【映画評】

エルネストは、二回殺された
~チェ・ゲバラと生きた日系人青年兵士~

大原 雄


 「ゲバラ死去から50年 最期の地ボリビアで式典」、2017年10月11日付朝日新聞朝刊。打楽器や吹奏楽器で演奏しながら歩く人たちを先頭にゲバラの有名なポートレートを描いた旗などを掲げて行進する人たちの写真付き。以下、記事全文。

* キューバ革命の立役者の一人、チェ・ゲバラの銃殺から50年を迎えた9日、ゲバラの遺体が埋められたボリビアのバジェグランデで記念式典が開かれた。アルゼンチン人のゲバラはキューバ革命の成功後、アフリカ・コンゴで革命を試みたが失敗。1067年10月8日、親米政権だったボリビアでゲリラ活動中に拘束され、翌9日に銃殺された。現在は反米左派路線でキューバと足並みをそろえるボリビア政府にとって、ゲバラはゲリラ戦争に身を投じた「英雄」。モラレス大統領は式典で革命家としての功績をたたえ、「反帝国主義の戦いを続けなくてはいけない」と訴えるなど左派路線を正当化した。式典にはゲバラの子どもたちや一緒に戦った元ゲリラ戦闘員のほか、キューバ政府代表らが出席した。一方、各地で戦闘を続けたゲバラを巡っては「殺人者」「侵略者」といった批判的な評価もあり、英雄視に反発する声も出ている。

 どのような権力であっても、警察、あるいは軍隊という暴力装置を持っている。権力者は、暴力装置を背景に人々を従わせようと強制力を行使する。権力者に対抗する勢力も暴力装置を持って反抗し、権力奪取を狙う。ゲバラが「殺人者」という側面を持っていても、己のなけなしの命をかけて、普遍的な原理を追求した革命家であるという評価を下げることにはならないだろう、と私は思う。

★二つの「没後50年」

 1967年10月9日、キューバの革命家/チェ・ゲバラ、本名、エルネスト・ラファエル・ゲバラ・デ・ラ・セルナがボリビアで革命活動中に、ボリビアの当時の政府軍に殺された。39歳であった。チェ・ゲバラの「チェ」とは、いわば、愛称から始まった。「チェ」は、スペイン語で、「やあ」とか「君」とか、会話の呼びかけとして使われる。ゲバラは、親しい人と話すとき、「チェ」を連発したことから、「チェ」のゲバラさん、という感じで、その口癖をおもしろがった仲間から親しみを込めて「チェ」と呼ばれ始めた。ゲバラ自身も、この愛称が気に入り、いつしか、自ら「チェ」と名乗るようになったという。

 今年は、没後50年というメモリアル・イヤーということで、書店には、ゲバラ関係書が平積みで並べられている。中南米の歴史書、あるいは、思想書、さらには、ゲバラやゲバラ関係をテーマとした小説も刊行されている。
 革命兵士/チェ・ゲバラは、1928年6月14日、アルゼンチンのロサリオで生まれた。医学博士号を持つ医師となった後、グアテマラの革命運動に参加した。その後、1955年、恩赦により釈放された2歳年上の弁護士/フィデル・カストロにメキシコで出会う。1956年、ゲバラはカストロらとともにキューバ上陸。カストロとは生涯の同志として一緒にキューバ革命を牽引して、1959年1月1日、革命に成功した。
 革命政権では、工業局長、国立銀行総裁、工業相などを歴任した。軍事会議で、カストロが、「この中にエコノミストはいるかね」と尋ねた際、「エコノミスト」を「コミュニスト」と聞き間違えて、ゲバラが手を上げてしまい、そのまま役職に就いたというエピソードがあるという。
 1961年1月、アメリカと国交断絶。しかし、ゲバラは、1965年カストロと別れ、コンゴへ遠征。さらに、ラテンアメリカ全体の革命を志向して1966年ボリビアに入国、革命のためのゲリラ活動に従事したが、1967年10月8日、ボリビアの政府軍に捕まり、翌9日、ラ・イゲラ村で処刑される。

