■ 【書評】

「漱石と朝鮮」金正勲著

        (中央大学出版部刊 定価1800円)                  
                            高沢 英子
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 漱石に関する著者の、日本語による二冊目の論文集である。著者はまた、先年
オルタ編集部によって発行された「海峡の両側から靖国を考える」の韓国語版の
訳者でもある。
 
  夏目漱石が、日本の植民地朝鮮の存在を、どう捉えていたか、を韓国の漱石研
究者の視点で、検証を試みたもので、ずばり[漱石と朝鮮]とした表題に、刊行
を企画された中央大学法学部の広岡守穂教授ならびに、出版部の方たちの、率直
な意図が窺える。要処々々に挿入された写真も興味深く、各章末尾の注も懇切丁
寧だ。

 初出一覧によれば、2006年から2009年にかけて、それぞれ、いくつか
の日本の学術誌に発表された論文を、今回書き改めて一つに纏めたものである。
 
著者自身、あとがきで「日本の外側に位置する韓国で漱石をいかに読み解くか
を念頭に置いて漱石と朝鮮の問題を考え直したものである」としつつも、「本書
が漱石と朝鮮の問題を語りつくしているとは思わない」とし「著者としては、文
化共存の目線で漱石と朝鮮の問題を捉えなおした本書が漱石の植民地主義論争に
少しでも刺激を与えればと望むだけである」と謙虚に述べている。

 実際この問題を取り扱うに当たっての、著者の心的葛藤は、簡単に理解できぬ
ほど大きかっただろうと思われるが、それゆえに、それを乗り越えるために、著
者が日本の研究者たちの声に耳を傾け、交流を積み重ね、周到で粘り強い準備と
努力を怠らなかった、という点に、この研究に立ち向かった著者の意気込みが窺
われ、本書に一層の厚みと意義をも付け加えている。

 民族共生の立場を堅持しながら、敢えて漱石の文学作品ばかりでなく、日記書
簡に至るまで詳細に読み込み、漱石が内包する国家論の揺らめきを、その片鱗を
も見落とすまいとしたこうした仕事の貴重さは、どれほど声を大にしても言い尽
くせないものがある。兼ねてから深甚な共感と愛情を持って、漱石の諸作品に親
しんできた著者ならではの労作であろう。

 巻末の「漱石はどう読まれているか」によると、1960年代、韓国で、初め
て夏目漱石の「坊ちゃん」が翻訳紹介され、以来、漱石の初期作品を中心に「坊
ちゃん」「猫」[夢十夜]などが多数翻訳され、よく読まれてきたという。出版
社による、一般読者向けの多角的な取り組みもなされ、いっぽうで研究者による
様々な視点からの研究書も着実に発表されてきたという。

 しかし、韓国人の立場から、夏目漱石が、隣国朝鮮に対する国家の侵略政策を、
一知識人としてどう見ていたか。そして、それらの考えならびに感情を、作品
のなかなどで、どのようなかたちで表現しているか、という微妙な課題に踏み込
んだ一冊の論評は、おそらく、これが初めてではないか。

 難しい問題に敢えて焦点を当て、あたう限り公正を目指して偏見を斥け、我田
引水に陥りがちの道筋を立て直しつつ、どのような、かすかな声も、聞き漏らす
まいと文献を探索し、綿密な考察を行ったことを、あらためて評価したい。

 野上弥生子は1976年,夏目漱石について語った中で「もし夏目先生が大正、
昭和と生きてこられたら、日本に対してどういうふうなお考えをお持ちになっ
ただろうか、ということに非常な関心を持っています」(全集第23巻-「夏目
漱石」282頁)と述べているが、同様の疑問と関心を、日本の読者のみの問題
とせず、海峡の向こうから、投げかけてみせ、誠実な答えを見出そうと努力した
成果には、日本人としても、ひとつの大きな刺激として耳を傾けねばなるまい。

 全体は七章に分けられ、第一章および、第三章、第四章は、漱石の満韓旅行の、
成果ともいえるが半面問題も多く、かつ朝鮮の部分の大半は中断された「満韓
ところどころ」や、「満州講演」などに触れながら、それらのなかに、積極的に
は吐露されなかった作家の本音を、日記及び書簡等を新たに検証し、掬い取るこ
とで、補足しようと試みており、第二章及び第五章、第六章では、主として中、
後期の作品を取上げて、具体的に詳細な論旨を展開している。

 なかでも第二章及び第三章は、時代背景として、安重根による伊藤博文射殺事
件、幸徳秋水の大逆事件などにも、多くのページを割いて詳しく論述し、両国の
関係の、複雑な網の目を見据えながら、漱石がどのように、国家イデオロギーに
色濃く染められてゆく時代の様相を見つめ、作品その他の中で、自己の見解を表
明しようとしたか、を探り出し、漱石を、単なる植民地主義者と片付けて、彼の
ヒューマニズムと切り離して考えようとする説などに、被植民地の民の立場を最
も理解する位置に立ちながら、真っ向から、疑問を投げかけて、新たな光を当て
ようとしている。

