【コラム】
大原雄の『流儀』

「憲法くん」という、私の同級生(1)

大原 雄


 憲法くん、という私の同級生のことを話したい。
 〇〇憲法くんは、「憲法」と書いて、「かずのり」と読む。憲法くんは、1946年12月30日の生まれで、その年の11月3日に公布された日本国憲法に因んで父親が名付けた、と聞いた。彼は、小学校から大学まで、大学の学部こそ違うが、私と一緒だった。ここまで学歴が一緒という、こういう友人は、一人だけだった。彼は、理科系、私は文科系。子どもの頃は、「かずちゃん」と呼んでいたが、中学生の頃から、ずうっと、「けんちゃん」、時には、「ケン坊」などと呼んできた。

贅言;因みに、1946年から1974年まで新聞などに連載された当時の4コマ漫画の「サザエさん」には、次のようなマンガがあった。1947年5月2日付けの朝刊だったか。いや、もっと後、48年以降の憲法記念日前日の日付で「サザエさん」に出てくる可能性もある。「サザエさん」に出てくる「ケン坊きねん日」こそは、まさに5月3日、日本国憲法の記念日だった。

 ――ワカメちゃんが、針仕事をしている母親(フネ)に、こう尋ねる。
ワカメ「ケン坊ってだれのこと?」
母親「?」
ワカメ「何をしたの?」
母親「?」
ワカメ「だってあしたはケン坊きねん日だってよ」
母親(笑い出す)
ワカメ「おかあさん、いまのことだれにもいっちゃだめよ、ね、」(頬を赤らめている)
母親(うつ伏して、笑い続ける)

 この漫画のポイントは、ワカメちゃんが、頬を赤らめたことだろう。というのは、ケン坊記念日は、知らなくても恥ずかしくないが、憲法記念日なら、彼女も当然知っている、知らないと恥ずかしい、ということだったからだろう。

 大学を卒業し、ケン坊も私も就職をして、互いに地方に赴任するようになると、いつの間にか、会うこともなくなり、続いていた年賀状のやり取りも立ち消えて無くなり、ふたりの仲は、それぞれの日常生活の中で、自然と疎遠になってしまったようだ。それは、あたかも、憲法記念日が国民の日常生活の中に溶け込んで行くように……。

 日本国憲法は、1946年11月3日に公布され、1947年5月3日に施行された。人間でいえば、現在(2019年6月20日の時点)、満72歳である、ということで、今回は、フィクションで、この小論の冒頭を書き出してみた次第。「ケン坊」は、架空の人物設定であるが、私は、日本国憲法に人格的な親しみさえ感じている。というのは、以下のような個人的な事情もこれあり、という次第である。

 私(大原)は、1947年1月生まれ。憲法との関連でいえば、私は、日本国憲法の内容が国民に公布された状況の、ただし、大日本帝国憲法が有効な時空の下で生まれ、生後4ヶ月以降、つまり、5月3日施行された日本国憲法とともに生きてきた、ということになる。大日本帝国憲法は、1889(明治22)年2月11日公布、1890(明治23)年11月29日施行である。幼少年期、物心ついた頃からは、自覚する・しないに関わらず、日本国憲法を空気のように吸い込みながら、生きてきたのだと思う。今回は、「『憲法くん』という、私の同級生」というタイトルで、「人として生きることと憲法」とでもいうような視点で、何回かのシリーズとして、いつもの『流儀』論としてエッセイ風に描きながら考えてみたい。

★2019年

 2019年5月。憲法記念日の3日、私は、東京都内で開かれた護憲派集会の会場の江東区有明地区にある東京臨海広域防災公園にいた。集会のスローガンは、「平和といのちと人権を!―許すな!安倍改憲発議―」で、キャッチコピーは、「今変えるべきは憲法でしょうか」だった。因みに、変えるべきか、否か、という日本国憲法の構成は、以下の通り。

 第1章『天皇』、第2章『戦争の放棄』、第3章『国民の権利及び義務』、第4章『国会』、第5章『内閣』、第6章『司法』、第7章『財政』、第8章『地方自治』、第9章『改正』、第10章『最高法規』。

 そこで、集会でスピーチをされた人々のうち、私の印象に残った人たちの話を書き止めておきたいと思う。なぜか、産経新聞が、集会参加のスピーカーたちのメッセージを記録してくれたので、参考にさせてもらった。一部は、省略した。

