【コラム】海外論潮短評(88)

なぜそんなに忙しいの — 失われた時をもとめて

初岡 昌一郎


 ロンドンの週刊誌『エコノミスト』(2014年12月20日)のクリスマス特集号は通常の編集と違い、例年のように様々な読み物風の記事を満載している。その一つが、人生における時間の用い方に関する考察。余暇時間の増加が生活の質を向上させるはずなのだがが、現実は余暇を犠牲に所得増加を優先する働き方が横行している。社会文化論的視点から、この問題を取り上げたこの論文を要約紹介する。

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新技術は余暇を増やす可能性を生んだはずなのに、逆な結果が
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 「将来の労働時間は短縮され、休暇が長くなる」という予測は、確実な約束のように思われていた。1930年のケインズは「孫たちは一日僅か3時間、それもチョイスによって働くようになる」と考えていた。

 経済発展と技術革新がその当時までに労働時間を大幅に短縮していたので、この傾向が続くと考えるのは自然だった。自動車の普及や機械化の進展が生活のあらゆる面でスピードと効率を上げるので、自由時間が増えると見られた。

 社会心理学者たちは、余暇の過ごし方が大問題となると考えていた。実際には、その後に余暇が世界的な重要課題となることはなかった。むしろ、あらゆる国ですべての人たちが多忙になっているように見える。

 世界中で経営者は年がら年中「時間が足りない」とこぼしている。時間不足は特に共稼ぎ育児家庭で切迫している。絶え間ない新製品の登場、ロボットによる仕事の制御、スマホやEメールなどの新技術は、生活を便利だが忙しいものにしている。時間を節約するはずの新技術が、逆にますます生活のテンポを加速化させ、生活をより複雑なものとしている。

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分刻みで追われるよ生活リズムの加速化
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 何故人はそんなに急ぐのか。その一因は「パーセプション(認識)」の問題である。富裕国の人びとはより多くのレジャータイムを有している、と一般的にみられているが、事実はそうでなくなっている。

 これは特にヨーロッパがそうだが、アメリカでさえも、全国的時間利用調査が始まった1965年以後、余暇は少しずつ伸びている。40年前に比較して、アメリカ人男性は平均週12時間少なく働いている。それには、通勤時間の縮小、休息時間の拡大など労働関連時間も含まれている。女性の有給労働時間は急拡大したが、料理や洗濯、掃除など、無給の家事労働時間は家庭電化の普及で劇的に減った。それに、男性が以前よりも家事に時間を注ぐようになった。

 問題は、どれだけ時間があるかというよりも、それがどう理解されているかにある。18世紀になって時計が時間を統一するために用いられ始めて以来、トキはカネとみられるようになった。時間がお金で計量化されるようになると、人々は時間の浪費を懸念し、それを活用して利益を得ようとする。

 経済が成長し、所得が上がると、時間がさらに貴重なものになる。貴重になればなるほど、それが足りないと思われる。高賃金・高生計費の大都市では、時間についての人々の価値観が高まり、生活のテンポが速まる。

 時間が金で換算されるようになると、人々は時間を惜しみ、その金銭的な価値を最大化しようとする。時間給の労働者はボランティア的な活動にあまり参加しないし、働いていないと落ち着けなくなる。戦後のアメリカで所得が上昇したのに、労働者が自由な時間を増やせなかったのは賃金制度に関係している。時間給が長時間労働の一因だ。

 時間が労働の対価を増す手段とみなされると、働くことが強迫観念となり、四六時中プレッシャーがかかるので、自由時間が愉しめなくなり、レジャーが逆にストレスとなる。

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大急ぎで仕事とレジャーをこなす人びと
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 富裕な人びとも時間が無いとよくこぼしている。カネを沢山稼いでいる人ほど、時間が無い。忙しく働いてリッチになると、時間の窮乏感がさらに強まる。こうした人は労働時間の生産性を高めるのと同じように、レジャーでも時間の利用を最大限に図ろうとして過密なスケジュールを組む。その結果、レジャー時間がレジャーではなくなる。こうして「忙しいレジャー階級」が生まれている。

 欲望を瞬時に充足させる可能性は忍耐心を失わせ、すぐにキレる人が増える。インターネット利用者の5分の1以上の人は、ビデオのダウンロードに5秒以上かかるのを我慢できない。選択の余地自体がストレスを生む。Eメールやスマートフォンなどの新技術が我慢の無い、情緒不安定な人を増やす。Eメール・エチケットは速やかな応答を期待しており、24時間もメールを放置するのは無作法である。

 加速的に増加し続ける要求にこたえることは、マルチな対応と瞬時の切り替えを必要とし、仕事が終了したという安息感を与えない。マルチな仕事は常にストレスを与え続ける。どのような活動であれ、一点に集中することができるとき、人は充足感をえるものだ。

