【書評】

『戸籍と国籍の近現代史』

  遠藤 正敬/著  明石書店/刊  3,000円+税

斉藤 保男


 故・南部陽一郎氏や中村修二氏のノーベル賞受賞。大関琴奨菊・豪栄道の「日本出身力士」の初優勝。蓮舫民進党代表の二重国籍に関する報道。私立高校の女性教員の旧姓使用を認めない東京地裁判決。これらの話題に関連しているのは、日本人と国籍・戸籍である。

 ノーベル賞受賞者をカウントする時は、アメリカの市民権を取得していて日本国籍から離脱している人も含めている。しかし、大相撲の優勝力士の話題の時は、モンゴル出身で優勝時に日本国籍を取得していた旭天鵬(現・大島親方)は含めない。蓮舫氏は父親が台湾出身だが日本生まれの日本育ちで、日本国籍を取得していたが、二重国籍状態のままでいたことについての説明が二転三転し大いに批判を浴びた。その際インターネットの一部では「国会議員という公職に就いている者が二重国籍であることが問題だ。台湾国籍離脱の証拠として戸籍謄本を公開しろ」という意見もあった。

 ここで国籍問題に戸籍が登場してくるのである。そして婚姻時に夫の姓に変えたが生徒や保護者に対して旧姓を用いている女性に対して旧姓使用を認める訴えを棄却した東京地裁の判決では、戸籍上の氏のほうが高い個人認識機能があり合理的という判断を示した。結婚前からの姓を職場で使用しているにもかかわらず、それよりも個人認識機能のある戸籍上の氏。しかし戸籍で登録している住所が任意で変えられ、皇居にしているなどという話もよく聞くのに、本当に戸籍に個人識別機能があるのだろうか。そもそも戸籍は私たちの生活などにどのように関わっているのだろうか、あまり深く考えたことがない人も多いのではないだろうか。

 本書は、日ごろ私たちが無意識のうちに規定している「日本人」という概念について、戸籍と国籍のあり方から捉えたものである。戸籍というと、筆者も言及しているが、日ごろ私たちが意識する機会は自動車の運転免許証やパスポートの更新の時に抄本を手に入れるくらいのものである。
 戸籍について政府では「世界に冠たる」存在と捉えられているが、しかし戸籍の定義は戸籍法の中にもない、というあいまいなものである。筆者によれば、日本の戸籍を規定するのは、父系を中心とした「血統主義」による「家」制度の保持に向けた、国民管理装置としての権力性である。日本人が日本人たるゆえんは簡単には証明できないが、戸籍に日本人として記載されている親から生まれた子は日本人である、と判断ができる。
 しかし、それだけなら他の国々のように個人の出生から死亡までを登録する個人登録制度で事足りるのにもかかわらず戸籍を用いるのはなぜか、という点について「続柄」によるタテの関係性と「戸主」を中心とした家族というヨコの関係性を索引できるようにすることで、日本国民を管理統括することが目的であると筆者は指摘している。そして「血統主義」と「家」へのこだわりは、明治政府がつくりあげた、天皇を中心とした一家としての日本という仮構に根差していると分析している。それは外国人が日本国籍を取得する際に、今でも律令時代の用語と同じ「帰化」と表現するのは、「化外の民」である外国人への恩典としての意識がある点からも読み取れるとしている。
 この「血統主義」と「家」へのこだわりが強く表れる例として、日本人と外国人との国際結婚の例を挙げている。1984年に国籍法が父母両系の血統主義を採用するまでは、父系血統主義により父親が日本人の場合のみ子が自動的に日本国籍になる状況であった。また戦前の国籍法では、外国人の配偶者は日本人の「戸主」と結婚した場合は日本国籍だが、離婚した場合は日本国籍を離脱するなど、国籍の取り扱いよりも戸籍上の取り扱いが優先される、というきわめて特殊な取り扱いになっていた。

