【コラム】 大原雄の『流儀』

「コロナ」後、日本は新しいフェイズへ進むのか?

 ~見えない敵と見える敵との闘い④~

大原 雄


★ 序章 ~2013年の参議院議員選挙・広島選挙区

2019年7月の参議院議員選挙。広島選挙区。河井克行衆議院議員は、参議院議員選挙を巡って、妻の案里氏を参議院議員に当選させようと、懸命だった。この時、改選定員2人の広島選挙区には7人が立候補していた。以下、敬称略。

革新系無所属(立民・国民・社民の推薦)の候補として、現職の森本真治。自民党公認・公明党推薦の候補としては、当選5回のベテラン、現職の溝手顕正に加えて、同じく自民党公認・公明党推薦の候補として、新人の河井案里の2人が立候補した。革新・保守で票を分けていた広島選挙区で、自民党の2人が、保守票田で2人当選(つまり、2議席独占)を目指して、骨肉の争いを始めた、というわけである。

ことは、6年前の2013年に遡る。この時、溝手は52万票余を取り、ダントツのトップ当選。2位の森本は、得票が19万票余だったので、32万票余もの大差をつけられたことになる。これがすべての元だったが、当時は、誰も6年後のことに気づいてはいない。

2019年3月。今回は、自民党が、最初から2議席独占を目指すことになった。追加公認は、若手で、美人の女性候補ということで河井案里に白羽の矢が立った。ベテランの親父議員と美女候補で票を分け合い、新たな保守票を掘り起こし、党勢を蘇らせたいという思いが強かったのだろう。選挙戦に入ってみると、議席を争うのは、ライバルのはずの森本ではないことが判ってきた。森本は、保守票掘り起こしに夢中の河井案里とは、別の支持層に支えられていた。

結果的に、革新系の森本は、13年の19万4,358票から32万9,792票へと大きく票を伸ばす。案里陣営にとってターゲットとなったのは、同じ自民党の溝手であった。陣営のスタッフは、「強力なライバルは、溝手だ」と認識するようになる。朝日新聞の取材によると、「案里議員が『溝手さんの票を取らないといけない』と話していた」という証言を拾っている。この結果、「広島県の23市長のうち、有権者数が5万人を超える7市すべてで、克行議員が2人以上の政治家に現金を持参」した、という(同じく朝日新聞記事)。

だが、広島選挙区に、保守2人を当選させるだけの保守票はなかった。結果は、保守陣営での票の食い合いである。その挙句、札束が、舞うことになった。自民分裂。元国家公安委員長の溝手は3位で落選。元広島県議会議員の案里は、次点に2万5,000票余の差をつけて、2位に滑り込んだ。(河井)案里、溝手の票の合計は、56万票余に過ぎなかった。そして、そのつけは、翌年2020年6月に河井夫妻に回ってきた(選挙結果は、部分のみ表示)。

2019年参議院議員選挙・広島選挙区(改選定員2人)

 当選:森本真治 32万9,792
 当選:河井案里 29万5,871
 次点:溝手顕正 27万0,183
この時の有権者数は、234万6,879人。

2013年参議院議員選挙・広島選挙区

 当選:溝手顕正 52万1,791
 当選:森本真治 19万4,358
この時の有権者数は、232万4,694人。

2020年6月18日、東京地検特捜部は前法務大臣の河井克行衆議院議員(57)と妻の案里参議院議員(46)を公職選挙法違反容疑で逮捕した。2人には、案里議員が初当選した2019年7月の参議院議員選挙で、広島選挙区の地元議員ら94人に、合わせて2,570万円の現金を配って票の取りまとめを依頼した疑いがもたれている。河井夫妻(克行衆議院議員・案里参議院議員)選挙違反事件である。法務大臣経験者の逮捕は戦後初めて、という(現金を受け取った地方議員や首長は、起訴は免れた)。