 しかしながら、時間の不足は単にパーセプションの問題ではなく、配分の問題でもある。労働と生活のパターンのシフトがレジャーを享受するパターンに反映している。現在最も長時間働いている人には、高学歴で高給を得ており、かなりの責任のある仕事に就いている人が多い。いわゆるレジャー階級はより忙しい人たちである。

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人を出し抜く競争社会の反映としての時間の使い方
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 30年前、ホワイトカラーよりも低所得のブルーカラー労働者が、たいてい長時間働いていた。ホワイトカラー・サラリーマンの特典には、ゆったりとした働き方、のんびりした昼食時間、そしてたまのゴルフに夜の社用接待があった。しかし、現在のプロフェッショナルは、学歴の低い労働者の2倍は長く働いている。18ホールはおろか、9ホールのゴルフコースにでも行こうと思う人が少ない。昼食時間も忙しく、Eメールをチュックしながら、自分の机で簡単な食事を済ます。事務所を離れていても、スマートフォンをチェックしなければならず、仕事が決して終わらないことを意識している。

 ハーバード・ビジネススクールが1000人の専門職に調査したところによると、94%が週50時間以上働いており、ほぼ半分が65時間以上働いている。他の労働時間調査では、大学卒アメリカ人は定期的に週50時間以上働いており、1979年に比較して24%、2006年から見ると28%増加している。最近の調査によると、スマートフォン利用者は一日13.5時間以上働いている。

 ヨーロッパ諸国の労働法は超過勤務を規制しているが、イギリスでは管理職10人のうち4人は“アメリカ病”の犠牲者で、週60時間以上働いている。もはや、がつがつと働くことが恥と思われなくなっている。

 こうして、遊びに残される時間は少ない。全般的に見ると余暇時間が増えているが、良く見るとほとんどの増加は1960年代から80年代に生じている。それ以後、余暇時間の大部分が低学歴層に回るという、“レジャー・ギャップ”をエコノミストは指摘している。

 アメリカでは、1985年から2005年の間、高校卒以下の男子が週約8時間のレジャータイムを得ていた。しかし、大学卒男子のレジャータイムは1965年よりも減少した。同じことはアメリカの大学卒女子にも当てはまり、1965年当時よりも余暇時間が減少、高校卒以下の女子よりも11時間少なくなっている。

 高学歴者が以前よりも長時間働き、そのレジャー時間が少なくなっていることの理由を彼らの仕事満足感に求める見方がある。ある部分ではこの説明は当を得ているものの、もっと納得がゆく見方は今日の労働者がすべて雇用不安を抱えていることである。

 低成長とすべての産業の将来見通し不透明、そして所得格差の拡大が、高給の仕事をめぐる競争を激化させている。また、富裕国においては特に、住宅コストと付加的な教育費が高騰している。さらに、高齢化が進行し、年金による老後保障が揺らいでいることも影響している。アメリカなどの労働時間の法的規制が緩い国で、この点が特に労働時間延長の要因となっている。

 デスクで過ごす時間の長いことが、知的職業では生産性と忠誠心の高さを示すものとみられがちだ。早朝に出勤し、夜遅く退出する部下は上司の覚えがめでたく、昇給と昇任を獲得するチャンスが大きい。

 19世紀のアメリカの経済学者ソートン・ベブレンの言葉によれば、余暇は富者の「バッジ」であった。今はその希少性が富裕者の「バッジ」となった。多忙が繁栄のサインであり、社会的地位の指標となった。当節の経済学から見れば、もっとも才能があるものに仕事が集中するのは当然とされる。

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多忙なワーキング・マザー — 余暇欠乏のもう一つの側面
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 女性雇用の増加が、両親にたいする、特に母親にたいする期待レベルの同様な急上昇と同時進行した。家庭外で働く事による二律背反的なイライラ感が、女性に常について回る。社会的プレッシャーと重なって、多くの女性は理想化された母親像から圧迫感を受けている。

 専門職の共稼ぎ家庭でさえも、母親が家事の圧倒的な部分を荷っており、その日常的な仕事には終わりがない。思いやりのある父親でも、子供を連れだし遊び相手になるなど、自分に満足感のある役割を主に引き受けるだけで、母親が料理、掃除、躾などの面倒でエンドレスな家事を担当している。その結果、働く母親は常に時間が無いことを痛感する。

 今日の両親は子供の発育と学習についてより深い関心を持っており、子どもに成功的な人生を送らせるために育児に時間を注ぐようになっている。人生が長寿化し、資産を子供に残す可能性が減るので、子供の将来の幸せを教育にますます託するようになる。そこで、余裕のある家庭は以前よりももっと多くの時間を子供の教育支援に振り向けている。隣人たちに劣らないようにすることが両親にとって強迫観念となる。これは、軍拡競争に共通する心理だ。