 ただ、このあたりに関しては、すでに二、三書評も出ており「図書新聞」にも、
亀田博氏による全般にわたる丁寧な論評が、いちはやく掲載されているので、
ここでは、第五章、第六章を中心に、歴史的観点というより、むしろ文芸的観点
から、後期の作品「彼岸過迄」「明暗」などのなかで、漱石が、政治的に無力な
インテリゲンチャー及び一般市民の口を借りて、当時の韓日関係を、どう描こう
としたかに着目している点を取上げてみる。

 「彼岸過迄」の敬太郎と森本、「明暗」の津田と小林。それぞれに、生き生きと
描かれるこの四人の人物像に、著者が、日本的情緒を纏わりつかせることなく、
容赦なく照射して見せる分析は鋭いものがある。そして、これらの作品が、近代
日本の構造的矛盾と人心の疲弊、うわっ滑りの資本主義社会の犠牲者は、卑劣な
手段で植民地化されゆく旧満州や朝鮮の人々ばかりではない、ということを、は
っきりと形象化している点を見落とすことなく、浮き彫りにする。

 すなわち、列強に遅れをとるまいと驀進する日本の資本主義社会の中で浮き沈
みしながら、弾き出されてゆく、日本社会の犠牲者たちの実態が、具体的に、作
品の登場人物たちの言辞を通じ、見事に描き出されていることを、著者は見逃さ
ない。

 しかし、森本や小林のような、大陸放浪者の言動を、「日本においては、生の
意味を見出せず、自己の基盤を形成できず、朝鮮行きに新たな進路を求め・・」
「近代日本の現実に失望し、反社会的意識を持て余し、絶望の果てにやむなく選
んだ選択である」としつつ、「「小林にとって朝鮮は現実逃避の場であり、少な
くとも金銭や階級、そして労働に対する抑圧から解放されるようなところとして
捉えられていたはず」とし「矛盾した意識の相克に苦悩する日本の一知識人の路
程」というように規定しようとすることには、多少の無理と違和感を感じさせら
れる。

 この時代に 社会から弾き出されている、と感じているこうした人物たちが発
散する哀歓を、漱石ほど、自在に巧みに描いて見せた作家は他にいないと思われ
るが、それゆえにこそ、経済的に余裕を持って、時代に背を向けている主人公敬
太郎や津田と対峙する、森本、小林の二人の人物が代弁する人間性の病理は、彼
らの言葉の虚妄性と、意表をつく行動、弱者特有の詭弁と相俟って、ユーモアと
ペーソスを漂わせつつ、やるせなく、日本人の心を打つのである。

 しかし、彼ら大陸放浪者群を、現実に受け入れざるを得なかった韓国からみれ
ば、そうしたアウトロー的人物たちの、何とかなるさ的生き方を、単純に否定的
目線で切り捨てるほど、甘くなれいのは当然のことであろう。

 そして、彼らが、実は立派な人物ではなかったとしても、大筋では、本来、日
本人が持つ甘さ、いい加減さ、情緒的弱さ、それゆえに、却って彼らが見せる誇
大妄想的言辞等々をもひっくるめて、漱石の描いた人物像を、人間の真実を描い
たものとして読み取り、裏に潜む、切実な社会悲劇の一面を、抉り出そうとした
著者の視点に狂いは無い、ということも充分首肯できる。

 文芸作品を論じる場合、常にそうであるように、また、著者みずからも言うよ
うに、これ等の分析が、必ずしも「全てを言い尽くしているものにはならない」
し、論者の視点にも、幾分揺らぎが生じるのも、やむをえない。しかし、それゆ
えにこそ「文化共存の目線で捉えなおした試み」は充分意味のあることと思われ、
これを「新たなる刺激として」韓日学者たちの活発なアプローチが、さらに深
まることが期待される。

 漱石を、単なる植民地主義者であり、時代の閉塞性に目をそむけ、冷ややかに
傍観していた、とすることの安易さを、問い直すことの重要性を指摘し、あえて、
時代に生きる作家の秘められた苦悩を読み取ろうとする姿勢に、この著者の、
作家漱石に対する並々ならぬ愛情を、あらためて感じさせられた。

 かつて、森鴎外は、小説はなにをどう書こうといいものである。と言ったが、
これを逆にいうと、また、どう読もうといいわけで、その意味で、文芸作品が、
永遠の生命を持つものであること。そして、すぐれた小説を読み解く事には、多
様な可能性があることを、また一つ海の彼方から教えられた力作であると思う。

 長年にわたって、一貫して漱石を座標軸に据え、研究を進めてきた著者の成長
振りは目覚しく、今後の仕事がますます期待される。同時に、これを機に、日本
の近代文学探求に、さらにいちだんと、新たな広い視野が開かれることを。心か
ら待ち望む。
            (評者はエッセスト)

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