 1967年8月31日、同じボリビアで、チェ・ゲバラより1月半ほど早く、日系人医学生出身の革命兵士/フレディ・前村ウルタードが、ゲバラの率いる本隊と山中で分かれ分かれになってゲリラ活動をしていて、ボリビア政府軍に殺された。フレディ・前村ウルタードとは、どういう人物か。

 フレディ・前村ウルタードは、1941年10月18日、ボルビアのトゥリニダーで、日本人移民の前村純吉とボリビア人のローサ・ウルタード・スアレスの次男として生まれた。前村純吉は、鹿児島県出身で、1913年、ゴム園での労働を求める移民として、日本から太平洋を渡り、ペルー上陸を経由して、ボリビアにたどり着いた。苦労の末、その後、食料品と衣料品を扱う商店を営むようになった。
 フレディ・前村ウルタードは、少年時から医師を志し、1962年4月、20歳の時、キューバに留学する。ハバナ大学医学部への入学を目指し、同年10月、カストロが創立したばかりのヒロン浜勝利基礎・前臨床科学学校に25人のボリビア留学生の一人として入学する。寄宿舎に入り、医学の予備過程を学び始める。10月の新学期早々に「キューバ危機」(キューバでは、「10月危機」などという)、米ソ核戦争突入の危機という事態が起こる。フレディ・前村ウルタードたちも、学業どころではないと、軍事訓練に参加するようになる。

贅言;「ヒロン浜勝利」というのは、1961年にキューバ軍機に偽装したアメリカの爆撃機がキューバ空軍飛行場を爆撃すると同時に上陸部隊がピッグス湾(コチノス湾)にあるヒロン浜(プラヤ・ヒロン)に上陸侵攻した戦闘で、キューバ軍が当時のソ連の支援を受けて勝ったことから、戦勝記念のネーミングとなった。

 革命前、キューバの政権を支持していたアメリカは、1959年1月1日のキューバ革命成功により、2月カストロが首相として実権を握るようになったことから、キューバの社会主義化を警戒していた。1961年1月、アメリカとキューバは国交断絶。アメリカは、キューバの経済封鎖政策を取った。アメリカに対抗するカストロ政権の下、1962年10月16日キューバでソ連の後押しを受けて核ミサイル基地の建設が進められていることが発覚したことから、アメリカが第7艦隊を繰り出し、カリブ海のキューバ周辺で海上封鎖をした。
 この結果、キューバの後ろ盾となっていた当時のソ連とアメリカの間で、緊張が高まる事態となった。ソ連のフルシチョフとアメリカのケネディら首脳同士の折衝で、13日間続いた危機は、28日に回避されたが、キューバとアメリカの緊張関係は続く。フレディ・前村ウルタードは、一旦、学業に戻る。1963年1月1日、ゲバラがヒロン浜勝利基礎・前臨床科学学校にやってくる。年末年始も国へ帰らなかった学生たちを励ましに来た。フレディ・前村ウルタードとゲバラとの最初の出会いだ。

 その後、1964年、祖国ボリビアで軍事クーデターが起こる。1965年、フレディ・前村ウルタードは、悩み抜いた末、奨学金を辞退し、学業半ばにして、「キューバ革命支援隊」に加わり、軍事訓練に本格的に参加するようになる。1966年10月、フレディ・前村ウルタードは、祖国ボリビアに密入国の形で帰国する。翌11月、アフリカのコンゴ遠征していたゲバラが、コンゴでの革命に失敗し、ボリビアに入国する。ウルグアイ人のビジネスマンに化けて入国を果たし、ボリビア民族解放軍(ELN)を設立する。ボリビアでフレディ・前村ウルタードは、ELN司令官(コマンダンテ)・ゲバラの指揮下に入り、訓練を受けるようになる。

