【オルタの視点】

「束ねの社会」でいいのか
——参院選に潜む課題を問う

羽原 清雅


安倍政治に対する各種の世論調査での支持率は、かなり高い。
なぜか。解りかねる。でも、現実でもある。
7月の参院選でも、この流れが得票数に表われるのだろうか。

 その最大のテーマは、アベノミクスの可不可、改憲の是非といわれる。また、甘利明、舛添要一氏らの、相変わらず「権力」の座についた人物の政治的道義的腐臭の問題、また将来の社会構造に禍根を刻み付け、犯罪など社会的反逆に若者を走らせかねない政策問題、つまり非正規労働、教育の貧困、高齢無職・低所得層への対応策などにも目を向けなければなるまい。

 と同時に、昨今の社会的な傾向である「束ねの社会」の具体化が、今後とも進行させられるかどうか、という、少し長期的な流れについても気がかりでならない。
 「個人尊重」の建前を残しながらも、実際には国家、組織を優先させる立場から、社会全体を単一的に組み替えようとする、つまり国家や集団が立法による法制化、あるいは場当たり的、付和雷同的な世論形成などで、個々人の思考や言動を同一方向に取りまとめやすくする傾向を押し進めようとしていることが懸念されるのだ。

◆◆ ≪束ねの現実≫ ◆◆

●自民改憲案の方向

 憲法は国家権力を縛るためにある、という立憲主義は、安倍政権の集団的自衛権をめぐる無茶な立法作業によって損なわれた。さらに、自民党の改憲草案にはそのような憲法規定を無視するかの基調があちこちに盛られている。
 終戦直後の新憲法は本来、欧米の近代憲法の発想に学び、国民主権、人権尊重、平和主義という基本理念を取り入れたもので、それは憲法にうたう「人類普遍の原理」という言葉に込められている。「押し付けられた憲法」という攻撃は、現行憲法の内容からすれば、世界的な潮流に対する逆流であることを示している。

 自民党の改憲草案は「個人として尊重」を「人として尊重」に変える。一字違いだが「個人」は人種・宗教・性別などを超えて自由意思を持つ自律的な個人という深いニュアンスを持ち、単に「人」と表現した一般的な意味合いとはかなりの違いがある。

 改憲草案では、「人類普遍の原理」という言い方を嫌って、この「普遍」という発想自体を削っている。また、国民の権利についても、現行の「公共の福祉に反しない限り」を、「公益及び公の秩序に反しない限り」と規制的に改めて、基本的人権の制約範囲を拡大している。「公の秩序」の表現が採用されれば、その解釈はどこまでも拡大され、「個人」をさまざまに拘束することにもなりかねない。

 現行憲法第2章の「戦争の放棄」を「安全保障」とする姿勢も、国民の生命、財産を守るという名目のもとに、戦争の反省を生かそうとせず、「外交による和平」よりも「交戦の身構え」を選ぶようで、この点も気がかりのひとつだ。
 要は、日本の独自路線を強調させたいという意図のもと、先陣の国々が闘いとってきた民主主義思想の基盤である個人、自由、民権などを縛る方向に改憲しようとしていることが読み取れる。

●テレビ全体主義の傾向

 高市早苗総務相はことし2月の国会で、放送法による「政治的公平性」が複数回破られれば、「電波停止」もある、と強気を見せた。放送法は多分に、テレビ側の自主運営に任せ、国家的介入は避けよう、との趣旨でこれまでやってきた。だが、政治権力の強まりの中で、テレビ許認可の権限をもつ役所側が発言を強め、統制力を誇示するようになっている。

 安倍周辺に近いNHKの籾井勝人会長や同理事の就任は、あきらかに首相官邸の意向が反映している。また、2016年春に岸井成格(TBS)、古館伊知郎(テレ朝)、国谷裕子(NHK)のキャスターら3氏がほぼ同時期に番組を離れたことについて、首相官邸や自民党などから彼らの厳しい論調に対する不満が強まり、これを局側が回避したための措置、とも受け止められた。

