■【運動資料】
「利川の五層石塔」返還要望書
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◇拝啓
時下ますますご清祥の段、お喜び申し上げます。
私たちは韓国利川市から、市民を代表しまして郷土の歴史的文化財である「利
川の五層石塔」のことで相談にまいりました。
本状は、「利川の五層石塔」をもとあった場所に戻したいという、市民の願い
をお伝えするものですが、私たちはこのような案件に習熟しておらず、ひとえに
ご理解あるご対応とご協力をお願い申し上げる次第です。
■要望の趣旨
貴財団と大倉集古館館長様の英断により、利川の五層石塔が早急にもとあった
場所に返されるようお願い致します。
<利川の五層石塔について>
利川の五層石塔は、高麗(918-1392)初期の作であると考古学者により推定され
ていますが、同と塔は一千年を利川一円の住民と深い因縁を結び、人びとと息を
交わしあってきたのでした。石塔はまた利川においては稀な歴史的文化財でもあ
りました。
ところが、1910年、大韓民国が日本国の植民地として支配されると、利川の五
層石塔も不幸な運命に見舞われました。すなわち、朝に夕に石塔と息を交わし大
事に守ってきた住民の意思に問うことなく、朝鮮総督府により一方的に「京城」
に運びだされ、さらには海を渡って日本に運ばれ、その後の90年間を、東京の大
倉集古館の裏庭で孤独に立ちつくす運命を強いられているのであります。
1915朝鮮総督府は韓国併合5周年を迎え、日本の政治的業績をたたえ、総督府
の権威を内外に誇示するための、朝鮮物産共進会を京福宮で開催しました。利
川の石塔はこのイベントの飾り物として展示されるようになりました。
当時は、共進会のためと称して、京福宮の建物の取り壊しや新しい建造物の工
事が行われていました。大倉土建はこれらの工事に深く関わっていました。そし
てまた大倉土建は、1914年より大韓帝国の皇太子専用の建物とされる資善堂を丸
ごと東京に移築し、朝鮮館と名付け、1916年、寺内正毅朝鮮総督が参席する中で
落成式を行っています。
その後、1917年5月1日、朝鮮館は一般公開されますが、翌年7月、集古館の阪
谷理事より長谷川好道総督に書籍が送られ、朝鮮館に見合う石塔を取り寄せたい
旨の要請があり、その結果、利川の五層石塔と平壌の栗里寺址石塔が東京に運ば
れ今日に至っています。
<利川五層石塔還収運動>
利川市民は近年になってから、利川出身の在日有志によってはじめて、五層石
塔の所在を知ることとなりました。市民はその後「利川五層石塔還収運動」を立
ち上げ、市長も賛同する中で、これまで市民20万5000人のうち6万8000人(この4
月現在)の署名を集めて運動は広がっています。
<「韓国強制併合」から100年になる今年>」
私たちが知る多くの日本人は、「文化財はもとあったところに在るべきで、集
古館にある利川の五層石塔は利川に返されるのが望ましい」と主張します。この
主張もさることながら、「韓国強制併合」から100年になる今年、私たちは屈辱
と葛藤の過去100年の歴史を乗り越えて、これから始まる新たな未来が、平和と
信頼と友情で結ばれた韓日関係を創りだすものであるよう、惜しみなく努力を続
けていく所存でです。
貴財団と貴集古館館長様に私どもの意のあるところをご理解いただき、多くの
利川市民が望んでおります、「利川の五層石塔」をもとあった場所へ再び建て
たいという願いを実現させるため、お力添え下さいますよう心よりお願い申し
上げます。
敬具
2010年4月20日
利川五層石塔還収委員会
実務委員長 朴菖煕 (元韓国外国語大学教授)
対外協力委員長 高光允 (利川市長補佐)
事務局長 金娜英 (主婦)
連絡先 韓国京畿道利川市倉前105-3番地
利川市民会館3層 電話(031) 638-2922
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