★チェ・ゲバラの HIROSIMA/映画「広島編」

 映画『ERNESTO』(エルネスト)は、1959年7月24日のシーンから始まる。外務省の中南米課に電話が入ってきた。1959年1月1日革命に成功したばかりのキューバの親善使節団に付き添うキューバ大使からの電話だ。使節団の団長は、「グウエーラ」少佐。副団長が大尉、ボディガードの中尉、それにサトウキビ産業の専門家、経済アドバイザー、アドバイザー、付き添いが駐日キューバ大使という一行は7人。軍人主体(キューバ革命を仕切った参謀クラス)の使節団だが、軍人としてもポストは低いと外務官僚は判断したのではない。あまり丁重に扱っていないようだ。
 一行は6月12日にキューバのハバナを発ち、アラブ連合、セイロン、インドなどアフリカ、中東、アジアなどの諸国を訪問し、9月8日にはキューバに戻る90日間近くの外遊であった。カストロ政権の今後の外交を模索する視察であった。知名度の低い団長の少佐の名前は、正しくはゲバラであった。日本を訪問した少佐は、予定にない広島に是非行きたいと外務省のスタッフを困惑させていた。外務省は一行の広島行きに難色を示していた。

 7月24日、ゲバラは、大阪入りした夜に、「大坂から広島は近い」と聞きつけると、突然、ゲリラ的行動をとり、午後10時大阪発の夜行列車に団長、副団長、駐日大使の3人が乗り込んだ。映画冒頭の電話のシーンは、「広島に向かっている、着いたら、よろしく対応してくれ」という内容の電話だ。外務省を通じて、広島県庁に連絡を入れ、翌25日一日だけの広島視察をゲバラは強引に実現させたのだった。硬い椅子の夜行列車で弁当を広げる一行の姿がリアルで細かい描写だ。

 ゲバラは、夜行列車に乗り25日午前5時過ぎ広島入りする。睡眠不足のまま、ゲバラは、広島平和記念公園(平和公園)の原爆死没者慰霊碑(原爆慰霊碑)に献花をする。その様子を取材・撮影した中國新聞記者がいる。県庁側は県政記者クラブに連絡を入れて、一行の取材日程を広報したが、取材に来たのは中國新聞の若い記者一人だけだった。オリーブ・グリーンの戦闘服に濃い髭面、ベレー帽のゲバラ少佐やスーツ姿のキューバ大使ら一行は、慰霊碑に花を捧げる。実際に花を捧げたのは、ゲバラ少佐ではなく、随行の大尉だったけれど。
 映画では、一行の3人と案内の県庁係長の位置関係まで、中國新聞の写真通りにシーンが再現されている。写真撮影は、中國新聞のカメラマン。記者は、一行の様子を見守っている。映画では、若いころ写真家だったゲバラが献花の後、慰霊碑の写真を自ら撮る場面がある。たまたま、半ズボン、半袖の老人が一人慰霊碑に近づき献花をする場面が写し込まれる。このシーンも、実は、ゲバラ自身が撮った写真の場面の再現だと判る。阪本順治監督の史実へのこだわりぶりが、この二つのシーンからよく判る。監督の史実へのこだわりは、全編を通じて貫かれている。

 ゲバラは、原爆慰霊碑に刻まれた文字を通訳するよう県庁の係長に依頼する。「安らかに眠ってください。過ちは繰返しませぬから」という内容が伝えられると、ゲバラは言う。「なぜ、主語がないのか」。現在、広島市の公式説明では、主語は「人類全体」ということだそうだが、ゲバラは、自らが敵対するアメリカ帝国主義が主語だと確信しているのだろう。次いで、一行は、広島平和記念碑(原爆ドーム)、広島平和記念資料館(原爆資料館)なども見る。特に、原爆資料館では、ゲバラは、1時間をかけて、展示品をゆっくり、食い入るように見て回った。館内をあらかた見終わった後、ゲバラは、係長に再び、言う。「君たちは、アメリカにこんなひどい目にあわされて、どうして怒らないんだ」。ゲバラは、案内役の広島県庁の係長を通じて、日本人全体に質したのだろう、と思う。

