■落穂拾記(17) 羽原 清雅
お笑い芸人はこれでいいか
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芸能界の事情を知るわけではないが、かねて感じていたテレビの、いわゆるお
笑い芸人の跳梁跋扈に若干の不快感があったので、ひと言書いておきたくなっ
た。 というのは、山田洋次監督が推賞する喜劇映画「社長三代記」をテレビで
見ているうちに、往年の喜劇人と昨今のお笑い芸人との格差を強く感じたからで
ある。
この映画は、東宝の社長シリーズの一編で、松林宗恵監督による1958年の
作品。内容は当時ベストセラーだった源氏鶏太著「三等重役」を下敷きにしたも
のだろう。この社長シリーズ映画の常連の森繁久弥、三木のり平、加東大介、小
林圭樹、有島一郎、フランキー堺、小沢昭一、左卜全、山茶花究、トニー谷、谷
啓たちの達者な芸に感心しながら、思わず笑ってしまったものだ。個性的で、な
にをやっても役にはまっており、その所作はごく自然に笑いを誘っていた。「よ
くやるよ」の感である。
しかも、喜劇映画に共演している宮口精二、東野英治郎、中村伸郎といった正
統派?の俳優たちも、喜劇を得手とする藝達者にあわせるように、いつもと違う
ような伸びやかな演技を見せている。
当時はまだ高校から大学に通っていたので、「ふざけた大人たち」「いい歳を
して」くらいの印象だったが、いま見ると「すごい」と率直に思う。藝の虫、と
いうか、むしろ藝というよりも地で行っているとさえ思えてくるほどの巧みさだ。
当時子どもながら、東西アルファベット読本といったタイトルのラジオ番組を
聞いて、トニー谷の話芸に惹かれ、同級生とまねたりしたことがある。当時の週
刊誌などによると、いろいろ素行上の問題もあったようだが、奇妙な、まことに
個性的な芸風が懐かしい。
そのころ、喜劇人には柳家金語楼、古川ロッパ、エノケンこと榎本健一、花菱
アチャコ、横山エンタツといった面々がいて、大衆的な人気を博していた。これ
らの、おもに浅草の舞台に育った芸能人は、いささかドタバタで、こみ上げる笑
いというよりは、作り上げた笑い、といった風情だった。子どもらにはわかりや
すかったが、どこかなじみきれないような雰囲気があった。しかしいま考える
と、アドリブといい、仕草といい、長い積み重ねの所産のように思える。
おそらく、このようないわば戦前派の喜劇人に対して、さきに触れた森繁たち
のグループは戦後派といえるだろう。古い笑いから、社会全般が民主化に向か
い、経済成長の強まる時代に新しい笑いを持ち込んだ、といっていいだろう。
では、最近の若手の、いわゆるお笑い芸人はどうだろうか。
テレビ時代の波に乗って、やたらに多くの芸人、タレントたちが台頭してきて
いる。問題は、この笑いがぎこちなく、笑う理由もない中身をさらし、しかもレ
ベルの低さ丸出しのおしゃべりを続けているケースが多いことだ。ときには、女
性芸人がハダカになり、その裸体に紐を巻きつけるような醜態をさらす。大食を
誇る芸人が出る。気色悪いことおびただしい。クイズ番組に出れば、非常識、勉
強不足を見せつけて恥じることもない。世代を超えた笑いやトークはほとんどな
い。もっというならば、見るに耐えず、テレビ自体を消してしまうことになる。
そうした背景の一つは、テレビの比重が若者の層に置かれており、漫才など手
軽く考える安直なひと旗組を次々に輩出していること。一発あてれば、という山
師たちは、間もないうちに消えていっている。藝はだれにでもできるものではな
く、素質素養を持ち合わせているか、それを伸ばすための努力を十分にしている
か、そのあたりが軽く考えられ、われもわれも の空気をかもし出しているよう
だ。
つまり、森繁たちの一群が踊りをやり、唄を身につけ、舞台の訓練を重ね、か
なりの時間をかけながら成長してきているのに対して、いまの若手は漫談、漫才
などの訓練だけで手一杯、しかもその売りはハダカになったり、流行語作りを狙