河井案里と溝手顕正は、保守票をほぼ二分したが、革新系で支持層の違う森本真治の票の伸びを読みきれず、2人ともトップの森本票を超えることができず、女性票や若年層の票などを含む無党派層の票も若干期待できる案里が、溝手を抜いて、当選ラインに届いただけであった。有権者数が、2万人増える中で、保守陣営は、新たに4万票を取り込んでいたにも関わらず、ということである。どれだけ激戦だったかがうかがえる。だが、保守陣営の「奮闘努力の甲斐もなく」(『男はつらいよ』)負けてしまう。革新陣営は、13万票増と大きく票を伸ばしたからだ。

選挙取材の、いわば「業界用語」で「票を読む」という言葉がある。票を読むとは、僭越ながら、近い将来の有権者の投票行動の動向を予想する、ということである、つまり、これは、有権者たちの見えない心の内を覗きこむことである。そういう行為が、いかに、難しいことか、河井夫妻は、苦い思いをしていることであろう。

ここでは、この選挙違反事件について書くことが目的ではない。ここでも、安倍政権、あるいは、首相関係者が事件に関わっていたのではないかという疑惑を報じる新聞記事を引用したいために、取り上げたのである。その記事とは、以下の通り。

「府中町議で案里議員の後援会幹部の繁政秀子議員(78)も、25日、報道各社を前に、克行議員から『安倍さんからです』と30万円を渡されたと証言。首相の名前を出されたため断りきれず受け取ったが『使っていない』と説明したという(20年6月26日付朝日新聞記事。大原・注/府中町は、広島県。25日は、6月25日)。

贅言;東京高検の、あの元検事長であった黒川弘務氏の周辺というか、関連でその後、動きがあった。まず、黒川元検事長が、賭博麻雀の批判を受けて、辞職に追い込まれた後、次期検事総長候補の本命・林眞琴名古屋高検検事長は、東京高検検事長の椅子にちょっとの間だけ座った後、7月17日付けで、さらに検察トップのポストである最高検検事総長の椅子に座った。林氏は、赤煉瓦派の出世頭となったのである。
林眞琴氏は、2017年、いわゆる「共謀罪」(組織的犯罪処罰法改正案)の審議にあたって、衆議院法務委員会で、金田勝年法務大臣が「答弁不安定」だったことから、有能な法務官僚として大臣の代わりに答弁に立ち、問題点が多いにも関わらず「共謀罪」法案成立に尽力していた。私たちは、国会前に詰めかけ、「法案廃案」などと反対の声を上げたものだ。あれから、3年が経過した。林検事総長の誕生とは、これはこれで、まことに口惜しい限りだ。国会中継のテレビで見たあの「いかつい」印象の顔を覚えている人もいるだろう。林検事総長の就任の弁は、次の通り(以下、黒川関連は、新聞各紙参照)。

「国民から負託された重い使命を自覚し、一つ一つの事件において、公正誠実に、熱意を持って、適正、的確に検察権を行使することに尽きる」と、述べたという。さらに、「政治と検察の距離」の在り方について記者から問われ、「検察官はどのような時にも厳正公平、不偏不党を旨とすべきだ」と林氏は述べた、という。ならば、公益の代表者の一人として、定年まで、その信念を全うしてもらいたい、と思う。

一方、黒川氏自身についての動きでは、東京地検の動きがあった。賭博麻雀の件で、7月10日、東京地検は、黒川氏を不起訴処分(起訴猶予など)にしたと発表した。また、黒川氏の麻雀相手の産経新聞社の記者2人と、朝日新聞社記者で、その後、記者職を離れていた社員の、合わせて3人も同様に不起訴処分(起訴猶予など)にした、という。メディア誑(たら)しの処分ではないのか。地検は、「一日に動いた金額が多額と言えず、事実を認めて反省していることなどを総合的に考察した」と説明した。という。