 広島県の知事を表敬訪問したゲバラは、広島赤十字病院に併設されている原爆病院があると聞き、原爆病院も見たいと言い出し、飛び込みで訪問する。病室では女性の若い患者に話しかけ、「自分は、あなたと共にいる」という意味のことを伝え、女性の体を抱きしめる。軍人、あるいはキューバ政府の要人という殻を脱ぎ捨てて本来の医者として患者を抱きしめたゲバラは、広島で核兵器の恐ろしさを改めて感じたのだろう。核戦争による世界と人類の破滅。核兵器=帝国主義。それは、帰国後3年後に体験する「キューバ危機」に対するゲバラの政治判断に生かされることになる。
 視察を終えたゲバラ一行は、25日夜も夜行列車で、大阪に戻る。視察団の大阪残留組と合流するためだ。27日夜には、一行は離日する。自分は、「行きたいところへ行く」とゲバラは言った、という。映画の「キューバ危機」の場面(実写映像)を踏まえて、ゲバラが、広島の原爆資料館を思い出すシーンがあり、印象に残る。核兵器と原爆被害に通底する悲劇をゲバラは、「キューバ危機」でも、核兵器の恐ろしさを実感を持ってきちんと理解していたのだろう。

 1959年10月、ゲバラは、革命軍の機関誌に帰国報告を寄稿した。「日本国民は、誰よりも核兵器の悲劇的な力を知っており、核ミサイルが発射される対象国の報復能力を痛感している。その国民は毎朝早くから仕事を始める。しかし、もしこの国の占領者たちが何らかの意図的な準備、もしくは思い違いを起こしたなら、この国には雨のように核爆弾が降りかねない」と、ゲバラは書いている。
 アメリカ帝国主義に実効的に支配されている日本の現状の本質をゲバラは、およそ60年前の短い滞在で見抜いているといえよう。1962年の核ミサイル配備に絡む「キューバ危機」にも思いを寄せれば、今のアメリカのトランプ大統領と北朝鮮の金正恩委員長の間に引き起こされている「核ミサイル危機」をクローズアップせざるをえない、と私は思う。権力者たちの「思い違い」というボタンの掛け違いは、いつの世にも起こりうることだろう。しかし、核ボタンの掛け違いなど、なきようにしてほしい。60年前のゲバラの卓見こそ、光る。核戦争には、勝者はいないとも、ゲバラは言った。双方とも根こそぎ破壊され、双方とも、何も残らない。勝者も敗者もいない、つまり人類が絶滅する戦争が、核戦争なのだということを言いたいのだろう、と思う。

 9月初旬、帰国後、ゲバラはカストロに直接帰国報告をした際、「日本に行く機会があれば、必ず広島に行くべきだ」と力説したという。カストロもそれを忘れず、2003年、広島訪問している。44年前、ゲバラの報告を聞いて、カストロは、「不思議でならない。どうして広島に原爆を投下する必要があったのか。落とす必要はなかったのではないか」と思ったという。そして、44年後、カストロは、広島で原爆資料館を訪ねた後、「今になって、ようやくチェ・ゲバラが1959年に広島を訪問した時の凄まじい苦痛が理解できた」と記者会見で話したという。ゲバラの思いは、カストロの中で、生き続けていた。カストロは、2016年5月、アメリカのオバマ大統領が広島を訪れながら、「演説の中で、大勢の人の命を奪ったことを謝らなかった」と批判したという。