 ここで国籍のことに触れたが、筆者によれば国籍の概念が明確化されたのは、フランス革命を契機として国家への帰属意識が高まり、19世紀初頭のナポレオン民法典とのことである。ここで領主と領民、君主と臣民という関係から、国家と国民という形で規定される中で、一人ひとりの所属をを明らかにするうえで国籍が必要となったのである。しかし一方で19世紀にヨーロッパ各国がアジア・アフリカ等において植民地化を進め「帝国化」することで、植民地化された地域の人々をどう取り扱うのか、という問題が生じたのである。
 同じく日本でも台湾、南樺太、朝鮮半島、南洋群島などの領土を拡大した際に同様の問題が生じた。これらの日本の新しい領土には、それぞれ別の戸籍制度が施行され、「本来の」日本である「内地」とこれらの戸籍との転籍が禁じられていたのである。これが「内地人」と「外地人」として、同じ大日本「帝国」の中での身分管理として機能していったのであるが、これらの「外地人」に対しては、日本の敗戦に伴い日本領土でないことがサンフランシスコ講和条約で確定すると強制的に日本国籍を離脱させ、いわゆる「在日朝鮮人」としての問題を引き起こしていくのである。また米軍統治下にあった沖縄では、「琉球籍」として戸籍が管理されていくが、空襲による戸籍の焼失などもあり血統主義とは異なる新たな戸籍作成の必要が生じたため、日本の戸籍制度とは異なる状況を生じたのであった。

 戸籍が国民管理装置である、という筆者の指摘の側面は、こうした植民地統治だけではない。明治以降日本の領土として宣言された北海道には先住民族のアイヌが存在したが、彼らについては日本人として戸籍に登録された後でも「旧土人」と戸籍に記載されることにより、同じ日本人の中での差異をことさらに強調されたのである。また明治最初の戸籍である壬申戸籍(1872年)では江戸時代の身分制度が族称として記載されており、また戸籍が個人情報であるという認識ではなく長らく閲覧可能な存在であったことから、企業の採用時における部落差別問題などを引き起こす要因ともなった。このように、戸籍制度が日本人としての存在を規定するとともに、さまざまな人権問題を生じさせる温床ともなったのである。

 このような戸籍制度は前述の外国人との結婚や植民地統治においてもさまざまな矛盾を生じたが、今後も日本国民は戸籍制度を保持していくのだろうか。筆者はこれを、日本における民主主義の成熟度を測るものであると指摘している。戦後の日本国憲法の施行により、男女同権などの民主化が進展し、「戸主」を中心とする戸籍法と民法の体系は見直された。そうは言っても、日本国籍を取得した元外国人や旧植民地出身者に対する差別意識は何かをきっかけに沸き起こることが見受けられる。
 またらい予防法が生み出したらい病患者への人権侵害は、そもそも差別を恐れた家族から患者を切り離し新たな氏名を与えたところから始まっている。選択的夫婦別姓制度の是非への態度は、戦後の民法が家族を一組の夫婦を基本単位として規定していることを重視するのか、それとも「夫婦は同一の氏であるべし」という、明治に始まり戦前の戸籍法で規定されていた主に男性を戸主とする「家」制度の観念を重視するのか、という対立する考え方と結びついていると言える。最近では、夫によるDVを避けて子の出生を届け出なかったために、その子が無戸籍となることで義務教育を受けられない、などのさまざまな問題を生じることが知られるようになった。こうした現在の日本に存在するさまざまな人権や家族の問題の背景に、戸籍とそれを貫く構成原理が関わっていることに、改めて本書は気づかせてくれるのである。そしてそれらの問題の解決に向けてどどのように取り組んでいくべきか、その時日本の戸籍をどうするのか、私たちは改めて考えていかなくてはならないのである。

 蓮舫氏の二重国籍に対して、国会議員という公職に就いている者が外国人であることはけしからん、といった意見や台湾籍離脱を示す戸籍謄本を公開しろ、という意見がインターネットに上がっていた。そういえばペルーの大統領だったアルベルト・フジモリ氏が衆議院選挙に立候補したことがあったが、この時二重国籍、しかも外国の公職のトップに就いていた者の立候補について問題視する意見はあまり聞かれなかったように記憶している。ここにも日本「出身」かそうでないか、を無意識のうちに見る私たちの国籍や戸籍に対する考え方が現れていたのではないだろうか。

 (東京都在住・大学職員)


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