これに対して、東京都や神奈川県の市民らでつくる団体や岐阜県の弁護士グループが、7月13日、検察の「不起訴処分(起訴猶予など)」を不服として、検察審査会に審査を申し立てた。市民団体や弁護士らは、5月に黒川氏らを告発していた。「身内に甘い判断としか言いようがなく、納得できない」と彼らは言っている、という。

★「法が終わるところ、暴政が始まる」

河井夫妻の選挙違反事件では、「(広島県)府中町議で案里議員の後援会幹部の女性議員も、25日、報道各社を前に、克行議員から『安倍さんからです』と30万円を渡されたと証言」という新聞記事の中の「『安倍さんからです』と30万円を渡された、という文言を記録して残しておきたくて、記事を引用したので、今回は、長い枕(序章)となった。

この「安倍さん」とは、日本国の政治を司る最高責任者である。この最高責任者は、最初にこのポストに就いた時には、体調不良から一度は、政権を投げ出してしまった。その後2回目の政権を手に入れ、政権の最高責任者になってからは、息長く生き延び、やがて、8年間になる、という。このように長期政権を積み上げてきた、というキャリアの持ち主である。ならば、有権者である国民のために役立つ善政を生真面目に積み上げてきたかというと、私などは、首をかしげることばかりが続々と思い出されるのだが、有権者たちの目には、そうは映らないらしい。だから、支持率という数字とともに、選挙結果が運良くついて回り、「勝ち戦の将軍」として、この人を政権の最高責任者のポストに長らくとどまらせているのである。

例えば、彼は、2014年7月、歴代の内閣法制局答弁により憲法九条違反であることが確立した政府解釈となっていた集団的自衛権の行使を、同条改正に言及することなく、閣議決定という「マジック」(手品)を使って、「合憲」(?)へと解釈変更をしてしまった。マスメディアも、彼の手法などきちんと問題点を批判的に提示、報道しないものだから、いつの間にやら、解釈変更に異を唱える人たちの声は、小さくなってしまったようだ。そういう「無理」という合理性が、「合理的なるもの」を装ったまま、長年居座り続けると、この国では、近代日本史が記録するように、権力者の無理は「有理」になってしまうらしい。

彼は、2020年1月。再びこの手法を使う。
検察庁法二十二条の下で、検察官には、国家公務員法の定年延長規定は適用されないとする、39年間専門の官僚たちが、露ほども疑わなかった解釈を、新たな見解(解釈変更)を示しただけで、本当に変更してしまった。その結果が、すでに触れてきたように黒川検事の定年延長であった。これを強行し、さらに、検事長ポストから検事総長ポストへの「解釈変更」も、強行されようとした。人事異動が、実質的に、軽々しくも、「解釈変更」という呪文でなされてしまおうとしていたのである。ただし、詳細はすでに記述したので、ここでは省略とする。

こういう安倍政権の政治手法の問題点は、「憲法ができないとしていることを、一内閣でできるとしたことにより、憲法改正規定(憲法九十六条)を裏から侵犯した」(憲法学者の蟻川恒正氏)という憲法学者の見解は、大いに同感できる。蟻川氏は、「国民が保持する憲法改正権を内閣が簒奪した」という表現を使ってまで、強い調子で批判していた。

1970年代のロッキード事件を思い出してほしい。あの当時の検察官たちは、内閣総理大臣を退いた田中角栄元首相を訴追したのである。訴追し、「有罪」に追い込んだのである。必要とあれば、巨魁に対して国民から負託された、そういう権限を行使できるのが、検察官である。検察官の身分や処遇を時の政権の見解変更のみで、保証書にしたり、反故にしたり、できるような「御政道」は、やはりおかしいのではないか。こういうことを許すようになれば、検察官に限らず、政権のいうことを聞く官僚は優遇され(こうした優遇策は、すでに、最近の財務省の幹部人事でも、活用(濫用)されているから、呆れる)、言うことを聞かない官僚は、「冷や飯を食わされる」ということになる。まさに、末法の世ではないか。

