンナーへの公開状」222頁で、その中には「今日、政治的見解においては、先生と私との間に根本的な違いのあることを否定することはできません。先生は共産主義を全的に否定されるし、私はその未来を明るく感じているキリスト者のひとりであります」とある。まるで小学生のようだ。

 このくだりには、「これだから困るのだ」と西村先生の肉声が聞こえてきそうな気がする。ブルンナーはスイスの神学者で、戦後来日した時に「矢内原忠雄らの無教会キリスト教」が存在しているのを発見して、それを世界に発信することにより無教会陣営をおおいに喜ばせた人である。
 戦後のキリスト教講演会か何かで、矢内原と赤岩が同じ宿に泊まっていたとかで、赤岩が矢内原に敬意を表するためにその部屋を訪ねたらしいのだが、矢内原は門前払をしたという記事をどこかで読んだ記憶がある。みごとなすれ違いというべきか。

 私らの訳本(2000、キリスト新聞社発売)、『悲しむ人たちをなぐさめよ』―宣教師ニコルソン夫妻の生涯―(Comfort all who mourn, 1983)を一年間通っていた教会に置いてきたら、後でそこの新任牧師から「ニコルソンはクエーカーで異端でしょう」と電話でおしかりを受けた。私は見ず知らずの人を電話で叱るというこの非常識な行為には疑問を感じざるをえなかった。西村先生にこの話をしたら、「自分ならこの牧師のところへ話し合いに行く」と言われた。私は異端と決めつける人のところに話し合いに行くほどの余裕は無い。隠れて「罰当たり」とつぶやくだけである。

 この本のテーマは戦時下アメリカ本土における日系人約12万人の収容であり、『オルタ』誌にも解説を書いたことがある。西村先生には添削を受けた。戦後ニコルソンは「やぎのおじさん」として我々世代の国語の教科書に登場したのだが、アメリカからたくさんのヤギを連れてきて、戦後の貧しい日本の子供たちにヤギの乳を飲ませようとした行為のどこが異端なのだろう。
 ルーズベルト大統領による大統領令の発令から始まったこの日系人の悲劇は後に憲法違反だという判決が出て、日系人たちは保証金を支払われた。失った土地など多くの財産が僅かな保証金で元に戻るわけではない。なおニコルソンたちはアメリカ政府の無差別爆撃や原爆の使用に抗議している。「クエーカーは異端」だと切り捨てることでこの歴史的大事件を理解する機会を失わせ、そういうことにも目をつぶらせる権利をたった一人の牧師が持つ危険性とはいったい何なんだろう。牧師は独裁者なのか?

 この訳本に関しては、私は不思議な見えざる縁で日本友和会のピンチヒッターを引き受けたと考えている。出版後、キリスト新聞社の米窪博子出版局長のはからいで、日本友和会の田中良子書記長と故石谷行法政大学教授から直ちに書評をいただいた。西村先生の教え子の女性(私の中学校の英語教師)が当時アメリカの某大学の先生をしていたので、共著者の Margaret Wilke さんに推薦状を書いてもらった。西村先生に私の訳を見せると何年かかるかわからないから、出版してから差し上げた。
 もう一件、この本を一緒に出した会社の西川弘子さんが数年前の夏に急死して、彼女の所属する尼崎の教会で告別式が行われることになったので、私はてっきり彼女の唯一のライフワークであるこの本が出席者に記念品として配布されると思っていたのだが、電話で告別式では配布しないでほしいと言われたので、「なんと罰当たり」と思った。教会員が自分の告別式で牧師によって抹殺される(十字架につけられると言うべきか)悲劇! 彼女の会社の友人たちに頼んで教会の外でこの本を配布してもらったのだが、私は告別式には出なかった。