 まず、音楽評論家・作詞家の湯川れい子さん。1936年1月生まれ。私より11歳年上。私の印象では、1960年代半ばにいち早くビートルズの紹介をしていた音楽評論家というイメージが強い。ウィキペディアで素描された「活動歴」を見ると次のようにある。

 反核運動には、若い時から関心を持っていた、という。1980年代半ばには、芥川也寸志が会長を務めた「反核・日本の音楽家たち」という団体に所属していた、という。反戦平和、反核、環境保護問題などでボランティア活動も積極的に行っている。憲法については、「マスコミ九条の会」の呼びかけ人として名を連ねている。日本の文化人の中でも盛んに社会活動を続ける人物の一人、という評価だった。

 その湯川れい子さんは、集会では、「憲法を変えるな」と、次のような内容のスピーチをしていた。

「私は憲法9条を守るために残りの時間をかけたいと思っています。1966年、ビートルズが武道館を使うというときに、今日のように右翼の街宣カーが走り回りました。『薄汚い西洋こじきは出ていけ』『神聖な武道館を使うな』。しかし当時、若かった私は、そんなバカな話はない。彼らの音楽は『言葉は違っても、肌(の色)が違っても、みんな楽しく生きようよ』と言っている。そのことが、若かった私には理屈を超えて分かりました」
「考えてみてください。戦争をしているところに音楽はありません。右翼の街宣カーもマーチを流しているし、ヒトラーも演説の前にワーグナーを流した。でもそういう意図的に使われる音楽ではなく、私たちがこうして楽しく集まってみんなで歌い踊るところには殺し合いなどありません。対立があるところに平和はないのです」
「憲法9条はあらゆる意味で、あらゆる理屈を超えて日本の宝です。世界の宝です。9条は変えないけれど、そこに自衛隊を書き込むなどというインチキは絶対に許してはいけません。どうぞ皆さん誇りを持って、恥ずかしいなどと思わないで、人を愛してください。語り合うことを信じてください。そして未来の自分がつくる平和な世界を信じてください」。

 分かりやすい言葉で、判りやすいことをきちんと言う。湯川さんのスピーチは、そういうメッセージの典型的なものだと、感心しながら聞いていた。

★変えるべきは、憲法ではなく、安倍政権

 京都大教授で刑法学者の高山佳奈子さん。1968年7月生まれ。私より、21歳年下。高山佳奈子さんは、「今変えるべきは、憲法ではなく安倍晋三政権の方だ」と、次のように訴えた。

「(自民党)改憲案の改憲項目で示されたものは、本当にもう変えるべきでないものばかり。例えば、教育の充実ということについては、すでに憲法26条1項が次のように定めています。『すべて国民は、法律の定めるところにより、その能力に応じて、ひとしく教育を受ける権利を有する』。これでいいじゃないですか。具体的なことは教育基本法や学校教育法などの法律できちんと決めればいいことです」
「次に参院の合区解消。これも憲法47条で『選挙区、投票の方法その他両議院の議員の選挙に関する事項は、法律でこれを定める』とあります。公職選挙法で選挙制度は決めています。これでいいじゃないですか」
「緊急事態条項は憲法にはもちろん既定がないわけですし、つくることも想定されていませんが、災害対策基本法105条1項に『緊急事態布告』という制度を定めています。『非常災害が発生し、かつ当該災害が国の経済及び公共の福祉に重大な影響を及ぼすべき異常かつ激甚なものである場合において、当該災害に係る災害応急対策を推進し、国の経済の秩序を維持し、その他当該災害に係る重要な課題に対応するため特別の必要があると認めるときは、内閣総理大臣は閣議にかけて、関係地域の全部又は一部について、災害緊急事態の布告を発することができる』。これでいいじゃないですか」
「最後の9条ですが、憲法の第2章『戦争の放棄』という章で、戦争放棄しか書いていないところに自衛隊を入れますと、第1章『天皇』、第2章『自衛隊』、第3章『国民の権利及び義務』、第4章『国会』、第5章『内閣』、第6章『司法』というようになって、天皇と自衛隊が並び、(立法、行政、司法の)三権から独立する存在になってしまいます。このような荒唐無稽な改憲は許すことはできないと思います」。