このような法解釈の変更が、行政独走によってこれ以上まかり通るようであれば、日本社会がコロナウイルスによって破壊される前に、先人たちが積み上げてきた近代デモクラシー・法の支配(立憲主義)という政治的な原理は、骨抜きにされてしまうだろう。「法の秩序は、ほとんど破壊された」(蟻川氏)と言っても過言ではない。

これも、また、「法が終わるところ、暴政が始まる」である。黒川弘務問題に対する先の検察OBの意見書で引用されたジョン・ロック。大学で政治学(特に、政治思想史)を学ぶ学徒にとって、『統治二論』(例えば、岩波文庫版で今も容易に手に入る)は、必読の書の一つである。法治主義の古典である。その中に、「法が終わるところ、暴政が始まる」という記述がある。その「もの言い」に習えば、この政権は、「法を終わらせるところから、政治が始まる」というような政治信条を最高責任者が持っているのではないか、といえば、言い過ぎだろうか。

この政権の「疑惑」は、数々(あまた)報道されている。報道されている時でも、報道されなくなった後でも、国民は、疑惑に慣らされてしまい、世論の反応は弱く、鈍い。もう、この国では、権力者も国民も、何も感じなくなってしまっているのではないか。この政権の疑惑の根っこには、いつも同じ「原理」が働いているように、私には思われる。

その「同じ原理」(共通原理)とは、「身内」最優先。身内意識の共有化と身内への利益誘導(あるいは、身内のみへの利益誘導)が、何より大事、という政治信条のことである。

この政権で言えば、8年近くの政治的な出来事は、思い出せないほど多数(あまた)ある。森友・加計問題、大学入学共通テストで予定されていた英語の民間試験導入、地元有権者のみを「桜を見る会」へ招待する、などということでも指摘されてきた通りである。ここでは、今、改めてそれらのすべてについて触れることはしないが、そういう問題は、私たちは、すでに「承知」(「認識」であって、もちろん「賛同」ではない)している、ということは、まず「確認」しておきたい。

★ 近代デモクラシー・法の支配を理解しない政権

去年の暮れから始まった「新型コロナウイルス」禍は、パンデミックとなって世界を席巻し、2020年春の第一波に続いて、夏の第二波が猛威を振るっている最中である。コロナは、世界中の人たちの命を日々奪い続けている。この国の政権は、コロナの猛威をよそに、臨時国会も開かず、首相会見もせず、国民の苦難を見て見ぬ振りをしている。本当に、やる気が感じられない軍団である。こういう時代に生まれあわせたのが、身の不幸、ということか。しかし、もう少しの間、私も気を振り絞って、書き連ねよう。我が身をジャーナリストとして、死なせるために。

安倍政権が今やるべきことは、明白だ。現在の政権最優先課題は、国民の命を守ること。適切なコロナウイルス対策を打ち出す、ということだ。課題の所在は、3月、4月の第一波襲来の状況となんら変わっていない。まず、PCR検査を徹底的に遂行し、ウイルス禍の全体像を可視化することだ。検査数の増加、感染者を治療する医療機関への予算支援、「コロナ専門病院」の設立(東京都が、近いうちにやっと設立する見通しを公表した)など。

なのに、安倍政権では、このところ特に、やるべきことをやらずに、ぐずぐずしている。しかも、やってみれば、トンチンカンで、やることは後手後手になっている。最近の「GoTo(トラベル、トラブル?)」政策も、同じ轍を踏んでいる。懸念通り、キャンペーンスタート後、感染者を増やしているだけなのではないか。特に、沖縄が危ない。このキャンペーン担当大臣、与党の公明党の大臣を窮地に陥れているようだ。

しかし、コロナは、人の命を奪うだけではなく、人間の様々な問題点を浮き彫りにしているように見える。例えば、「コロナが浮き彫りにした安倍政権の失敗」というような検証項目も、私の脳裏には浮かび上がってくる。ここでは、それを書いてみよう、と思う。