 ところが、テレビ会社幹部の高市発言への反応やキャスター交代への説明はきわめて鈍く、テレビの権力迎合、といった印象を与えた。

 テレビの影響力は大きく、その報道のあり方は世論の動向をも決めることにもなる。報道が厳しさを失い、個性なく一斉に同じ方向を向くことはテレビの全体主義化、とされた。つまり、テレビが「束ね社会」の下支えに貢献していることになる。かつて大宅壮一が云った「一億総白痴化」に続く「一億右向け右化」への寄与でもあろうか。

 言論、報道の自由を守ることは決して容易ではなく、闘うなかで保持していくもの。唯々諾々に与えられたり、既得権益にあぐらをかいたりできる程度のものではない。この自覚の喪失は極めて怖い。大本営発表、といった権力行使の状況ではなくても、ジワリと自己規制し、権力の意向を「忖度(そんたく)」する風潮によって、「束ね社会」作りが加速、容認されることがこわいのだ。

●「道徳」のお仕着せ

 「道徳」が普通教科の授業になる。「道徳」というと、戦前の単一的な全体主義教育を思わせるが、最初から反対することはない。道義・道徳・モラルといった規範は、個人が社会のなかにとしっかりと根をおろし、その個性や才覚を生かすための「社会との付き合い方」を維持するうえで、きわめて大切だからだ。

 他を顧みず、自己主張中心に陥りがちな昨今、原則的にいうなら必要な教科だろう。
 問題は、道徳とはなにか、どのような内容で指導するか、だろう。

 「個人」として尊重されるためには、社会のルールを尊重し、社会との関わりをうまくこなし得る訓練を受けておくことが大切で、社会あっての自分、自分あっての社会、という原則を身につけることが望まれる。首相を務めた福田赳夫氏は結婚式の挨拶で、歌謡曲を引いて「ふたりのために世界はあるの」ではなく、「明日からは、『世界のためにふたりはあるの』、であるように」と述べていた。

 国家や学校が子どもたちを統一的な思考を押し付け、彼らを将来にわたって「束ねる」ための小道具とするなら、それは許されない。

 要は、子どもたちが自分に溺れるだけではなく、相手の立場を読み取りつつ、他とおのれともどもに配慮できるようなマナーの教育でなければ意味はないだろう。
 だが、昨今の文科省の姿勢に「束ね」の意向がないとは言い切れないところに懸念が残る。

 教科書会社がカネなどの優遇措置で自社本の売り込みを図り、きびしい処分をされようとしているが、この厳しい措置を図ることによって、文科省が教科書会社・編纂者らに国家的教育のプレッシャーをかけることがない、と言い切れるか。

●日の丸・君が代の強制

 学校に対する日の丸・君が代の強制は、立法化された以上やむを得ない措置だ、との意見が強い。それは受け入れざるをえないことかもしれない。

 ただ、君が代を拒否する2、3の教員がいたとして、処分の対象にしていいものだろうか。政党に所属してその方針に沿っての拒否は、思想の自由という点からいろいろの見方があるだろう。ただ、戦争で親族が命を落とした人々のなかには、この日の丸、君が代を象徴とした軍国主義への反戦思想から反発を抱く人たちがいるのはやむをえまい。国旗、国歌としたこと自体に納得しない人もいるだろう。

 多様な考え方があるなかで、反対の立場をすべて断罪して不利益処分に付していいものだろうか。
 人には人の思いがあり、100人の先生の中に2、3の反対者が出ても、ある程度やむを得ないのではないか。日本が仕掛けた戦争であり、その戦禍のなか身内が奪われれば、この象徴的な旗や歌は断りたい気持ちがあっておかしいことではない。

 そうした個々の想いを抹殺し、欠席者に処分を科すなどおかしな強制を加え、不快な「束ね」に道を開いていいものなのだろうか。少数意見の圧殺ではないのか。

●沖縄基地化の国家暴走

 国家権力が、地方自治体までも束ねて黙殺してしまうのが沖縄の基地問題。

 民主党政権の時代も含めて、基地集中や米兵らの犯罪などに苦しむ沖縄は、政府の「安保、防衛、外交は国家の専管事項」を建前にされ、地元としての民意をほとんど聞かれることなく、国の方針が推進されている。ここに、沖縄の長く、深い怒りがある。

