【北から南から】深センから  

『中国1978年のカラーテレビ』   佐藤 美和子

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先々月のオルタ第39号に、25年前のイギリス生活で体験された事と、私がい
ま中国で体験していることが不思議に似通っているという、メルボルン在住の入
江鈴子さんのお話がありました。
先進国のイギリスやアメリカですら、実は光熱費の支払いや簡単な手続きです
らスムーズにいかないことなどは話には聞いていましたが、本当に本当だったん
ですねぇ。そういえば、今月わが家でも光熱費の引き落としでトラブルがあった
ばかり。まぁトラブルと言っても、知らない人が口座番号をうっかり間違えて、
我が家の口座に光熱費を振り込んでしまったらしく、確認と返金作業のために来
店してほしいという銀行からのお願いだったんですが・・・・・。ついつい日本
と違ってスムーズに事が運ばないことにイライラしてしまいますが、何につけ秩
序重視な日本が世界では特殊な国家、ということなのでしょう。

最近、中国の知人から、彼の子供時代のエピソードを聞く機会がありました。
この知人、実は中国残留孤児の子孫で、生まれ育ちも国籍も中国なのですが、
いくらか日本人の血が混じっています。日本にも戦後、無事帰国できた血縁関係
者がおり、日中国交が回復され、文化大革命が終わった頃からちょくちょく行き
来していたそうです。
ただ、「行き来」とは言っても、もちろん当時は中国人が日本へ行く事はかな
り難しい事だったので、日本側の身内が一方的に中国を訪問するばかり。しかも
当時は日中間に直行便がなく、東京から北京へ行くのには、はるか南方の香港経
由でぐるりと大回りしなければなりませんでした。まず東京から香港へ飛び、香
港から鉄道で深セン経由・広州へ移動、そこからやっと飛行機なり列車なりで北
京へ北上するのです。愛新覚蔵羅・溥傑氏と戦後再会するために中国を訪れた夫
人の嵯峨浩氏も、同じルートで北京へ行っておられたようです。

一方通行とは言え、たびたび訪問してくる日本の身内は、毎回さまざまなお土
産を持参してくれていました。モノの本によると、80年代後半でも中国へのお
土産に100円ライターやカラー写真のカレンダーなどが喜ばれたそうですが、
70年代後半に小学生だったその知人はその頃すでに日本のシャーペンやライタ
ーを持っており、学校にこっそり持って行っては友達に見せて自慢したそうです。
まだマッチしかなく、しかも粗悪品も多くて点火がなかなか難しかった時代、か
ちっとボタンを押すだけですぐに火がつくライターは、手品でも見ているようで、
とても驚かれたとか。で、この知人ったら、しばらく遊んで飽きると露天商に持
ち込んで売っぱらっては小遣いを手に入れ、親に内緒で買い食いしたりしていた
んですって。どの国、どんな時代でも、悪ガキのすることって同じなんですね~
(笑)。

お土産の中でも一番大きなものは、なんとカラーテレビ!電圧や周波数、テレ
ビの方式が違っており(日本はNTSC方式、中国はPAL方式)、今でも日本製
テレビは中国では基本的に使えないため、その身内は香港でシャープのカラーテ
レビを買い、北京まで運んできました。78年ごろのことだそうですが、関税や
輸送費など諸々を含め、680米ドルもかかったとか。ちょっとネットで調べてみ
たところ、78年末に1ドル=180円の高値を記録したとあったので、それで計
算すると122,400円。当時の日本の物価からしてもかなりすごい値段でしょう
が、更に中国でと考えると、想像も付かないほどの高額でしょうね。

その頃の北京では、まだ白黒テレビでさえ、数百軒に一軒という程度。は?彩
電(カラーテレビ)って、なに?というくらい、カラーテレビの存在すら知らな
い人もまだまだ多かった時代のことですから、それが一般家庭にあるだなんて、
そりゃもう大変なハナシです。始めは家にカラーテレビがあることも隠していた
そうですが、やっぱり子供が外でしゃべっちゃうんですよね~、「俺んち、カラ
ーテレビがあるんだぜ!」って。あっと言う間にご近所に広まり、大勢の人が毎
晩見にくることとなりました。

当時のテレビ放送時間は、夜7時~12時までの、一日たった5時間です。夕
方になると大勢の人がやってくるので、アンテナを引っ張りだし、庭に大小の机
を二つ重ね、その上にテレビを高々と鎮座させます。家の中にはとうてい入りき
らないほど大勢の人が詰め掛けるので、後ろの方の人にも見えるように、という
工夫ですね。

テレビがやって来たのは夏だったので、初めの数ヶ月は毎晩そんな調子で、な
んと自転車で1時間もかかるところから見に来る人や、後ろの方では見えにくい
からと、望遠鏡持参で見に来る人もいたとか。テレビを見るために晩御飯を大急
ぎで済ませ、遠いところからわざわざ自転車こいでやってきてはみんなで小さな
テレビを囲んで楽しんでいる様子を想像すると、なんだかこちらも楽しくなって
きます。

夜12時になれば、放送が終わるのでお開きです。夜遅くに遠い家に帰るのが
面倒な人は、籐の椅子やゴザを借りて雑魚寝で泊まっていったりも。みんなが帰
ったらテレビはまた居間に運び込み、ブラウン管が壊れては大変だからとシルク
製の立派なカバーをかけて、大事にしまいこみます。

もちろん北京は極寒の地ですから、冬には庭にテレビを出してなんてできない
ので観客?も減っていくのですが、それでもスポーツ中継のある日の話しは別!
サッカー、卓球、バレーボールなど、中国で人気のあるスポーツ中継があるとき
はやっぱり大勢が押しかけてきていたそうです。

生まれたときからカラーテレビがあった70年代生まれの私は、この知人のむ
かし話にビックリしたり感心したりしていましたが、ふと考えると、日本でだっ
て私の両親の世代にやっと、カラーテレビが普及したわけなんですよね。
このゴールデンウィーク中、日本のテレビでは似非ディズニーキャラクターの
北京石景山遊来園が何度も報道されていたそうですね。私はネットニュースで知
ったのですが、うーん、確かに国営施設であれをやって、真似なぞではないと開
き直るのは如何なものか・・・・・とは思います。でも、これだってちょっと振
り返ってみれば、日本だってわずか十数年前までは欧米諸国に「猿真似国家」扱
いされてたんですよね~。まぁ、中国の方が何かにつけやり方があからさまな点
は否めませんが・・・・・。

入江さんが39号でおっしゃられていた通り、明治・文明開化期の日本だって、
イギリスだって中国だって、なんだかんだ言って結局みんな似たような道を通る
ということなのでしょう。16年前、中国の片田舎で同じ列車に乗り合わせただ
けの中国人に、
「俺たち中国だって、日本くらいのちっぽけな国で人口もこんなに多くなけれ
ば、いつだって日本なんか追い越す力はあるんだ。ただ、国土の広さと多すぎる
人口が足かせになっているだけだ」と言われた事がありますが、当時はまさか~、
国土や人口にインフラが整ったって、その社会主義で『鉄飯椀(親方日の丸)』
的な思考である限りは無理だよ、なーんて心の底で思っていました。でも、この
2年ほどで、あの時の彼のあの言葉がとてもひしひしと日本に迫ってきているの
を感じます。このまま日本がのほほ~んとしていれば、50年もすれば立場がま
るきり逆転しているかも知れません・・・・・。
                (筆者は中国・深セン在住 日本語教師)
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