 映画でも紹介しているが、ゲバラは、広島から妻・アレイダ宛に絵葉書を送っている。そこには、こう書かれていた。「平和のために断固として戦うには、ここを訪れるのが良いと思います」。ゲバラの揺るぎない信条。ゲバラは、キューバ政府のカストロに並ぶ要人であり、革命軍、あるいはゲリラ軍の軍人であり、医者(医学博士)であり、写真家でもあった。言動を追っていると、普遍的なことに真正面から向き合おうとしているのが判る。

贅言;ゲバラの広島視察の貴重な写真を残した中國新聞の若い記者は、映画では、森記者となっているが、史実では、林記者である。この新聞記事は、1959年7月26日付の中國新聞にしか載らなかった。見出しは、「原爆慰霊碑へ花束 キューバ大使と使節団長が来広」。それも、広島版(西部)で、写真はついたものの、記事の扱いは18行と短く、見出しも小さかった、という。まして、全国紙やNHK、民放は、取材すらしなかった。だから、この映画で、ゲバラの広島視察の写真が公開されるのは、貴重なことだ。
 もう一人の記者、読売新聞出身の作家・三好徹は、自作の『チェ・ゲバラ伝』のあとがきで次のように書いた。「彼(ゲバラ)の死が、ラテンアメリカ史のみならず、世界各地の多くの人たち、特に若者たちに強く長く影響を及ぼすことになるだろうと、と予見した新聞社の記者は一人もいなかったのである」。没後50年。ゲバラ関連本が、書店の店頭でも目立つ。これらのエピソードが載っているのは、佐藤美由紀『ゲバラの HIROSHIMA』(双葉社刊)である。

★エルネストは、二回殺された/映画「日系人兵士編」

 1962年4月。
 ボリビアから日系人の青年であるフレディ・前村ウルタードが、キューバのハバナ大学に入学するため留学した。医者になることを夢見て、幼馴染を含む25人の仲間たちに混じって留学生になった。20歳であった。バスから降りてヒロン浜勝利基礎・前臨床科学学校の寄宿舎に入る場面から、映画『エルネスト』は、後半の物語に移る。
 寄宿舎では、ボリビア留学生による青年組織設立をめぐって、争いになる。組織設立に熱心なフレディ・前村ウルタードと仲間たち。政治的な動きに批判的なベラスコ。そのベラスコはフレディのルームメイトになった。ボリビア人の女子留学生ルイサに恋心も抱くが、ルイサはベラスコと恋仲になり、後に妊娠してしまう。留学生生活では、結婚もできないとルイサに冷たくなるベラスコ。妊娠、出産、育児と学業の両立を目指して苦労するルイサを支援するフレディ。その後、彼女に結婚を申し込むが、革命兵士になるため、断念する。そういう誠実なフレディを軸に若い男女たちの織りなす青春群像が描き出される。やがて、群像から革命兵士へと抜け出すフレディ。

 1962年10月。
 ソ連のミサイルがアメリカ向けにキューバに配備された、いわゆる「キューバ危機」が勃発する。核兵器搭載のミサイル配備で、ソ連とアメリカの核のバランスが崩れそうになる、核戦争突入も瀬戸際か、という危機だ。学校は地対空砲部隊の兵舎になり、学生たちも民兵に志願するか、祖国へ避難するか、選択を迫られる。フレディは、グループのリーダーとしてキューバにとどまり、キューバ人の学生たちと一緒にアメリカ軍機に対する海岸警備の任に就く。海岸に地対空砲を構え、四六時中警戒するという緊張した日々を過ごす。しかし、13日間続いた危機は、10月28日に回避されたが、フレディには、ソ連とアメリカの首脳同士の秘密裏の折衝に終始し、キューバが蚊帳の外に置かれたことに対する不満が残った。

