【北から南から】

「太平山麓九条の会」短信            栃木  富田 昌宏

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 11月8日夜、「太平山麓九条の会」が主催した「戦争体験を聞く会」が太平町
中央公民館2階会議室で開かれた。語り手は沖縄県出身で太平町に住む新崎美津
子さん(86歳)。夜分にもかかわらず参加者は会場に溢れるほどの盛況であった。
 主催者を代表して富田が「現行憲法は無謀な戦争の反省の上に成り立っている。
戦争体験を風化させてはならない」と力説し、元太平町長椎名甲子一さんも新崎
さんの人となりを紹介して、戦争の悲惨さを訴えた。
 以下、当日の模様は、郷土紙の『下野新聞』に掲載されたので、それを引用し
たい。
      ――学童疎開船「対馬丸」生存者、沈没教え子らの惨状語る。――
  太平洋戦争当時、小学校教員をしていた新崎さんは、学童疎開船「対馬丸」
に教え子とともに乗船中、米軍の魚雷を受けた。撃沈から4日後、救助され九死
に一生を得た。教え子ら千人以上が犠牲になった。
 新崎さんは、対馬丸に魚雷が撃ちこまれたとき、甲板にいた。船が二つに割れ、
夜の海面に投げ出された。「子どもたちに『しっかりつかまって』と叫ぶのが精
一杯でした。私の名前を呼ぶ女子児童の声がだんだん聞こえなくなっていったの
を思い出すと、今でも胸が痛みます」
 
 漂流中は、「眠らないように、お互いの顔をたたき合いました。最初、戸板の
いかだには六人いましたが、最後には二人になりました」。疲労や幻覚と戦い、
肌着にぬいこんだいり豆を、毎日一粒ずつ食べて飢えをしのいだ。
新崎さんは戦後、医師だった夫と本州の無医村地区を回り、1957年に町内に移
住、地域の医療を支えてきた。対馬丸の体験から半世紀たったころから「このつ
らい記憶を風化させてはいけない」と語りはじめた。
 「父兄からあずかった子どもたちを死なせ、自分が生き残ったことが納得でき
ず、罪悪感から勇気が出なかった」と長年経験を口にできなかった理由を説明す
ると、ハンカチで目頭を押さえる参加者もいた。

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