 20年前、リスクの高い普天間基地の移転計画を日米間で合意し、移転先を辺野古とする際など、国は「建前」を振りかざし、沖縄県などの地元に十分な説明、また意見聴取をせず、現地の納得を取り付けられないままに推進している。

 基地反対のベースにある日米行政協定についても、本来なら「運用改善」などの目先の措置ではなく、協定自体の平等性確保の外交交渉に取り組むべきところ、そうした地元の要求は無視したまま。明治期の日本で、幕末の不平等条約改定に向けて、歴代の外相が長い年月をかけて取り組んだような努力もない。

 国家権力が、民意の存在する自治体を顧みず、黙殺のままに権力を行使してしまう。「国益」とはそういうものなのだろうか。国家優先の仕組みのままに、住民たちの意思を聞くことなく、いわば国家(政府)の恣意的な姿勢を認めれば、それはひとつの「束ねの社会」化ではあるまいか。

◆◆ ≪つけ込まれるもろさ≫ ◆◆

 いま、権力の行使を抑制し、国民のためにある憲法を尊重するという立憲主義の趣意を顧みることなく、都合のいい官僚らを選別し、都合のいい独自の解釈・論法を立て、エセなる多数支配の国会<後述>で法制化する、といった事態が進んでいる。これが、昨今の政治権力、国家権力の自在な動きの最たるものである。

 しかし、そのような状況を受け入れる、もろい風潮が、国民の側に存在することも否定できない。民主主義の底の浅さ、というべきかもしれない。

 800年前にイギリスで基礎がつくられたマグナ・カルタをもとに、権力と闘い、多くの血を流し、過ちを重ねながらも改革して土台を築いてきた民主主義だが、欧米諸国においてすら、まだまだ徹底しない事態、事例も多い。そう考えるならば、日本はまだ70年の新経験であり、民主主義の基盤である「個人」の確立が極めて未熟で、また「民主」という理念が骨肉に埋め込まれない状況にあっても、やむを得ない一面もあるだろう。

 だが、それにしても、「束ねの社会」の阻止とはいっても、束ねられる側の弱さが目に付くのは残念である。
 その環境、状況、気風などに触れておこう。

●物言わぬ「個人主義」

 学校教育でも、社会活動の中でも、個人と社会との関わりはどうあるべきか、という視点での「学び」が乏しくないか。他人や周辺の立場や考え方と自分のそれとを、ともに感じ考えて、おのれの意見を主張し、理解できれば互譲のもとに調整し、ムリなら極力譲り合う。決して容易ではないが、その基本が乏しいと、個人主義が利己主義となり、意見交換のない多数決になりかねない。デメリットを負う側に、悪い思いが残れば、そのマイナスはあちこちの問題に波及しかねない。

 「個人」の感覚が薄いと、参政権の行使など無意味に思えて、政治に関心も生まれず、参加しようともしなくなる。自己の利益、自己の栄達、自己の満足は、社会との調整を進めるなかにあり、自分が良ければ、という利己的発想だけでは民主主義尊重の社会は築けない。

●「多数決」の前提

 世論は、多数の流れに乗りやすい。多数への同調・追随の風潮はやむを得ないものがある。
 ただ、ことを決する場合、多数決という二者択一とする前に、まずは論議を重ねることが必要だ。自分の意見を言う。相手ももの申す。対立のままもあれば、ときに相手の主張を受け入れ、おのれの主張を修正できる場合もあるだろう。だが、互譲の幅を見つける努力が十分に行われる風土になっているだろうか。

