''''【書評】

『現代の見えざる手―19の闇』

  元木 昌彦/編著  人間の科学新社/刊  1,944円

藤田 裕喜


 『現代の見えざる手―19の闇』は、『週刊現代』や『フライデー』の編集長を務めた編集者の元木昌彦氏が、月刊ビジネス情報誌『エルネオス』の誌上で展開したインタビューをもとに構成されている。誌上のインタビューは22年間の長きにわたって継続され、その総数は231編に及ぶが、本書にはこのうち厳選された19編が収録されている。

 主たるテーマはメディアのあり方に関する議論で、多彩なゲストとの議論を通じて、メディアの劣化に歯止めをかけるとともに、今メディアが取り組まなければならない大切なことは何か、多様な観点から問題提起されている。しかしながらゲストとの話題は、メディアにとどまらず、政治から経済、司法や外交、社会保障、官僚制や原発政策、歴史など、あらゆる分野にわたる。本書においては、19の分野に限られるものの、独自かつ専門的な見地から、現代の日本社会の課題がていねいに、また、ときに大胆にあぶり出されてている。

 本稿においても、19の視点のひとつひとつを取り上げたいところだが、評者の独断によって、特筆すべき4つの分野を選び、紹介することで、評に代えさせていただきたい。

●オバマ大統領の登場で急拡大したアメリカの政治と企業の癒着

 堤未果氏によれば、オバマ大統領の登場によって、「コーポラティズム」と表現される企業と政治の癒着関係が急激に拡大したという。オバマ大統領は魅力的なリーダーとして歓迎され、新自由主義も抑えられるのではないかと期待もされたが、皮肉な結果をもたらしたというわけだ。
 その最大の象徴が、日本でも「オバマケア」として知られる医療保険制度改革だ。

 日本での報道(あるいは私の理解)では、「オバマケア」は5,000万人にも及ぶと言われるアメリカの無保険者を救済するための政策で、日本における皆保険制度に近い仕組みを、アメリカでも導入するというものであった。アメリカでは、軽い病気やけがでも、高額な医療費のために病院にかかることができず、重症化して治療できない状況に追い込まれたり、命を落とす場合すらあるという状況にある人びとを救うための制度として、もてはやされていたように記憶している。

 しかし堤氏によれば、実態は無保険であることを違法化したまでに過ぎず、医師と患者の間に民間の保険会社が介在するという既存の仕組みは変えられていない。すなわち、民間の保険会社から見れば、国民の税金によって、数千万人の新しい被保険者が加入してくるという状況が生まれていることになる。従って、「オバマケア」によって一番喜んでいるのは、民間の保険会社であって、そしてこれが、オバマ大統領への、選挙時における政治献金の、最大の功労者(最大の献金者)への見返りであったというから、状況は極めて深刻であると言わざるを得ない。

 堤氏によれば、むしろ問題は、医療保険に加入していても、適切な医療を受けられない、保険に加入しているのに医療破産してしまう場合がある、という。また、そもそも民間の医療保険会社が保険制度に介在しているという構造自体を問題にしなければならないという。
 堤氏は、こうした「コーポラティズム」を止めるためには、もはや法律の力による規制しかないという。法律で規制し、政府が監督し、その政府を有権者が監視する、そして、メディアも正しい情報を提供する。だが、現在の日本でこれが実現できるかどうか、極めて困難と言わざるを得ないのが、残念な現状ではないか。

●旧態依然で機能しない厚生労働省は解体すべき

 木村盛世氏は医師で、厚生労働省では医系の技官を務めていた。在職中から『厚労省が国民を危険にさらす』(2012年・ダイヤモンド社)などの著作を発表し、いわば「内部告発」を続けてきた。木村氏によれば、日本の厚生行政には「パブリックヘルス」という概念が欠如していると言う。日本で「パブリックヘルス」という時、多くの場合「公衆衛生」などと訳されているが、これは衛生状態を向上させることを意味し、具体的には、手を洗って感染症から身を守ること、あるいは、栄養状態をよくすることなどを、目的とするものだという。

 だが、本来の「パブリックヘルス」という概念は、「マスとしての健康問題」を考える概念だという。「マスとしての健康問題」とは何か。木村氏は、日本ではすでに撲滅された天然痘が、日本に入ってこようとしているときの状況を例に説明する。

 日本ではすでに天然痘は撲滅されているため、日本で生活する人の8割は、天然痘に対する免疫を有していない。このため、いったん日本で感染が広がると、それが爆発的に拡大する恐れがある。天然痘の致死率は30%で、後遺症ものこる。
 こうした事態をあらかじめ予測し、どのくらいの人が感染する恐れがあり、どのくらいの人が死に至るのか、後遺症を残す人がどのくらい出るのか。そして、社会インフラにどのような影響を与えるのか、それぞれデータ化する。幸い、天然痘にはワクチンがあるが、緊急時に備えてワクチンをどのくらい準備しておけばよいのか、また、そのためにかかる費用(コスト)はどのくらいか、社会的なダメージと比較した場合、どの程度が合理的かなど、エビデンスに基づいて検討しておく必要もある。こうした政策を検討・研究することこそが、本来の「パブリックヘルス」であるという。