 こちらの話も、判りやすい。

贅言;因みに、大日本帝国憲法は、どうなっていたかというと、次の通り。
第1章『天皇』、第2章『臣民権利義務』、第3章『帝国議会』、第4章『国務大臣及枢密院顧問』、第5章『司法』、第6章『会計』というようになっていて、まだしも大日本帝国憲法の方が、自民党の改憲案よりシステム的に民主主義の原理原則である三権のバランスが取れているように思える。自民党の改憲案は、大日本国憲法よりも、前近代的に見えるようだ。時代錯誤も甚だしい。日本国憲法からも大日本帝国憲法からも、それぞれ光を当ててみると、自民党改憲案の荒唐無稽さが浮き彫りにされてくる。

★1954年

 もうひとり、紹介したい。私の元の職場の後輩(ただし、現職時代には、私は彼と直接仕事をする機会がないままだったが、その後、日本ペンクラブで、顔を合わせた)。NHKの元ディレクターで、退職後は、ジャーナリスト・大学教授の永田浩三さんだ。永田浩三さんは、1954年11月生まれ。私より、8歳年下。彼は、「安倍君(1954年9月生まれ)」と同年、同学年だ、という。スピーチの主な内容は以下の通り。

「私と安倍君は同じ1954年生まれです。同じ学年には(共産党委員長の)志位和夫君、(元文部科学事務次官の)前川喜平君、ドイツの首相、メルケルさんがいます。安倍君は福島(第1)原発事故の後、すぐに原発をやめると決めたメルケルさんとは相性が良くないみたいですし、加計学園の獣医学部を作るのが、いかに無理筋だったかを証拠立てて語る前川君が苦手なようです。あと志位和夫君も苦手みたいです」
「私たち1954年生まれは、皆、戦後民主主義教育の申し子です。日本国憲法の3つの柱、『国民主権』『基本的人権の尊重』『平和主義』がどれほど大事なのか、小学校や中学校でしっかり学んだんです。先生たちも熱心でした」
「小学校4年生のとき、東京五輪がありました。オリンピックは参加することにこそ意義がある。日の丸が上がるかどうかは関係ない。優れた競技やすごい記録に拍手を送るんだ。アベベ、チャフラフスカ、ショランダー…。柔道(無差別級)で神永(昭夫)が(オランダの)ヘーシンクに負けたときも、ショックはなくて、ヘーシンクに私は拍手を送りました」
「『日本を、取り戻す。』『がんばれ! ニッポン!』。その旗を振る安倍君、少し了見が狭すぎませんか」
「大学を卒業し、安倍君はサラリーマンを経て、政治家になり、私はNHKのディレクターになりました。ある時、思いがけない接点ができました。2001年のことです。私は、日本軍の慰安婦として被害に遭った女性たちを扱ったNHKの番組の編集長でした。一方、その時、安倍君は内閣官房副長官。君は放送の直前にNHK幹部たちにちょっかいを出し、番組が劇的に変わってしまいました。永田町でどんなやりとりがあったのか。その後、朝日新聞の取材で輪郭が明らかになっています」
「私は抵抗しましたが、敗れました。体験したことを世の中に語ることができず、孤立し、長い間、沈黙を続けました。悔しく、また恥ずかしいことです。あのとき君はそれなりの権力者でした。放送前に番組を変えさせるなんて、憲法21条の言論の自由、検閲の禁止を犯すことになり、そのことが世の中にさらされれば、君は今のような総理大臣になっていなかったことでしょう」
「君は実力以上に大事にされました。これ以上、何を望むことがあるでしょうか。同い年、同じ学年として忠告します。『これ以上、日本社会を壊すことはやめなさい! これ以上、沖縄をいじめるのはやめなさい! 大事な憲法をいじるのはやめておとなしく身を引きなさい!』」
「歴史から学ぶことが嫌いで不得意の安倍君、戦争の道を断じて進んではなりません。30年前にベルリンの壁が壊れたとき、私は東欧各地の取材をしていました。そのとき、人々が何より大事だと考えたのは、言論の自由と連帯、そして多様性です。憲法21条に明記された言論・表現の自由、一方、放送法第1条には『放送は健全な民主主義に資すること』とあります。健全な民主主義というのは少数者の意見を大事にし、多様性を認め、不埒な政府の横暴にあらがい、連帯することです」
「今日は5月3日、32年前、朝日新聞阪神支局で小尻知博記者が銃弾に倒れました。言論の自由が脅かされる社会なんてあってはなりません。ここにお集まりの皆さんが思っておられるのは多分、こうだと思います。リセットすべきなのは、元号ではなく、今の政権なのだと」
「今の政権は嘘をつく、今の政権は嘘をついているのです。嘘にまみれた安倍政権こそ終わりにすべきです。心あるジャーナリストとの連帯で、安倍政権を今年中に終わりにさせましょう」。