思いつくまま、具体例を提示してみようか。
まず、この政権は、発症時、新型コロナウイルス問題を、それこそ、インフルエンザ程度にしか見ていなかったかもしれない。まず、水際作戦の失敗である。2019年の年末、中国の武漢市で新型コロナウイルスが見つかった時、この政権は、その危険性をどれだけ軽視していたことだろうか。

むしろ、彼らが懸念していたのは、2020年7月から始まるオリンピック開催への拘(こだわ)りではなかったのか。オリンピック・パラリンピックの延期だ、中止だ、という声は聞こえてきたが、武漢問題は、中国のローカルの問題としか捉えていなかったのではないか。武漢市の「ロックダウン(都市封鎖)」というニュースで、初めて事態を知りびっくりしたという国民が多かったのではないか。政権の最高責任者は、中国の習近平国家主席の来日が延期にされてから、初めて「中国の武漢問題」に向き合った、という印象が私には強い。習近平国家主席の来日までは、騒がずに静かにしておこうと思っていたのだろうよ。彼は。

全長290メートル、幅37.5メートル、水面からの高さ50メートルを超える構造物。都心などで見かけるビルのホテルのような大きさだ。2020年2月3日に横浜港に入港したクルーズ船だ。このクルーズ船は、20年1月20日、横浜港から出航し、鹿児島、香港、沖縄などに寄港しながら東アジアの海の旅を楽しんできた。乗客には、高齢者の姿が、目立った。定年後の夫婦で楽しむ豪華船の旅。

ところが、クルーズ船から、前日、香港で下船した男性が新型コロナウイルスに感染していたことが判ると、船内は一変する。この船が、「ダイヤモンド・プリンセス」号である。この時点で、「ダイヤモンド・プリンセス」号には、乗船者は、約3,700人いた。クルーズ船のコロナウイルスに対する対応も数々の点で誤っていた。船内のゾーニングが、不徹底である実態を見れば、クルーズ船対応対策として、日本政府は、寄港を拒否した上で、船籍会社(あるいは国)、船の運航会社(あるいは国)に、処理を任せるべきであった。

政権の最高責任者が自ら判断したと言われる「一斉休校」指示の判断も、おぞましい判断であった。教育現場に必要なコミュニケーションを突然断絶させた。子どもたちも巻き込んでの教育現場への影響は、計り知れない。この春新入学となるはずだった小学生は、心に傷を残した。この影響は、この後も、子供たちの成長過程でいろいろな痕跡をそれぞれの人生に残すことになるだろう。

こうやって、安倍政権の不始末ぶりを書いていると、その詳細をきちんと書く気が失せてくる。この政権には、国民政治家がいない。国民政治家とは、有権者である国民の実情を理解し、国民とともに考え、それを政治の場に生かして行く政治家のことである。その点で今でもいちばん笑ってしまうのは、布マスク配布の不成功やユーチューブへの自身の日常性の暴露、つまり「くつろぎ」映像投稿の不首尾という、いずれも、首相近辺の、つまり、いわゆる「側近」と称する知恵袋たち(あるいは、茶坊主たち?)の、思惑(「空振り」)ぶりの滑稽さなど。こちらも数々(あまた)ある。

