【書評】

『思想史としての現代日本』

  キャロル・グラック 五十嵐 暁郎/編著  岩波書店/刊  定価 3,500円+税

岡田 一郎


 本書は、2005年7月16~18日に立教大学で開催された、「現代日本の精神史」というシンポジウムに提出された論文をもとに構成されている。2005年7月といえば、郵政民営化法案をめぐって、小泉純一郎首相と反対勢力との駆け引きが繰り広げられていた時期である。8月8日、郵政民営化法案が参議院で否決されたのを受けて、小泉首相は「民意を問う」として衆議院を解散し、9月11日の総選挙において大勝をおさめ、その権力基盤を盤石なものとした。

 本書のもととなった論文はそのような政治状況の中で執筆されたため、小泉首相が奉じる新自由主義にいかに対抗するかという点に主眼が置かれたものとなっている。本書の刊行は「様々な理由」(本書247頁)からシンポジウムから10年以上遅れることとなった。その間に東日本大震災(2011年)があったとして、論文執筆者に編者は東日本大震災について触れるよう要請したというが、それでもいささか論文の内容が時代錯誤のような印象を受けた。

 この違和感はどこから来るのだろうか。思えば、小泉首相の権勢の絶頂期は彼が奉ずる新自由主義の絶頂期であったが、その反面、新自由主義に対する怨嗟もまた強烈であり、新自由主義に対する対抗概念や対抗勢力に対する期待もまた大きなものであった。しかし、シンポジウムから10年以上経った今日、我々は新自由主義に対する対抗勢力や対抗概念が無残にも敗れ去ったことを知っている。

 小泉首相退陣のころから新自由主義がもたらした格差社会に対する批判が高まり、第一次安倍晋三内閣から徐々に新自由主義的な経済政策の修正が加えられていった。さらに2009年の総選挙では「国民の生活が第一」をスローガンに掲げ、新自由主義を批判した民主党が大勝し、政権交代が実現した。しかし、発足した鳩山由紀夫内閣は格差社会の是正に取り組むことなく時間を浪費し、普天間基地移転問題でつまずいて辞任に追い込まれた。その後の菅直人・野田佳彦内閣は2009年総選挙の際に掲げていなかった新自由主義の復活に邁進し、小沢一郎派との党内対立に血道を上げて、政権と党を完膚なきまでに破壊した。結局、鳩山元首相も小沢元幹事長も「新自由主義を批判したほうが有権者の受けが良い」といった程度の認識しかなく、いかに新自由主義によって傷ついた日本社会を立て直すのかという展望も覚悟もなかったのである。

 そして、菅・野田両元首相には、「どういうことを唱えれば有権者の受けが良いか」といった判断能力すらなかったのである。2011年3月11日の東日本大震災とそれに伴う福島原発の事故は、原子力発電に対する恐怖を呼び覚まし、久しく低迷状態にあった社会運動の興隆をもたらした。だが、反原発運動に代表される社会運動は各地でデモを開催するだけで自己満足し、有力な政治勢力たりえなかった。もし、反原発運動をはじめとするこの時期に興隆した社会運動の指導者に政治的センスがあったならば、ヨーロッパの緑の党のような政党を立ち上げ日本社会の在り方に疑問を持った人々を組織化していただろう。

 一方で新自由主義もまた、かつてほど人々から支持されなくなった。自由民主党以上の新自由主義政党として出発したみんなの党も日本維新の会も、指導者である渡辺喜美や石原慎太郎、橋下徹の失脚や政界引退によって勢いを失った。第2次ベビーブーム世代を中心とする若者の貧困が深刻化し、何でもかんでも「自己責任」で済ませてしまおうという風潮はなりをひそめ、社会政策の必要性が論じられるようになっている。現在の安倍晋三首相の政策を見ていると、かつての小泉元首相のような単純素朴な新自由主義への信奉もなく、かといって表面上は自身の第一次内閣や野党時代のような単純素朴な国粋主義への信奉も見られず、新自由主義・国粋主義・社会民主主義を状況によって使い分け、いいとこどりをしているようにみられる。