★1947年

 皆さんの「憲法と私」とでもいうべきメッセージを会場で聞き、その上、新聞紙上で読ませて戴いた。ならば、返礼として、私も書かずば、なるまいと、思った。
 72年前、1947年1月5日。私は、福島県伊達郡保原町の小高いところにある八幡神社の近く、地名も八幡台という地域にある母親の実家で生まれた。私の両親は、当時、東京に住んでいたが、25歳の母は、初めての子どもの出産とあって、慣れぬ東京の借家で助産婦の手を借りて子どもを産むのが不安だったのだろう。私の出産予定日の4ヶ月ほど前から近くに八幡神社がある実家で、母親は、実母に見守られながら私を産んだようである。八幡神社の加護も期待したかもしれない。生まれた時、赤ん坊の私は4キロ近い体重であったという。
 私を無事出産した後、母は、東京から迎えに来た父親とともに、乳飲み子を抱えて帰京した。帰京先は、当時住んでいた東京の品川区内に間借りしていた2階の部屋であった。私は、福島県伊達郡(現在の伊達市)で大日本帝国憲法の空気を初めて吸い込んで産声をあげたことだろうし、両親とともに帰った東京の品川区で、5月以降は日本国憲法の空気を吸ったことになる。

贅言;母の実家近くにある八幡神社は、「正八幡宮」と呼ばれるもので、由来など詳細は私にはわからないが、大きな鳥居があり、その近くには「神社正八幡宮」と彫り込まれた石柱が立っていた。正八幡宮とは、正八幡大菩薩のことだというが、この説明は、私には同義異語のようにしか思われない。神社の境内と母の実家を含めて周辺の家や庭は、塀などで区切られておらず、そのまま行き来できたような気がする。地域に溶け込んだ神社であり、小学校に上がってから、1950年代半ば辺りの時期、小学校低学年のうちは、母や妹たちと一緒に母の田舎に里帰りする長旅が、私にとって、1年間の最大の喜ぶべき行事だった思い出がある。
 早朝、上野発の普通列車(SL)に乗り、郡山駅で昼食後、ホームに売りにくるアイスキャンディーを車窓越しに買ってもらった。普段は、「買い食い」をしてはいけないと叱る母も、年に一度の里帰りの旅でハイテンションになっていたのだろう。福島駅には、夕方着く。そこから阿武隈川ぞいに走る路面電車に乗り、保原町へ。さらに、八幡台へ。滞在中、八幡台の境内付近では、近所の子どもたちがいつも遊んでいて、誰かしかが、「東京っ子」である私たちを珍しがり、虐めもせずに遊んでくれたように思う。

 その後、1948年頃か、父親の転勤の影響で、生後間もない私を含む一家3人は、東京の豊島区内に引っ越した。戦後の物資のない時代に父親は、廃材の払い下げを役所に申請し、廃材を活用してバラック建ての小住宅を設えて、私たち家族を住まわせる場を作った。以来、私は、何度か改築したこの家で育ち、大学を卒業して、NHKに取材職(記者)として就職し、地方の放送局へ赴任するまで、20年余、豊島区内の、この地で暮らした。

 子どもの頃の憲法との出会いでは、やはり『あたらしい憲法のはなし』という副読本との出会いであろう。いつ出会ったのか。小学校? 中学校? 『あたらしい憲法のはなし』という教科書・副読本で印象的だったのは、読者の子どもたちに気さくに語りかけるような文体でもあったが、文章の間に差し込まれた挿絵でもあった。今でも、何枚かの挿絵が思い出される。

★『あたらしい憲法のはなし』

 『あたらしい憲法のはなし』は、確か、文部省の監修であり、著者名はなく、著作権は、文部省が持っていた。実業教科書株式会社から刊行された。底本の奥付には、次のような記録が残されている。