贅言;ほとんど成果を上げていないように見える布マスクの配布への政権の拘(こだわ)りぶりの根底には、何があるのだろうか。安倍政権は、7月末にも、8,000万枚の布マスクをニュースにした。布マスクは、何度もマスメディアを騒がせた。マスク配布のために追加発注をして、介護施設などに配る計画があることが判った、という。布マスクの配布は、総数で1億4,000万枚に上る、という。
これについて、国民からは、冷たい反応が返ってきたことをマスメディアは、報道していた。「医療現場で働く人の給料やボーナスをアップするために使うなど、予算は、ほかの使い道があるのではないか」「布マスクではなく、使い捨ての紙マスク一箱を配ってくれる方が良い」などなど。布マスク配布は、国民の批判の声を受けて、6,000万枚は、備蓄に回されることになったが、予算の無駄遣いという本質は変わらない。
こういう状況を見ていると、この政権には、マスクを使った政治的なパフォーマンスに何か「こだわり」があるのではないか。まあ、首都東京で、毎日毎日、200人を超える人々が新たな感染者になっている。国民が大量に殺され続けている。こういう現状が続いている中で、政権の最高責任者としては、もっとほかに、やらなければならないことがあるのを国民は、皆知っているだろうに。彼はいつまで独りで「裸の王様」であり続けるつもりなのだろうか。
それにしても、マスメディアは、このウイルス保有者ならぬ、政権保持者の実相をなぜ、有権者である国民に知らせないのだろうか。「裸の王様」の周辺には、「裸のマスメディア」もいる、ということなのか。かつて、マスメディアの場を職場に選び、社会部の記者やデスクを長年続けてきた身には、後輩たちの無様さ(失礼!)には、呆れ果てる思いをすることが、まま、ある。

マスクの予算について言えば、予算は、PCR検査の費用にこそ、まずは回すべきだろう。感染の実態に少しでも近づくためには、諸外国でも成果を上げているPCR検査の徹底こそが最優先されるべきだろう、と思うからである。ついで、医療現場のシステム崩壊を避けるようにする。アベノマスクの問題処理など、番外であろう。

★ 政治部記者と「記者クラブ論」

見えない敵とは、言うまでもなく、新型コロナウイルスのことであるが、見える敵とは、すでにおわかりのように、現行政権の最高責任者であるし、その政権運営ぶりをきちんと批判・報道しないマスメディアの記者やデスクたち、特に、政治部記者という人たちであろう、と思っている人が多いことに驚く。

法の支配とは、三権分立の中の「立法」であるが、立法とは、国会優先原理であるべきなのだ。政治部記者は、有権者である国民から職業倫理上、実質的な負託を受けて、国会を優先的に取材する。国会取材の関連において政治家集団の政党や政党構成員の政治家を取材する。ところが、国会では、特に、最近の政権与党は、国会を軽視するか、無視するか、しているから、次のように言われる。「蟹は甲羅に似せて穴を掘る」。

贅言;蟹は、大きければ大きいなりに、小さければ小さいなりに、それぞれ自分の体に合った穴を掘る、という。「穴」とは、蟹が棲みつく住み家である。家=穴を作ることから、人間も自分の身分(?)や力量に応じた言動をするということのたとえに使われる。こういう言い伝え通りに、政治部記者たちは、政治家に似せて、原稿を書いているのではないか。有権者は、置き去りにされている。

記者クラブのあり方について、多くの方々から批判の声を聞く。私も、長年社会部の記者をしてきたので、記者クラブの実態については、一般の読者より知っているつもりであるが、私が体験した記者クラブは、社会部の記者クラブである。一概に記者といっても、社会部記者、政治部記者、経済部記者、国際部記者、スポーツ記者、学芸・文芸記者などと、それぞれが育ったフィールドでタイプが異なってくる。もちろん個人差もある。

私は、1970年代から80年代にかけて、NHK記者生活16年、80年代後半から90年代後半にかけて、デスク生活10年を体験した。それ以降の組織人生活は、○○年と数え上げれば、現場の記者生活を離れて、久しい、ことがバレてしまう。私は、東京報道局の社会部の記者を長年務めたほか、ニュース7部(当時)のデスクも体験した。そういう体験を踏まえて、政治部の記者、特に首相官邸で開かれる記者会見のテレビの中継画面を見ていると、いつも違和感を感じる。

記者会見が、官邸側の役人の進行で進んでいる。記者会見の質問者の選択も、この役人が取り仕切っているようである。記者クラブの幹事社(本来、記者クラブは、マスメディア側の自主的な組織であるはずで、加盟社が会費を払って活動する。そのために、複数の幹事社が定期的に交代で「当番」となる)は、記者会見を仕切りながら、当局とも連絡調整をする。また、記者クラブの取材対象になる官庁や企業、団体など当局側と記者クラブの問題を交渉したりする関係の組織である。