 本書の収録論文の中で、今日の観点から見ても古くない印象を受けたのは、ハリー・ハルトゥーニアンの「季節はずれのはかない幽霊」だけであった。ハルトゥーニアンは、アメリカは日本占領にあたって、共産主義革命や大混乱を避けるという観点から昭和天皇の戦争責任を免罪し、日本国憲法によって天皇の権威を再構成して、天皇制の存続を助けた。さらにソ連との対抗の必要から占領改革の目的を平和な社会民主主義国家をつくることから、アメリカに従属する反共国家・寡頭制的民主主義国家をつくることへと転換し、冷戦が終結した後も日本自身がそのような従属関係から逃れることを拒んでおり、戦後の清算を主張する国粋主義勢力すらアメリカ支配の範囲内での自立しか望んでいないと指摘した。
 第2次安倍晋三内閣の発足を受けて書き直した跡がみられるので、2005年の段階でこの論文がどのような内容であったのかはわからないが、ひょっとしたら白井聡の『永続敗戦論』を先取りする内容であったのかもしれない。ただ、最近の安倍内閣は単なる対米従属ではなく、中国との関係改善をはかろうとするなど、独自外交の動きも見せており、ハルトゥーニアンの分析のように単純に割り切れない要素が出始めているように思われる。

 他の論文についても概観してみよう。テツオ・ナジタ「個人と協同」は前近代の日本において、「無尽講」という共助のシステムがあり、その精神がその後の近代化の流れの中でも脈々と受け継がれていったことを指摘している。ナジタはこの精神に新自由主義に代わって日本社会を再生させる役割を期待しているように読める。だが、私には日本社会は徹底的に共同体が破壊されて、ばらばらの個人に分解されているようにしか見えず、共助の精神が何らかの力を現代で持てるとは思えない。
 社会学者の宮台真司は現代日本社会を「かわりに日本社会は、共同性の崩壊、つまり誰が『仲間』かわからない不安を、逸脱的な他者に集団炎上して『インチキ仲間』を捏造する営みで埋めるようになりました」(宮台真司(聞き手:高久潤)「時代のしるし うそ社会 軽やかに適応 宮台真司さん『制服少女たちの選択』」『朝日新聞』2017年12月27日付夕刊)と評しているが、私の日本社会観は宮台のそれと同じである。現代日本人は互いに助け合うどころか、右も左も疑似的なムラ社会をつくりあげ、仲間内では気味の悪いなれ合いをしつつ、互いに罵りあっているだけではないか。

 栗原彬「『新しい人』の政治の探求のために」は水俣病患者を例に挙げて、逸脱者を徹底的に排除する日本社会の非情さと逸脱された者が持つ高い倫理性を描写している。そして、水俣の悲劇を生みだした社会システムは今日まで引き継がれて福島の悲劇を生みだしていること、一方でそれに対抗する社会運動が勃興しつつあることを指摘している。栗原が描写している、水俣病で父を亡くした男性が父の死の原因を明らかにしようと助言を求めるために「人権擁護委員」を訪ねたところ、「そんなにお金がほしいか」と言われて追い払われたというエピソードに、日本社会の逸脱者に対する冷たさが象徴されているような気がしてならない。そして、社会から冷たく追いやられた人々に寄り添う想像力を、革新勢力もまた持つことが出来なかったことを栗原は厳しく批判する。
 60年安保闘争のデモ隊が水俣市内を行進しているときに、チッソの工場に抗議活動に訪れた漁民たちのデモを見て、安保デモのリーダーは「皆さん、漁民のデモ隊が安保のデモに合流されます」と叫んだという(本書40頁)。このような「自分たちは絶対的に正しいことをしており、他の人々も自分たちと同じ関心を抱いており、自分たちを支持してくれるはずである」という想像力に欠けた思い上がりは残念ながら、栗原が期待している最近の社会運動にも共通しているように思えてならない。