 木村氏は、現代においては、48時間もあれば、人も物も全世界を移動可能であって、感染症の拡大も同様のスピード、規模で発生するとみておかなければならないと指摘する。いわば、世界中で同時多発的に感染症のアウトブレイク(集団発生)が起こる可能性がある。
 にもかかわらず、厚労省の考え方は、旧態依然としたままで、特定の国に対する健康調査で済ませたり、デングウイルスをもった蚊を、網を持って公園で追いかけ回したりしている。同時多発的に起こりうる感染症の拡大に対して、特定の国に対する健康調査で対処ができるのか、どこにでも飛んでいく蚊に対して、特定の公園で捕まえるだけで拡大を防ぐことができるのか。到底有効な対策とは言えないだろう。

 厚生労働省自体にもはや対応する余力がないという。木村氏によれば、厚生労働省は、中身が二つに分かれている別の省庁の寄り集まりで、所管する内容も多く、大きくなりすぎているという。もはや一度解体すべきだと主張する。私たち自身も、厚生労働省の対策に疑問すら唱えず、他に有効な対策があると考えもしていない。感染症の拡大は、自分たちには関係のない、対岸の火事として眺めているような状況では、もはや厚労省と同罪だ。私たちの感覚自体も問われていると言えよう。

●政権を忖度する「絶望の裁判所」と市民の責任

 最後の砦であるはずの司法すら、政権を忖度し、憲法の番人ではなく、権力の番人と化している。そんな信じたくもない、目を背けたくなるようなこの社会の現実を、自身の経験から明らかにするのは元裁判官の瀬木比呂志氏だ。

 瀬木氏によれば、日本の裁判官のキャリアシステムは「相撲番付」のような官僚制に依拠しているが、これが自身の昇進ばかりを考えて上ばかり見る「ヒラメ裁判官」を生み出しているという。むしろ世界のすう勢は法曹一元化で、経験を積んだ弁護士から検事や裁判官を選任するシステムになっており、日本だけの古いシステムになっている。だが、司法が「ヒラメ裁判官」では、もはや機能不全を起こしていると言って差し支えないであろう。

 私たちは国の制度が、立法、司法、行政に分けられている「三権分立」であって、裁判所はその一翼を担い、国会や内閣のあり方を常時監視していると理解している。立法や行政に憲法上の問題があれば、速やかに人々の利益を守り、強者の力を抑制して、弱者や社会的マイノリティを助けるのが、司法の本来のあるべき姿であると信じている。だが瀬木氏は、裁判所がこうした力を十分に発揮することを一度も見たことがない、と言う。むしろ、自分たちが権力の一部であるかのような目で見ており、権力を外から監視するような目は持っていないという。

 また、「統治と支配の根幹は触らない」というのが、日本の裁判所の残念な大きな特徴である。地裁や高裁で、一部の勇気ある裁判官が例外的な判決を出しても、結局、最高裁まで行けば潰される。これも「ヒラメ裁判官」の弊害だ。制度を根本的に変えない限り、方向は変えられないと瀬木氏は主張する。

 そして、さらに問題と言うべきは、こうした事実が、一切報道されず、学者によっても指摘されず、ジャーナリストも追及していないという現状だ。だからこそ、元裁判官という立場の瀬木氏が書かざるを得なかった。本来、司法とジャーナリズムは民主主義社会、自由主義社会の一番の砦であるはずのところ、今は司法もジャーナリズムも機能していない。だからどんどん悪くなるのは、むしろ必然で、もはや日本のシステム全体が劣化していると瀬木氏は断罪する。このような状況では、およそ明るい兆しを見通すことすら困難を感じざるを得ないが、ひとつ希望を見出すとすれば、それは、私たち市民が、良心的なよい裁判官を評価するという態度やシステムをつくっていく点にあるだろう。

 市民の側から、ひどい判決や悪い裁判官を非難する場合は少なくないが、よい判決、よい裁判官を評価するような機会・気概はあまりない。勇気ある裁判官がよい判決を出したところで、それが当たり前で当然の判決だという姿勢をとることがむしろ多いのではないか。

 ヒラメになりきらない、犬になりきらない裁判官は、実際には人事によって、左遷させられ、全国を転々とさせられる。そして、自身の判決も、最高裁で覆される可能性が高い。だが、その勇気ある判断も、市民から支持・評価されることがない。裁判官だけによい裁判・勇気ある判決を期待することは不釣り合いにも思える。私たち市民も、勇気ある良心的な裁判官をきちんと評価・支持し、後押しすることが必要なのではないか。そして同時に、悪い裁判官が出世したら声を上げ、「ヒラメ裁判官」だけが出世できる最高裁の人事制度もきちんと批判すべきではないか。

 たしかに、市民の側から判決や裁判官を評価すること自体、権力におもねるようで受け入れがたい側面があることは否定できないであろう。しかし、司法の現状が「絶望」である以上、私たちもその「絶望」レベルに合わせて行動することも考えなくてはならず、そのための手段として、判決や裁判官を積極的に評価することは決して難しいことではないはずだ。民主主義的なアプローチを及ぼすことが難しい裁判所だからこそ、市民が外から行動していくことが求められていると言えよう。