 フレディは、再び、学業に戻る。翌、1963年1月1日。既に触れたように、フレディが初めてゲバラにあった日だ。映画では、フレディが階段ですれ違ったゲバラに尋ねるシーンがある。「あなたの絶対的な自信はどこから来るのか」。ゲバラはこう答える。「自信とかではなく、怒っているんだ。怒りは、憎しみとは違う。憎しみから始まる戦いは勝てない」。別の日にカストロも突然寄宿舎にやってきた。フレディは、カストロにも聞いた。「今、勉学以外にやるべきことは?」カストロは答えた。「バスケットだ」。カストロも交えて、学生たちはバスケットゲームを楽しんだ。ゲームが終わった後、カストロは、フレディに振り向き、「何をしたいか。やるべきことは、いずれ君の心が教えてくれるよ」。

 1964年、祖国ボリビアで軍事クーデターが起こる。悩みながらもフレディは、親友とともに学校を辞めて「革命支援隊」に入る決意をする。1965年だった。カストロが言った「心が教えてくれ」た「やるべきこと」は、これだと思ったのだろう。1966年7月、ゲバラは、コンゴの革命に失敗をし、密かにキューバに戻ってきた。フレディは、ゲバラに再会する。司令官(コマンダンテ)・ゲバラの下で革命兵士として訓練に励むようになる。ゲリラ戦の兵士となったフレディは、兵士としての呼び名(暗号名)として、「エルネスト・メディコ」という名前をゲバラからもらう。「エルネスト」は、ゲバラの本名である。ゲバラは、フレディに自分の本名を与えることで、部下に対する信頼感を示したのだろう。
 二人のエルネストは、1967年、8月から10月にかけて、ボリビア政府軍に拘束され、即座に相次いで殺された。犯罪者としての処刑だ。つまり、エルネストという革命兵士は、アメリカが支えるボリビア政府軍に8月31日と10月9日、二回も殺されたことになるのではないか。

贅言;今回の映画では描かれないが、1997年6月28日、チェ・ゲバラの遺骨がボリビアの奥地、バジェグランデで見つかる。革命軍の兵士名「ラモン」こと、チェ・ゲバラは1967年10月9日の処刑(当時は、戦闘の際の9つの銃弾傷が原因で死亡とされ、「処刑」の事実は、隠されていた)後、10月10日、遺体は早々と報道陣に公開された。遺体は、埋葬されていたが、その後、「所在不明」(当時のボリビア政府軍から見れば、ゲバラら革命軍は、犯罪者だから、埋葬箇所を長いこと秘匿していたのだろう)になったようで、ゲバラの遺骨の所在が判ったのは処刑から30年後であった。7月、ゲバラの遺骨はキューバのサンタクラーラの霊廟に安置される。ゲバラの遺骨が見つかった2年後の1999年6月7日、フレディの遺骨もバジェグランデ郊外で見つかる。7月、フレディの遺骨もサンタクラーラのチェ・ゲバラ霊廟に安置された。

 映画では、革命兵士/エルネスト・メディコ、つまり、フレディ・前村ウルタードたちの最期をこう描く。1967年4月以降、ゲバラが率いる革命軍本隊・前衛隊とはぐれてしまったフレディ・前村ウルタードたちの後衛隊は、飢えと渇きに苦しみながら、密林をさまよっていた。兵士の中に病人も抱えている。本隊と合流するためには、あまりさまよわない方が良いが、ひとところにとどまっていれば、政府軍に見つけられてしまう。ここ数ヶ月、政府軍は革命軍の足取りを執拗に追ってきているのがうかがえた。
 革命軍兵士は8月30日、グランデ川のほとりに住む顔見知りの農夫から野菜や鶏を買った。2月に、この地へ来た時、病気の子どもを助けたことがある。今回も、グランデ川に繋がるマシクリー川の対岸に渡り易い浅瀬まで案内すると申し出てくれたので、すっかり信用してしまった。ただし、農民は政府軍が近くにいることは教えなかった。夜は、川の水嵩が増えるので渡河は危険だ。明日の夕方渡ろうと革命軍に勧めた。その計画を農民は政府軍にも教え、政府軍は、その地点を包囲するように布陣して待ち伏せた。革命軍の兵士たちは疲れと飢え、病気で、状況を判断する力が摩耗していたかもしれない。