 半分冗談だが、伊勢神宮の呪い(祟り)と言うべきか。戦時中、国の圧力により合同させられた日本キリスト教団は、なんとその富田滿総裁が伊勢神宮に報告(国)参拝をしたというのだ(1944年)。
 ある連中に対して「異端」だと決めつけることは、昔、宗教改革の時代にローマカソリックから「異端」だと決めつけられたプロテスタント(「抗議中」という意味)が今度は自分がローマカソリックの立場に立つことを意味する。こういう問題に対して、「判断の留保」が必要だという話が新約聖書の『使徒行伝』に出てくる(5-33~)。「人から出たのか、神から出たのか」という問題である。「前者なら自滅する、後者なら滅ぼすことはできまい」(5-38)。日本キリスト教団は400年続くクエーカーに対して、「異端」だと言い得るほど立派なのか?
 なおこの本は鳴門市にある賀川豊彦記念館に田辺健二館長の好意で展示されているし、ロスアンゼルスの全米日系人博物館の永久コレクションとしても受け入れられた(2004年)。なお賀川記念館の隣にはドイツ館(第一次大戦で日本軍の捕虜になった青島のドイツ人たちの記念館)が併設されている。

 誰も声をあげないが、無教会では大塚久雄の盗み問題が野放しになっている。無教会の看板が泥だらけという問題である。これは梶山力・大塚久雄/共訳のマックス・ヴェーバー『プロテスタントの倫理と資本主義の精神』(岩波文庫)がいつのまにか、第一訳者の梶山力の名前を削除して、大塚久雄単独の訳本として、岩波書店から出版された問題で、安藤英治成蹊大学名誉教授が未来社からの本、マックス・ウェーバー/著、梶山力/訳、安藤英治/編『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』(1994)の中で次のように糾弾しておられる。「すでに前著で明言したように、梶山訳が大塚訳の下訳ででもあったかの如く扱われ、ついにはなんとなく吸収合併されて使命を了えたかの如き事態の推移を、私は断じて黙視しえない」とある(404頁、編者あとがき)。梶山力もキリスト者だったのだ。
 私は大塚の単独訳が成立するためには第一著者である梶山からの知的財産権の大塚への贈与あいは委譲が証明されていなければならないと考える。もちろん、大塚に特別な能力があって、霊界の梶山からの委譲を証明できるのなら話は別である。しかし通常はそういうことはありえないから、この件は大塚久雄と岩波書店の協同作業による「単なる知的財産権の盗み」でしかないだろう。私は2014.1.1に岩波書店に抗議の手紙を郵送したのだが、返事は無い。もし岩波茂雄が生きていたら、何と言うだろうか。藤田若雄先生(東京大学社会科学研究所元教授)が生きておられたら、烈火のごとく怒り、自分の『東京通信』で大塚久雄と岩波書店を激烈に糾弾されたと思う。1970年から約50年、現代の人たちの Common sense はいったいどうなっているのか?

 西村先生の晩年は、私がたまたま図書館で見つけたマック『誰が新約聖書を書いたのか』本などを英語本で読まれていた。英語本は私のところにある。マックはアメリカの新約聖書学者であるが、新約聖書の構造をイエス運動、キリスト・カルト運動の二つととらえ、Q資料(イエスの語録)の明確化などを明示しているので、私にはわかりやすかった。二十代で読んでいたドイツの学者などのものとは違う。
 私はイエス運動(山上の垂訓など)を明確度論理、キリスト・カルト運動を保存論理としてとらえるとわかりやすいと思う。パウロのロマ書13章冒頭の「上なる権威に従え」は我々をほとほと困らせる主張なのだが、それはイエス運動の側から批判するしかない。
 なお、我々の持つ西方教会の伝統の新約聖書では、使徒ヤコブ、ペテロ、ヨハネの手紙は押し入れの隅に突っ込まれた状態にあるのだが、東方教会の伝統ではこれらは「使徒経」として重要視され、使徒行伝の次に配置されているのを、富田和久先生のロシア語新約聖書から発見したのは大きな収穫だった。ヤコブの手紙にある「行いの無い信仰は死んだものだ」(2-14、20)が浮かび上がるからである。ルターはこの手紙を「わらの手紙」と呼んだそうだが、そこにルター主義の限界があるのではなかろうか。無教会も同列にある気がする。高橋三郎に『ルターの根本思想とその限界』(ドイツの大学の神学博士論文)があるのだが、持っているだけでまだ読んでいない。

 (堺市在住・理学博士)

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