  1947(昭和22)年7月28日同日翻刻印刷
  1947(昭和22)年8月2日同日翻刷発行
  1947(昭和22)年8月2日文部省検査済

 『あたらしい憲法のはなし』の冒頭には、次のような文章が書かれている。まるで、心弾むような調子で書かれているので、とても印象深い。子どもたちに著者の思いを正確に伝えたいという気持ちが素直に伝わってくるような文体である。以下、ちょっと長いが引用したい。

 みなさん、あたらしい憲法ができました。そうして昭和二十二年五月三日から、私たち日本國民は、この憲法を守ってゆくことになりました。このあたらしい憲法をこしらえるために、たくさんの人々が、たいへん苦心をなさいました。ところでみなさんは、憲法というものはどんなものかごぞんじですか。じぶんの身にかゝわりのないことのようにおもっている人はないでしょうか。もしそうならば、それは大きなまちがいです。
 國の仕事は、一日も休むことはできません。また、國を治めてゆく仕事のやりかたは、はっきりときめておかなければなりません。そのためには、いろいろ規則がいるのです。この規則はたくさんありますが、そのうちで、いちばん大事な規則が憲法です。
 國をどういうふうに治め、國の仕事をどういうふうにやってゆくかということをきめた、いちばん根本になっている規則が憲法です。もしみなさんの家の柱がなくなったとしたらどうでしょう。家はたちまちたおれてしまうでしょう。いま國を家にたとえると、ちょうど柱にあたるものが憲法です。もし憲法がなければ、國の中におゝぜいの人がいても、どうして國を治めてゆくかということがわかりません。それでどこの國でも、憲法をいちばん大事な規則として、これをたいせつに守ってゆくのです。國でいちばん大事な規則は、いいかえれば、いちばん高い位にある規則ですから、これを國の「最高法規」というのです。
 ところがこの憲法には、いまおはなししたように、國の仕事のやりかたのほかに、もう一つ大事なことが書いてあるのです。それは國民の権利のことです。この権利のことは、あとでくわしくおはなししますから、こゝではたゞ、なぜそれが、國の仕事のやりかたをきめた規則と同じように大事であるか、ということだけをおはなししておきましょう。

 間借りという借家方式は、若い人には判らないかもしれない。一般の住宅の一部の部屋(例えば、6畳一間だけ)を切り売りならぬ、切り「貸し・借り」するような賃借契約である。住宅の2階一間を借りるような形はあっても、当時は、1棟のアパートのような世帯専用の部屋割はなかったか、あっても、数が少なかった時代に、庶民である私の両親は、土地を借り、役所に申請して廃材を譲り受けて木材を集めて、小住宅を建てない限り、家族が住むような専用世帯住居は手に入れることができなかったのではないか、と思われる。
 そういう小住宅にも、柱があり屋根がある。『あたらしい憲法のはなし』では、戦後の住宅難という生活実感を引き合いに出して、憲法の話を説明する。憲法は、家の柱のような、それも大黒柱のような最高法規だと説く。そして、その柱が支えた家に住む家族は、家族(国民)として、家を維持する権利がある、と文部省のタイトルで解説するのである。

★挿絵がおもしろい教科書

 この本を特徴付けていると思われる重要な要素として、この本のちょっと稚拙というか、素人の作風ぽい「挿絵」が、実は、私の印象に残っていて、おもしろい。その挿絵について、一つ、二つ、まず説明をしておきたい。

●憲法と3つの柱
 例えば、「一 憲法」には、日本国憲法の3つの柱が、描かれている挿絵が添えられている。どこかのビルの屋上に3人の人が両手を挙げて立っている。ビルのある街並みの向こうには、家々が続き、その向こうになだらかな山並みが見えるから、地方の主要都市なのだろう。時は、朝。山並みの向こうに大きな太陽が昇ってきた。太陽には、憲法と書いてある。太陽に向かって、両手を挙げている3人の後ろには、黒い影ができている。そして、その影には、「主権在民主義」「民主主義」「國際平和主義」という文字が書かれている。最近使われている言葉に直すなら、これらは、次のように表記されるだろう。「国民主権」「基本的人権の尊重」「平和主義」。