 31日夕方。ゲリラたちは、渡河する場所の地形(実際には、浅瀬などではなく、深いところの水は腰まであった。流れが強く、歩きにくい川床だった)も確認せず、渡る順番も配慮せず、周辺の偵察もせず、渡河の準備を終わらせてしまった。薄闇が迫ってきた中で、ゲリラたちが川を渡り始めると突然一斉射撃の音が響き渡った。革命軍兵士たちの多くが殺されたが、フレディ・前村ウルタードは、一斉射撃からは生き残って拘束された。拷問に耐えて、ほとんど答えないフレディは、最期は銃で打たれて大地に倒れこんだ。スクリーンにはフレディの顔のアップが映し出される。まだ、黒目だけが動いている(オダギリジョーの演技が凄い)。「こいつ、まだ、生きているぞ」という政府軍兵士の声が聞こえる。「撃て」という声がかぶさる。絶命するフレディ。

 広島の路面電車の車内に中國新聞の記者が乗っている。ハバナの託児所では、フレディ・前村ウルタードが恋したルイサが娘を迎えに来た。女の子は大きくなった。キューバ・サンタクラーラのチェ・ゲバラ霊廟とそこに安置されているフレディ・前村ウルタードの遺体。納棺の扉には、フレディの顔を刻んだレリーフと「エルネスト・メディコ」という名札が掲げられている。チェ・ゲバラの納棺の扉には、ゲバラの顔を刻んだレリーフと「チェ」という短い名札が掲げられている。そして、スクリーンには、ラストシーンが映し出される。
 戦闘服を着た革命軍兵士の後ろ姿。「エルネスト」という呼びかけがあって、ベレーの下の長髪が揺れ動き、振り向く兵士。痩せたフレディの顔が見えると、画像はストップモーションになる。メインタイトルの「ERNESTO」がかぶさる。続いて、エンドクレジットが流れ出す。そこに主題歌「ベニの浜辺で」が哀調を帯びて歌いだされる。

★オダギリジョーの演技

 20歳の医学留学生から25歳で亡くなる革命軍のゲリラ兵士まで、フレディ役のオダギリジョーは、過不足なく演じる。科白は全てスペイン語。ゲリラ兵士の長髪、頬を痩(こ)けさした瘦せぎすの体型へ、オダギリジョーは、撮影に臨み体重を12キロも絞り込んだという。2016年の8月、広島でクランクインした。9月、10月とキューバロケ。12キロもの減量をどのくらいの期間で実現させたのか。細かな役作りも見事で、見ごたえのあるエルネストが誕生した。
 キューバ革命の立役者の一人となったチェ・ゲバラを演じたのは、キューバの俳優、ホワン・ミゲル・バレロ・アコスタ。大柄なゲバラは、史実のゲバラと見分けがつかないほど似て見える。ゲバラ映画は、これまでにもいくつかあるが、キューバ人がゲバラを演じたのは、初めてという。

 ゲバラ広島訪問の写真でもわかるように、阪本順治監督は、ゲバラやフレディ再現に当たって、かなり史実にこだわった演出をしていると思う。フレディの生涯を脚本化するにあたっては、フレディ・前村ウルタードの姉のマリー・前村ウルタードと甥のエクトル・ソラーレス前村(マリーの息子)の共著である『チェ・ゲバラと共に戦ったある日系二世の生涯』(キノブックス刊)を底本としている。

 2017年日本・キューバ合作映画『ERNESTO』(エルネスト)は、10月6日から全国公開されている。

 (ジャーナリスト(元NHK社会部記者)、日本ペンクラブ理事、オルタ編集委員)

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