 キャロル・グラック「近代日本における『責任』の変移」は「責任」という言葉が近代日本でどのように受け入れられていったのかを追いながら、その言葉の意味するところがあいまいであることを指摘し、「自己責任」「戦争責任」という言葉が為政者によって都合よく使われていることを指摘している。弱い立場の者は「責任」を厳しく追及されるのに対して、権力者は責任をあいまいにし、無責任な態度をとり続ける。この指摘はかなり鋭い指摘である。日本軍と戦った旧ソ連軍の将軍が「兵士・下士官は有能で勇敢だが、将校以上は無能」と日本軍を評したという話はかなり有名だが、「指導者が無能な政策を遂行し、国民が驚異的な努力でその破綻を食い止めるも力尽きて破綻に至る」という例は日本で多々見られる。しかし、国民自身が「我々に責任はない。責任は指導者にある」と指摘しなければ、同じような歴史は何度でも繰り返される。結局は日本人自身が、自分たちが苦しむ状況を作り出していると言っても過言ではないのではないだろうか。

 武田宏子「親密性をめぐるせめぎあい」は、高度経済成長期に形成された、男性が働きに行き、女性は家庭で専業主婦となるという性的役割分業の考え方が、女性運動の高まりによって次第に解体され、男女共同参画社会基本法が制定されるまでになったものの、男女共同参画社会の考え方が人件費の削減を狙う経営者たちに利用され(武田の言葉を借りれば「横領」され)、労働者の非正規化をもたらしたことを指摘している。女性の社会進出を促し、男性と女性で仕事を分け合うならば、オランダのように正規と非正規の待遇格差を解消し、非正規労働者のキャリアアップのためのきめ細かい政策が必要だったはずである。しかし、実際には日本では男女共同参画社会の名のもと、一部の女性がエリート正規労働者として迎え入れられて過重労働を強いられる一方で、多くの男女が非正規労働者にとどめ置かれ、ろくな救済策も施されないままほうっておかれた。このような非正規労働者はやがて年を取って十分働けなくなったとき、社会問題化すると指摘されていたにもかかわらず、今日に至るまで何の対策もとられず、為政者は見て見ぬふりをしている。

 五十嵐暁郎「『構造改革』の思想」は、小泉元首相が盛んに口にした「構造改革」という言葉の空虚さを指摘しつつ、かつて社会党を席巻した構造改革論と江田ビジョンこそ、現代日本社会を再生させるビジョンたりえるのではないかと指摘した。2007年の参院選で自民党が大敗し、民主党が参議院第一党となって江田五月議長が誕生し、政権交代の機運が高まったときに一時的に江田三郎の再評価がおこなわれたことがあった。五十嵐の議論はそれを先取りするものであったといえよう。ただ残念なことにその後、江田三郎の理論が深められることはなく、江田の存在は再び忘れられてしまった。

 本来ならば、江田の最晩年のパートナーであった菅直人と江田の長男である江田五月が指導者をつとめる民主党において、構造改革論や江田ビジョンを民主党の理念を先取りしたものとして深める必要があったはずである。そうすれば、民主党政権が理念不在のまま漂流することはなかったであろう。しかし、そうならなかったのは、菅や江田五月の問題というより、民主党という党自体が、理念をめぐる争いで終始して党の力を使い果たして消滅した日本社会党を反面教師として創設された政党だからだったからではないだろうか。しかし、政策は自らの理念を実現するために考案するものである。理念なくして政策を立案するとするならば、それは如何に有権者に受けるかという観点から立案されることとなり、ポピュリズム(大衆迎合主義)に堕することにならないか。

 政治評論家の俵孝太郎は1997年に刊行した著書の中で、江田三郎が最後まで自分なりの社会主義理論を打ち立てようと努力したことを高く評価し、それゆえに彼なりの組織や人材を作り出すことが出来たとして、「情念では、一時的に人を動かすことはできても、人を組織したり、育てたりすることはできない。江田三郎は、社会党江田派をつくり、社市連をつくったし、社会党書記局では貴島正道、加藤宣幸、森永栄悦の“江田派三羽ガラス”を大成させ、数はそう多くないが、自前の国会議員も生み出した」(俵孝太郎『日本の政治家 親と子の肖像』中央公論社、1997年、157頁)と指摘する一方、江田三郎と対照的に理念を軽視して「市民」との連帯を強調する当時の政治運動(民主党はまさに市民の党として出発したわけだが)を次のように批判した。