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時間を無駄にする競争的人生の行方
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 余暇時間は、今や神話的なものになりつつある。ある人たちはありすぎて呪われている。他の人たちにとっては、お金がかかりすぎるものとなっている。多くの人たちは他の人が楽しむレジャーをテレビで眺めているだけだ。本当は、友人と集い、ボランティア活動をするなど、自分が能動的に動く方が幸福感をもたらす。余暇時間を引退後のものとして貯めておき、今は仕事に打ち込もうと考えている人も少なくない。

 時間とは奇妙なもので、するりと失われがちなものである。過ぎ去って初めて気づき、無くなってその価値がわかる。これまで時間が有りすぎて文句を言った人はなく、光陰矢の如し、と嘆く声は多い。残酷なことに、年を取るにつれてトキの経つのが速くなる。先行きが短くなると、それに比例して人生の意義が見失われ、生気がなくなる。経験は新鮮さを欠くようになり、生活は慣習的となる。何かを守ろうとすればするほど、それは素早く失われてゆくようにみえる。

 紀元後一世紀の著作の中で、ローマの哲学者セネカは、今生きている人生をほとんどの人が尊重していないと書いている。多忙すぎ、生活を大事にせず、人生を無限のようにみて、時間を浪費していると彼は嘆く。「人は富を貯めるためにはケチだが、時間は大盤振る舞いに浪費している」と述べ、「時の使い方を知っていれば、人生は十分長い」という。

 2000年たった今でも同じ忠告が生きている。現代人の生活は余暇を無駄にし、お金を貯め込み、目まぐるしく暮らし、無用な品物を買いまくっている。ひとびとは忙しく歩きまわっているが、いったいどこを目指しているのだろうか。何のために多忙なのだろうか。

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■ コメント ■
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 現在、政府は専門職的ホワイトカラー労働者の超過勤務時間制限を撤廃するために、いわゆる「ホワイトカラー・イグザンプション」を導入しようとしている。これは、本論が指摘する現代的な病弊、すなわち、余暇の無い、多忙で心理的にプレッシャーが常にかかった競争的な働き方にさらに拍車を掛けるものだ。これは生活の質的な向上と雇用と労働の安定に明らかに逆行する。

 戦後の労働法制改革の中でその柱の一つとして制定された、日本の労働基準法はかなり優れたものであり、その骨格は基本的これまで維持されてきた。しかし、この法律の最大の欠陥の一つは、時間外労働(超勤と休日労働)の公的規制をしていないことである。

 労働基準法36条は、超過勤務労働に関しては、労使(使用者と従業員の過半数を代表するもの)の取り決めに任せている。労働組合が十分機能しているところならば、この条文を有利に生かすことができるが、現状では組合があるところでも殆どのところで野放し状態で、使用者の意のままになっているところが多い。しかも、未組織労働者が80%を超えているので、超勤規制は、事実上労働者にとって不在に等しい。

 さらに、超過勤務時間の乱用に拍車をかけているのが、賃金制度である。法律上は、超勤について最低25%の手当の上乗せ支給を義務付けている。ところがこれが使用者の超勤を抑制するブレーキとならず、低所得労働者にとっては所得増加のインセンティブにすらなっている。日本の割増率は先進国レベルの半分以下である。たいていの諸国は50%から100%の加算を義務化し、それによって超勤削減を図っている。

 日本の場合には、最近とみに総所得の中で増えているボーナスやその他の手当は、超勤支払い計算の基礎に組み入れられておらず、超勤は基本給のみをベースに計算されている。したがって、使用者にとってみれば、新規に雇用を増やすよりも、超勤で働かせた方が安上がりだ。このように、超勤時間の増大が従業員の増加を抑える作用を果たしている。超勤の規制緩和ではなく、超勤のより厳格な規制こそ喫緊な課題だ。

 ILOの労働時間関係の諸条約は、先進国の水準から見れば決して高い水準をミニマムとしていない。例えば、ILO第1号条約(1919年)は、「労働時間の1日8時間、週48時間」規制を定めたものであった[その後に、40時間に改正]。日本が猛反対したために、異例の対日除外項付きで採択されたという、いわくつきの条約である。休日や有給休暇など労働時間に関係するものを含め、すべてのILO条約を日本政府は今日まで一切批准していない。その最大の理由は、それらの条約が「超過勤務時間の公的規制」条項を含んでいるからである。

 所得の公正な分配と再分配が、民主主義社会における重要な経済財政原則でなければならないように、労働時間の公正な配分も社会政策の基本的な目標であるべきだ。一部の人が過労死するまで働きながら、他の人たちは十分な働く機会が無い社会は公平でもなく、安定もしない。

 働く人にとっては、妥当な可処分所得と同様に、妥当な可処分時間が必要だ。それなくして生活の質の向上はない。低成長社会に向かわざるを得ない今日、人生における時間の意味をかみしめてみたいものだ。ゆとりのある人生は、所得の余裕に劣らず、むしろそれ以上に時間の余裕にかかっている。

 (筆者はソシアルアジア研究会代表)


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