●戰爭放棄
 「六 戰爭の放棄」という章に添えられた挿絵の中央に黒い大きな釜のようなものがある。釜の中には、軍艦、戦闘機、ミサイル、戦車などが投げ込まれていて、もくもくと煙を上げている。黒い釜の中腹には、白字で「戰爭放棄」と大書されている。釜は、底が抜けているらしい。釜の底からは、電車、船、梯子をつけた消防車が猛烈なスピードで飛び出してきている。電車の左横には、高いビルが描かれている。消防車の右横には、鉄塔が見える。そこは戦後社会。戦争放棄こそ、この憲法の最高価値なのだろう。

画像の説明

 この2枚の挿絵は、私の記憶に文章よりも鮮明に残っている。私は、『あたらしい憲法のはなし』という副読本で憲法について学んだ記憶があるが、では、この副読本と私は、何歳で出会ったのだろうか、というと、記憶と実際の歴史的な事柄が、マッチしないのだ。

 『あたらしい憲法のはなし』は、先の敗戦直後に短期間使用された新制中学校1年生用の社会科の教科書である。既に見てきたように、1947年8月に文部省が著作権を持ち、8月に刊行され、9月の二学期から使われたのではないか。文部省は、1947年5月3日に施行された日本国憲法の解説書として、中学校1年生用の社会科教科書として刊行したのだろう。軍国主義日本の脱皮を目指していた当時のGHQの指導も強かったことだろう。内容は、「憲法」「民主主義とは」「國際平和主義」「主権在民主義」「天皇陛下」「戰爭の放棄」「基本的人権」「國会」「政党」「内閣」「司法」「財政」「地方自治」「改正」「最高法規」の全十五章からなり、日本国憲法の原理原則や条文の中身を子どもたちに易しく解説している。

 私は、既に述べたように1947年1月生まれだから、この時に、この教科書には、当然ながら触れてはいない。

★1951年

 47年8月に刊行された中学校1年生用の社会科教科書『あたらしい憲法のはなし』は、その後、奇妙な命運を辿る。3年間教科書として使われた後、1950年には、教科書から副読本に「格下げ」されてしまう。それどころではない。1年間使われただけで。翌51年4月からは、副読本としても使われなくなってしまった、という。

 アメリカの歴史学者で、敗戦直後の日本を分析して描いた『敗北を抱きしめて』の著者、ジョン・ダワーは、戦争放棄、再軍備廃止を最高法規の冠とした『あたらしい憲法のはなし』は、その後、朝鮮半島で勃発した「朝鮮戦争」を機に、アメリカの主導で日本の再軍備が始まった歴史の現実にそぐわなくなってしまった、という意味の分析をしている。

 当時、朝鮮半島では、日本の敗戦で朝鮮半島の植民地支配に終止符が打たれたが、朝鮮民族は、大韓民国(韓国)と朝鮮民主主義共和国(北朝鮮)に分断され、朝鮮半島を巡る主権を争っていた。1950年6月25日に北朝鮮軍が南下して韓国軍との間で戦争となった。戦争状態は、3年後、1953年7月27日にアメリカを軸とする国連軍と中国・朝鮮連合軍との間で休戦協定が署名されて、「休戦」となったが(韓国軍は除かれていた)、朝鮮半島の「戦争」状態は、現在も続いている。

 『あたらしい憲法のはなし』が、当時の国際状況の実相にそぐわなくなり、1951年から、教育の場から排除され使われなくなった、というジョン・ダワーの説は、説得力を持つだろう。しかし、私は、1953年4月に小学校に入学した。中学校に入学するのは、さらに、6年後、1959年4月である。それでいて、副読本としての『あたらしい憲法のはなし』で、日本国憲法を学んだという記憶があるのは、なぜだろう。

 『戰爭の放棄』における「戦争放棄と書いた大きな釜の中で軍艦や軍用機を燃やし、その中から電車や船や消防自動車が走り出し、その脇で鉄塔や高層建築物が光り輝いて出てくる挿絵」は、私の脳裏には鮮明に残っている。

 1951年4月以降も、小中学校で使用される社会科の教科書や副読本では、この印象的な挿絵だけが日本国憲法誕生時に関連する記述ととも使われることがあったのかもしれない。著作権は、旧文部省に属するが、保護期限は、とうに過ぎているので、『あたらしい憲法のはなし』は、実際、各社から復刻版が出版されている(果ては、個人による自費出版もある)。

 (ジャーナリスト(元NHK社会部記者)、日本ペンクラブ理事、『オルタ広場』編集委員)

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