【北から南から】中国・深セン便り

『高倉健さん』

                    
佐藤 美和子


 先月中頃、微信(WeChat。スマートフォン用のインスタントメッセンジャーアプリ。日本の LINE に相当)の速報で、高倉健さんの訃報を知りました。

 そしてそれから数日間、中国では多くの新聞やTV番組で、関連ニュースが報道され続けました。インターネットの色んなサイトでも、健さんの略歴から代表作の紹介、日本のニュースを翻訳したらしい健さんエピソードの数々、中国の有名人によるお悔やみの言葉をたくさん目にしました。大手動画サイトでは、特別に高倉健さん追悼特集が組まれていました。そして、それらのサイトでは、ネット民たちがたくさんのコメントを書き込んでいました。

 私がいくつか目を通した中に、恐らく10代20代の若者なのでしょう、高倉健さんのことを全く知らず、それ誰? とか、みんな何をそんなに騒いでいるの? 外国人、しかもただの年寄りの芸能人じゃん、と書き込んでいる人がいました。

 すると、何人もの人が、速攻で彼の疑問に答えていました。
 「若い君が知らないのも無理はない。正直、自分だってそんなに彼に詳しいわけではないからな。けれど、自分たちの親世代にとって、高倉健は特別だったんだ。中国が貧しく、外国の情報はちっとも入ってこなくて娯楽が少ない時代に、『追捕(邦題:君よ憤怒の河を渉れ)』が上映された。映画の中のシーンで見た日本の風景、日本人俳優の姿、あの時代の中国人にとってそれがどれだけ衝撃だったか、想像してみろ」

 「憎たらしい日本人なんかのために、今日はどこもかしこも同じニュースばかりで腹が立つ!」「どいつもこいつも非国民ばかりだ! 日本人がまた一人減って喜ぶべきなのに、嘆き悲しんでいるお前らの母親たちは、みんな売国奴だ」
などといった誹謗中傷コメントのほとんどには、それに対する反論がついていました。

 「わが国の外交部報道官が、哀悼の意を示していたぞ。そんなに言うんならお前、ちょっと外交部まで行ってきて、その売国奴に抗議してきてくれよ」
「私たちはただ、一人の名俳優を偲んでいるだけだよ。彼がどこの国の人かなんて、どうでもいい」
「もちろん日本の右翼や軍国主義などは憂慮すべきだが、それとは別に、日本の科学技術、映画やアニメなどの文化、そしてAVの恩恵を受けていることは認めるべきだ」

 また、40代後半〜50代と思しき人々が当時を回顧して書き込んだコメントも、とても興味深いです。

 「あの頃は週一回きりの上映だったが、『遥かなる山の呼び声』を何度も見に行ったことを覚えている。我々の世代にとっては、高さん(彼を“高さん”または“高師匠”と呼ぶ人は何人もいました)の生き様やスタイル、すべてが崇拝の対象だった。あの時代の男はみな多かれ少なかれ、彼の影響を受けている。つまり、我々の青春そのものだった」

 「母が『追捕』を何度も見にいき、子供だった私もいつも一緒に連れて行かれていた。まだ小さかったから、内容をちゃんと理解していた訳ではなかったけれど、あの映画の雰囲気はとても気に入っていたなぁ」

 コメントの中では、高倉健さんのことを、いまだに『追捕』の中で彼が演じた杜丘という役柄名で呼ぶ人が非常に多く、その映画が当時いかに影響力を持っていたのかを実感しました。そして、その杜丘という呼び名で、91年の留学当時のことを思い出しました。併せてその頃の映画事情なども、少し綴りたいと思います。

 90年代の中国で、私が日本人だと知ると山口百恵さんのことを話題にする人が多かったことは以前にも書きましたが、実は、高倉健さん、中野良子さん、栗原小巻さんの名前もよく挙げられていました。ただ、その頃まだ10代だった私が山口百恵さんと高倉健さん以外の名前を知らず、また私の中国語が初級レベルだったせいで、いろんな人にせっかく日本映画の話題を振られながらも、いつも会話はそれ以上広がりませんでした。

 高倉健さんのことは、当時もやはり杜丘と呼ぶ人が多かったです。相手の中国語が聞き取れない私のために、杜丘、と紙に書いて見せてくれる人もいました。ところがその頃の私にとっての健さんとは、古い仁侠映画の役者さんであり、また彼の出演する映画は『南極物語』しか見たことがなく、杜丘という役柄名をまったく知らなかったのです。後に人に教えられるまで、私はそれをずっと中国人の名だと思い込み、なぜ中国人はそれを日本人の名前だというのだろうと不思議に思っていたほどなのです。あぁ、今なら、インターネットですぐ検索できるのに……。日本人の私に、自分はあなたの国の俳優が好きだということをせっかく伝えようとしてくれたのに、紙に杜丘と書いても私の反応を引き出せず、何人もの人をガッカリさせて申し訳ないことをしました。