 少数意見の尊重、は多数決の必要な部分だ。これは、相手に対する配慮だけではなく、相手の意見、発想のなかにある優れた部分を取り入れることで、さらに良いものを生み出すことにもなる。原発可否の扱い、慰安婦についての見解の相違、日中関係の改善努力など、相手に対する思い、相手の立場に触れる努力、さらなる改善策の模索などについても言える。論議の乏しさが、双方の緊張を増し、問題打開の道を閉ざし、むしろ誤解や意地を張った状況を強める結果になっていないか。

 安倍首相は集団的自衛権などの問題で、国民に十分な説明をする、といって難局を強引に切り抜けた。だが、その後の彼の「説明」は、同じ発言を繰り返すのみで、さまざまな不安や疑問に対して局面を変えたり、多様な角度から説いたりすることは一切なかった。多数決、という民主主義のルールを上っ面のみで利用したに過ぎないのではないか。

●いかがわしい国会の「数」の論理

 法律は衆参両院の多数決で決まる。その論理は正しい。
 だが、その「数」を生み出す舞台がきわめていかがわしい。それは、選挙による政党の得票数と、それによって各政党に配分される議席数に大きな誤差があるからだ。5割以下の得票数で、7割を超す議席を手に入れる。このような制度によって、多数党の意向が国民に提供される。1票ずつの有権者の意思が国会に届けられても、それは相当にゆがめられたものでしかない。民意がゆがめられれば、国策もゆがめられて決定されることになる。

 1選挙区の人口と議員定数の関係、各選挙区内の人口による1票の格差など、違憲とか違憲状態ともいわれている問題が、大きく取り上げられる。それはそれとして多くの問題があり、改革が必要だ。しかし、それ以上に大きい、根源的な問題がある。それが前述した問題なのだ。繰り返せば、政策決定を大きく左右する政党の得票数、つまり民意の動向としての得票数が生かされずに、多数党に極めて有利に配分された議席の数で国の方向が決められていく点である。

 これは、小選挙区制という選挙制度がもたらす結果である。すでに、こうしたひずみを生む選挙は衆院で6回行われている。この矛盾はよく知られていながら、メディアは改革への努力を訴えず、1票の格差や議員定数の問題ばかりに目を向けている。

 この点も、国民一人ひとりの意思をないがしろにすることで、国家優先の「束ね社会」つくりに貢献しているといえよう。

●旗振り集団の台頭と横行

 2度目の安倍政権登場を支援したことで存在が明かされた日本会議。最近になって、やっと内情を示す著述が出版されるようになった。新聞報道はかなり遅れ、かつ不十分な取材ぶりだったが、ともあれ国家尊重の憲法制定を推進する母体が少しずつ見えてくるようになった。
 個人重視の現行憲法が、今日の日本を悪くした、という文脈である。改憲推進を掲げ、天皇、国家を重視する戦前型の思考も見え隠れする。

 中山恭子氏の日本のこころを大切にする党、橋下徹氏がいたおおさか維新の会などが近い立場として国会周辺にあり、自民党に近い方向をのぞかせている。かつてこの周辺の流れには、西村慎悟、田母神俊雄、アントニオ猪木、山田宏氏らがいた。この傾向の右派的出版元も活発で、その資金源を含めて、影響力にも関心が高まる。

 最近の報道で知ったのだが、長期にわたって自民党寄り、反共路線で靖国護持など日本会議的思考と思われていた生長の家が、いまは脱原発・環境重視・反与党路線などを打ち出した、という変化もあった。

 先にも触れたが、「束ねの社会」を警戒するはずのテレビ各局もまた、沈黙を続ける。言論の府ではあろうが、テレビ収益が優先して、報道の使命が薄らいだ印象がぬぐえない。高市発言のようなことを忖度しての沈黙、自主規制なのだろうか。国家権力につけ込まれるもろさ、なのか。戦前の新聞界が十分な抵抗もなく、軍部、官僚の言いなりになった状況とは異なるが、報道者としての感性を失うとき、結果的に大きなダメージを受けるだろう。
 新聞界の二分化も、憲法問題の行方次第では、その姿勢に懸念が持たれる。

 (元朝日新聞政治部長・オルタ編集委員)


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