●「丁稚と大旦那」に象徴される対米従属一辺倒の日米関係

 最終章の内田樹氏との対談は圧巻だ。勢いよく日本社会の現状が切り捨てられていく。
 内田氏は対米従属一辺倒の日米関係を「丁稚と大旦那の関係」と喩える。曰く、大店に丁稚で入った子ども(=日本)が、やがて手代、番頭を経て、大番頭になり、暖簾分けをしてもらう(=独立を果たす)。丁稚の頃から、大旦那に尽くすことが自分の利益になり、それが自立への最短距離であって、これを日米関係になぞらえて言うなら、「対米従属を通じての対米自立」ということになる。実際に、サンフランシスコ平和条約によって形式的であれ主権は回復され、ベトナム戦争を支援することで、小笠原諸島と沖縄の施政権も返還された。誠に理解しやすい構図ではないか。

 この戦略の残滓は現在にまで引き継がれており、日本政府の中枢は、アメリカという宗主国の方を向くエリートたちで占められており、宗主国に忠実に仕えることで、自己利益を確保している人たちが、政策決定の立場にあるという仕組みが維持されている。

 だが、内田氏はアメリカの国力も近年はかげりが見られるようになっていると言う。以前であれば、必ずしもアメリカの統治原理を理解しているとは言い難い安倍晋三のような存在が、属国日本の「代官」を務めているような現状は許されず、アメリカから不快感や不支持が表明されるような状況に至っていたはずだった。しかし、アメリカの国際的な求心力が低下している現在においては、アメリカの政策に有無を言わず賛成してくれるのは日本ぐらいしかなく、アメリカも日本を切ることができない。

 また、今のアメリカには、日本しか収奪できる市場がない。小泉政権以降の「規制緩和」もTPPも、グローバル資本が日本から収奪するために仕組みに過ぎないが、日本ではそれすら論じられない。いわば、宗主国アメリカと、属国の代官たる安倍晋三との利害が一致している状況にある。「日本を収奪することで、アメリカの国益が増大することが、最終的には日本の国益に資する」という理屈こそ、大旦那アメリカの「暖簾分け」戦略そのものであると考えざるを得ない。

 こうした状況を内田氏は、安倍晋三がアメリカの「弱み」につけ込んでいるとアイロニカルに指摘する。安倍晋三にとっては、アメリカの国益を最大化する方向に努力さえしていれば、アメリカからのお墨付きが得られる状況が継続しており、その方向性さえ失わなければ、何をしても許されるという現状をつくり出している。まさに日本は、「アメリカのすがるワラ」に成り下がっている(もしくは進んでワラとなりすがってもらっている)との指摘は、認めたくもない残念な現状だが、しかし見事に現状を言い当てていると言わざるを得ないだろう。

●メディアやジャーナリズム関係者のインタビューが多く残念

 一点惜しまれるのは、編著者が週刊誌の編集者という立場ゆえか、メディアやジャーナリズムに関連するテーマに偏りが見られることだろう。19編のうち7名が新聞社・通信社の出身か、もしくはジャーナリストという肩書きを持つ人で占められている(朝日新聞出身者に関しては7名のうち2名を占める)。

 メディアやジャーナリズムの課題は山積していることは事実であっても、いくつものテーマを取り上げ、繰り返し掘り下げることに、あまり深い意義は感じられず、また、興味も持てない。限られた紙面はむしろ、他の課題―例えば本書で取り上げられていない、安全保障をめぐる議論、あるいは、日本に限らず世界を跳梁跋扈する歴史修正主義をめぐる議論、社会的マイノリティに対する差別・偏見、格差社会や子供の貧困など―に割り当てられるべきではなかったか。「現代の見えざる手」と言うが、編者に見えていない「闇」があると思うと残念だ。

●各分野を掘り下げる入り口として極めて有用

 本稿では取り上げなかったが、他にも小出裕章氏との原発政策をめぐる対談や、藤田孝典氏からの高齢化と貧困をめぐる提起、また、水野和夫氏による資本主義の終焉と国民国家をめぐる議論など、日本と世界の今後を俯瞰するためには必要不可欠な視点が数多提示されている。難解で複雑な話題であっても、わかりやすくひもとくように展開されており、自身に縁の遠いテーマであっても、一読に値するだろう。

 一方で、本書での議論は紙幅も限られており、必ずしもそれぞれの論点がきちんと深められているとは言い難い。本書によって問題の概観を網羅することはできても、問題の本質を深く理解し、問題の解決策を検討するためには、素材不足である点も否めない。そう考えるとむしろ、本書からの問題提起を受けて、読者がどう反応できるか、どう行動できるかが問われているとも言え、読者の側の主体性こそが求められているのではないかとも考えられる。私にはそれが編者の隠された意図ではないかとも感じられる。本書によって、そして本書を手に取った読者によって、現代の見えざる「闇」が暴かれるその端緒となることを期待したいし、私自身も期待に応えていきたい。

 (元衆議院議員秘書)

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