 91年当時、私の留学先の大学から一番近い映画館は、北京図書館の中にある映画館でした。日本人の目には、華やかさの欠片もない古臭い設備に見えましたが、実は当時としては割りと新しい建物だったようです。

 その頃の映画チケット代は、2元(当時のレートで約52円)でした。そっと扱わないと簡単にピリッと破けてしまいそうな、薄っぺらい更半紙のチケットです。映画は人気のある娯楽だったので、上映当日ではチケットが完売してしまいます。面白そうな映画があると、いつも留学仲間の誰かが希望者を募り、代表者が数日前に映画館まで買いに行っていました。

 上映時間は夜です。夕闇が迫る中、大学から自転車を15分ほど漕いで、北京図書館へ行きます。バスならたった一停留所なのですが、映画が終わったあとは観客が一斉にバス停に殺到するので、映画の日のバスは日本の電車のラッシュアワー並みに混雑します。一度で懲りて、その後は極寒の冬季の北京でも、ダウンコートを着込んでぶるぶる震えながら、自転車で通いました。私たちと同じように自転車で見に来る人はとても多く、映画上映日の駐輪場に何百台と並ぶ自転車の海は、実に壮観でした。とはいえ、壮観だなんて暢気なことを言っていられるのは行きだけで、すっかり日が落ちた帰りにその中から自分の自転車を探し出すのは、ものすごく大変だったんですけどね……。

 その頃上映されていたのは、かなり古い作品ばかりでした。今でも覚えているのは、『ローマの休日』や『スーパーマン』などの洋画、あとは『釣りバカ日誌』などの邦画、タイトルは忘れましたが、武田鉄矢さん主演のコメディーもありました。初級中国語レベルの私たち留学生には、内容を知っている古い映画は、ヒアリングの練習にうってつけでした。中国語吹き替え版だったので、オードリー・ヘプバーン演じるアン王女が謁見相手と握手をしながら「ニーハオ」と挨拶し、スーパーマンが中国語で「再見!」と言いながら飛んで行くのはとても新鮮でした。

 面白いのは、上映中、必ず何度か映像が止まってしまうことです。映画一本分が一つのフィルムで収まらず、折り返し地点で次のフィルムに入れ替えるためが一つ。また、映写機の故障や、映写室に待機している映写技師が居眠りしてしまうせいで(と、中国人の友人が言っていましたが、本当かどうか?)、映像が途切れてしまうこともありました。そんな時は、観客が一斉に拍手しだしたものです。初めてその状況に出くわした時は、中国人にとって映像の停止はそんなに面白いことなのか?!と驚きましたが、大きな音を立てることで、映写技師にクレームをつけていたのです。もし今の中国でそんなことがあったら、きっと観客は大声で罵ったり、映画代を返せと騒ぐ人が出るでしょうね(笑)。いま思えば、当時の中国人はとても穏やかでした。

 そして、今より遥かに社会主義体制が色濃かった時代を反映した映画事情がもう一つ。映画によっては上映中、とつぜん犬や牛の交尾シーンの写真が映し出されることがありました。当時、セクシャルな方面は検閲が非常に厳しく、肌を露出することはご法度だったのですね。そのため、ベッドシーンになると突然映像が途切れ、数分のあいだ動物の交尾写真が差し挟まれ、映像が復活するとまるで何事もなかったかのように、次のシーンへ移ってしまっていました。そのときばかりは館内がシーンと静まり返る中、大スクリーンで動物の交尾写真を見せられるほうが、よっぽど目の遣りどころに困って、なんとも落ち着かない気分になったものです(笑)。

 少し話は遡りますが、私は中学時代、WHAM!というイギリスのミュージシャングループが好きで、お小遣いを貯めては音楽情報雑誌を買い集めていました。85年、WHAM!は欧米のポップミュージシャンとして初めて、中国で公演しています。そのリハーサルの際、女性バックダンサーたちの体にぴったりとしたレオタード姿が艶めかし過ぎる、黒人女性のダンサーのお尻が大きくて目立ちすぎると当局の指導が入り、ダンサーたちは急遽、胸やお尻の形を隠せるような衣装を上から着込まされた、という記事を読み、初心な中学生の私ですら(笑)、その頃の中国事情に衝撃を受けたことを強烈に覚えています。そしてその6年後でも、相変わらず中国社会が示すセクシャル方面への拒絶感にまた驚きました。展示会のようなイベント事に、ゲストとして日本のAV女優を招いちゃう今の中国からは、考えられませんよね(笑)。

 最後に。これは、健さんの訃報に接した中国ネット民が、残したコメントの中でもっとも多かった言葉です。

 「一路走好、杜丘!(さようなら、杜丘よ!)」
           (筆者は中国・深セン在住・日本語教師)


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