官邸の記者会見では、首相が、プロンプターの原稿を読みながら持論の演説をする。その後、質問をする記者の質問ぶりも、「大人しく」(というか、切れ味が悪く)、「なんだ、この質問は!」と思うような質問も多いことに気づく。首相も、記者の質問に答えるというより、質問をはぐらかし、記者の質問の答えにはならない持論を長々と述べて、すました顔をしている。国会の委員会などで野党議員の質問をはぐらかし、答えていない場面によく似ている(当然野党議員は、「答弁漏れ」と抗議をするが、首相は知らぬ顔を決め込むか、答弁はすれど、「答えず」というスタイルを続ける)。

「こんな答えでは、記者も原稿が書けないだろうに、と私は思いながら、質問した記者が、角度を変えて追加質問をするのではないか、と期待していると、そのまま追加質問もなく、質問した記者は、質問を終えてしまう。次に質問に立つ他社の記者も、素知らぬ顔で別の質問をし始める。幹事社の質問が終われば、記者会見場にいる記者たちは、挙手をして記者会見の進行役の役人に質問したいという意思表示をする。挙手をする複数の記者の中から、質問者を選ぶのは、この役人の特権であるらしい。
時々、長めの質問をする「根性のある記者」がいるとしよう。しかし、一人の記者の質問が長い場合、役人は、その記者に対して、早く質問を切り上げろと記者を抑圧してくる。まるで、記者会見の規制役である。こんなこと、私のいた時代、社会部の記者会見では、見られなかった光景だな、と思う。政治部の記者会見というのは、こういう記者会見なのだろうか。聞くところでは、質問者は制限され、質問も、一人一問のみ、関連質問や追加質問は無しなどの「ルール」があるとか、ないとか。

そんなことを思いながら、インターネットのニュース項目の検索をしていたら、次のような情報に出会った。ジャーナリストの江川紹子さんが、7月31日の官邸記者会見について、私と同じようなことを書いていた、というのだ(以下、引用)。

「これは『記者会見』とは呼べない」と一刀両断するとともに、メディアに向けても「だいたい記者がおとなしすぎる。もっと質問を浴びせないと…」と注文を付けた。

ということは、官邸の記者クラブを構成する政治部の記者たちは、所属する新聞社やテレビ局、通信社を問わず、「会見体質」を依然として変えていない、ということらしい。この問題については、今後、いろいろテーマを変えながら、考えて行きたい。

★ 次号へ ~「コロナ」で、日本は新しいフェイズへ進むのか?

見出しにした文言の新しいフェイズとは、何か。ここでは、それを予告的に具体例を提示し、このテーマを考えてみたい、とお伝えしておきたいと思う。

コロナ禍対応でウイルス抑制に人類が成功した後の社会のありようが、問われ始めている。

日本では、一つは、政権交代論。
安倍政権から政権交代へ。それは、自民党の中でのリーダーの交代にとどまるのか。それとも、政権の責任者が、与党政権から野党政権に代わるのか。与野党政権交代か。

無能な人が、いつまでも最高権力者の座についているということは、その国の有権者、国民にとって不幸である。

もう一つは、オンライン社会は、新しいフェイズへ進むのか。
にわかに、実践され始めたのが、「リモート・ワーク(在宅勤務)」「オンライン・ミーティング(在宅会議)」など、インターネットを使った新しい生活・行動様式である。

この「見えない敵と見える敵との闘い」シリーズは、今回の号で、テーマとしては一旦閉めることとしたい。今後は、単発で、随時、取り上げて書いて行きたい、と思う。

 (ジャーナリスト(元NHK社会部記者)、日本ペンクラブ理事、『オルタ広場』編集委員)

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