ったり、視聴者には面白くもないやりとりを重ねたり、周囲の反応が見えていな
い。ごく初歩的な社会常識、基礎知識に欠けていることに気付かない。もとはと
いえば、おのれにもともとの素質がないことに自覚がなく、ほどほどの努力で人
気を取れる、くらいに思っているに違いない。
しかも、おのれの非力、努力不足、未熟にかかわらず、視聴率第一のテレビ業
界にのって、専門ないし該博な知識もないままに、もっともらしいテレビキャス
ターや、時事問題などのコメンテイターに加わるなど、プロダクションとテレビ
局は、芸人的タレントの「カオ」で視聴率を伸ばそうと安直な手法に堕してもい
る。さらに、知名度をもとに政界に出ようとし、その野心に乗る政党まで出てい
る。また、信じやすい層を大量に抱える宗教組織に「入信」して、売り込みを図
る者まで出ている。
もちろん、妥当な能力や信念を持つ者であれば、そこまで否定するつもりはな
いが。
まずは素質の有無を見定めるとともに、各種の藝に学び、自らを鍛え、社会を
知り、人々の心中に迫る、そんな自覚が持てるといいのだが、現状でその期待は
容易ではない。 ひと言でいうなら、テレビに登場するにはまだまだ早過ぎる、
ということである。
もうひとつの背景は、このような若者を抱えるプロダクションやテレビ局が十
分な育成策を執らず、レベルの低い番組を垂れ流しにしていることだ。公共的な
テレビが、子どもたちに悪い言葉づかいや品性のない言動をまねさせかねない芸
人、タレントらをそのまま許容していることは決して望ましくない。「見なけれ
ばいいじゃないか」と、茶の間に入り込むテレビ側が言うべきではない。
テレビ局はいま、コマーシャル収入が落ちて、以前のような放漫経営ができな
くなったところから、ギャラの安いお笑い芸人を登場させて番組を埋めようとし
ている。どこのチャンネルを開いても、似たようなお笑い芸人が、似たような番
組に出てきているのは、テレビ局があいかわらず「総白痴化」路線から抜け出せ
ないでいるからだろう。
また興業のプロダクションは、ひと旗上げたい若者たちのなかから選り取り見
どりで採用すればいい。しかも、芸人の世界は人気が出てはじめてひとり立ちす
る世界であり、浮上するかどうかは若者らの「自己責任」ということになるの
で、いわば使い捨てしやすいわけだ。したがって、プロダクション側は伸びる芸
人を多く抱えていればよく、個別の芸人の育成は二の次になりがちになる。
大手のプロダクションは、人気者の芸人をテレビ局に提供するかわりに、イマ
イチの芸人を抱き合わせにして売り込めば、これを受け入れざるを得ない局側は
レベルの低い番組を持たざるを得ないことにもなる。もちろん、強いチェック機
能があればいいのだが、現実はそうはいっていない。
筆者の小学校の同級生にロカビリーで鳴らした山下敬二郎(故人)がいた。所
属のプロダクションにたてつき、終生干され続けて、一時はかけマージャンなど
で生活していた。その父親は落語家ながらマルチの芸達者の金語楼で、われわれ
の卒業式にも来て、講堂の舞台に上がり、しばし父兄たちを含めて笑わせてくれ
たことがある。
にこやかなカオ、にぎやかな舞台なのだが、家では苦虫をかみ殺したようで、
敬二郎にもめったに口を利かず、ただ仕事の準備や稽古は怠らなかった、と話し
ていた。 ベテランにして、そんな緊張のもとに芸風を磨いていたのか、と思い
つつ、時代の流れは必ずしもいい方向にばかり行くものではないなあ、とあらた
めて感じる藝の世界の昨今である。
「笑い」は生活上不可欠なものである。問題は「笑いとはなにか」ということで
提供する芸人にその高い認識がないと、視聴者たちは立ち往生する。そして、文
化の劣化を助長することにもなるにちがいない。
(筆者は元朝日新聞政治部長)
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