 しかし、“市民”はあくまで政治の客体であって、主体にはなり得ないのではないか。“神は死んだ”と叫ぶこととは別の次元で、人間の精神の拠って立つべき基準を求めようとすれば、どこかから新しい“神”を見つけ出してこなければ、話になるまい。それと同じことで、冷戦構造を背景として成立していた東西両陣営それぞれのイデオロギーが衰弱した今こそ、民主政治の主体であり、権力の司祭である政党政治家は、価値観が多様化した時代を反映した柔らかい構造の、しかし社会にとって不可欠である連帯や統合を導き出すことのできる、新しくて明晰なイデオロギーを、“市民”の前に提示することを迫られているはずである。

 そのための努力が尽くされなければ、政治家は“市民”とともに“風”に乗って浮遊するだけの、時代の客体に止まってしまう。そのとき政党政治は死滅し、弱肉強食の荒れた社会の中で、ファシズムでもなんでもいいから強力な基準を示してくれという、“自由からの逃走”の気分が、“市民”の中に高まっていくことになるだろう(俵、前掲、164頁)

 残念ながら俵の言葉は予言の言葉となってしまった。五十嵐論文がもう少し早く世に出ていれば、江田三郎の思想の見直しも進み、民主党や社会運動の在り方を考え直す契機となったかもしれない。本書の刊行が大幅に遅れたことがつくづく悔やまれる。

 井上雅雄「『失われた』四〇年」は、戦前や終戦直後の労働者には、仕事の「成績」や「技術・技倆」に誇りを持ち、それを認めてもらうことでホワイトカラーと対等な立場にたとうという「止みがたい能力指向性」を持っていたことを明らかにし、経営側はその性質を巧みに利用して、経営者に従順な労働者像を作り上げたと指摘している。一方、労働組合側(社会党・総評ブロック)は労働を苦役と定義して、労働は少なければ少ないほど良いとし、生産性向上は会社側を利するとして反対したが、これは「止みがたい能力指向性」を持つ労働者の離反を招く結果となったという。このような指摘は実際に経営側や民間企業系の労働組合の人々と話し合ってみると腑に落ちるものである。たとえば、高度成長期に各工場に作られたQCサークルは、左翼系の歴史学者やジャーナリストの本では「休日まで経営側が労働者を管理するために設置した団体」と紹介される。しかし、経営者や民間企業系の労働組合は「QCサークルによって初めて労働者は経営側に自分たちの提案を伝える手段を得た」と説明する。

 確かに上からの命令でいやいやながらQCサークルを作ったのなら、労働者が嬉々としてQCサークルに参加し、積極的に提案を経営側に発表しようとしたのかを説明できない。経営側や民間企業系の労働組合の説明の方が納得できるものである。学者やジャーナリストが自分の作品を他人に評価してもらいたいのと同じように、労働者だって自分たちの労働の成果を評価してもらいたいと考えるのは当然のことだ。それを「労働者はいやいやながら仕事をしているのであり、仕事量を減らして休みをとってあげることが彼らのためだ」と考えるのはあまりにも労働者を蔑視した考え方ではないだろうか(ただし、過労死するほどの過重労働を労働者に課すことを肯定しているわけではない)。

 本書のもととなったシンポジウムは1985年に開催された「戦後日本の精神史―その再検討」というシンポジウムを意識して、その20年後に開催されたものである。20年前のシンポジウムの内容は3年後の1988年に本となって、当時、大きな反響を呼んだという。本書もシンポジウム開催から3年後程度(すなわち2008年ごろ)に刊行されていれば、当時の日本社会に対する提言として大きな反響を呼んだであろう。各論文の内容がきわめて優れているからこそ、本書の刊行が大幅に遅れて、シンポジウム開催から10年以上経て、いささか時代遅れの内容になったことは残念でならない。

 (小山高専・日本大学非常勤講師・オルタ編集委員)

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