満洲建国大学の朝鮮人学徒動員

--呉昌禄(オチャンノク)さんの体験を中心に--

北原 道子


◆はじめに

 呉昌禄さんは、「満洲国」新京市にあった建国大学に在学中、朝鮮人学徒動員により樺太(現サハリン)の陸軍部隊に送られた。配属された関東軍独立守備歩兵第七大隊は千島列島最北端の占守(シュムシュ)島に向かったが、その途中、呉昌禄さんは樺太で幹部候補生訓練を受けた後、そのまま現地の部隊に配属された。樺太では一九四五年八月初め、国境を越えて侵攻してきたソ連軍と戦闘が始まった。呉昌禄さんのいた歩兵第二五連隊第一二中隊は中隊長の判断で自己武装解除、軍人としての身分を捨て樺太社会に身を隠した。その結果、シベリア抑留は免れたものの、解放後長い間、故郷である朝鮮半島に帰ることができなかった。日本と韓国両政府の手で京畿(キョンギ)道安山(アンサン)市にサハリンからの帰国者住宅が完成し、受入れ態勢が整った二〇〇〇年春、ようやく永住帰国した。だが、病いに冒されていた呉昌禄さんは帰国後わずか八ヶ月で亡くなった。

 ここでは、建国大学の朝鮮人学生たちが学徒動員に当たり、何をどう考え行動したか、入営までの経緯を中心に呉昌禄さんの体験からまとめた。呉昌禄さんのインタビューは、一九九八年と一九九九年、当時お住まいだったサハリンのドーリンスク(旧落合)のご自宅をお訪ねして行なった。

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◆1.呉昌禄さんの経歴

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 呉昌禄さんは一九二一年六月、慶尚(キョンサン)北道尚州(サンジュ)郡で長男として出まれた。家族は父母弟妹。普通学校四年の時京城(現ソウル)へ転居し、一九三九年公立京畿中学を卒業(*1)、四月に建国大学に入学する。第二期生に当たる。前期三年の後、学徒動員を受けて後期三年を繰上げ二年で卒業。創氏名は福田昌禄(ふくだしょうろく)である。

 (*1)一九三八年第三次教育令により、朝鮮の学校制度は師範教育と実業補習教育を除き日本国内学校令が適用された。京畿公立中学は京城第一高等普通学校から名称を変えた

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◆2.建国大学とはどんな学校だったのか

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(1)建国大学と民族協和

 呉昌禄さんが在籍した建国大学について宮沢恵理子は、次のように説明している(*2)。「「満州国」における文科系最高学府として、関東軍と「満州国」政府によって一九三八年に新京市(現長春市)に創設された。「民族協和」をその建学の精神とし、日本 人 ・ 朝 鮮 人 ・ 中 国 人 ・ モ ン ゴ ル 人 ・ 白 系 ロ シ ア 人 の 優 秀 な 学 生 を 集 め て 共 同生活の中で切瑳(ママ)拓磨して、将来の満州国建設の指導者たるべき人材を養成するとの教育方針に加えて、すべてが官費で賄われ全寮制で授業料免除といった軍関係の学校並みの条件から、創立当時は合格定員一五〇名に対して日本領および満州国内から約二万人以上の志願者が集まった」。創立から八年、日本の敗戦と「満州国」の崩壊により閉校、「教職員・学生は戦争協力者・植民地行政関係者としてシベリア抑留・公職追放・逮捕・投獄等を経験した」。

 (*2)『建国大学と民族協和』風間書房、一九九七年三月、一頁とりわけ、「民族協和」を実践するための塾生活は建国大学の特徴とされた。だが、四期生の岩崎宏は、塾生活と五族協和が実際には行き詰まっていたと次のように指摘している。「建大の塾生活のねらいの第一は、各民族が日常の起居を一つにすることで、その間に、お互いの真情を吐露し合って、同志的結合をなし、新国家建設に手をたずさえて尽力することだ、とされていました。ところが、実状は、寝食を共にするの一事にとどまり、真情の交流の段階で行きづまってしまっていたのです。

(中略)

 たしかに、現象面だけとりあげたら、あたたかい思いやりに満ちているように見えました。だが本質は違っていたのです。その第一は日本神道の押しつけ、第二は関東軍への傾斜です。実は中国人、朝鮮人など、他民族学生が最も嫌っていたのはこの二つでした。(中略)

 建大がどんな美辞麗句をかかげようとも、神と絶縁し、関東軍の学内干渉をやめさせないかぎり、五族協和はあり得なかったのです」(*3)。

 民族別合格者数は一学年が一五〇名とされているだけで、民族別の定員枠があったわけではないようだ。『康徳八年度建国大学要覧』によれば呉昌禄さんたち二期生一四六名中朝鮮人は一一名が数えられる(*4)。

 (*3)聶長林『幻の学園・建国大学─中国人学生の証言』、建国大学四期生会誌『楊柳』別冊、一九九七年五月、三~四頁

 (*4)六三~六九頁。康徳八年は一九四一年。

(2)建国大学を志望した動機

 建国大学志望の理由として呉昌禄さんはまず経済的理由を挙げた。「官費ですべてまかなわれた上に一ヵ月に五円小遣いまで出た」。将来の展望と絡んで考えたともいう。「一般的に建大は国家の大学で官吏養成所で、卒業後は副県長になるといわれていた(*5)。官吏になりたいと思った。朝鮮人は大学を出ても就職出来なかった。

大学を出て帰郷した先輩も遊んでいる人が多い。公けには口にしなかったが、家が貧しかったし(父親はどこか事務所に勤めていた)、金を儲けようと考えた」。

 さらに、「心的理由もあった」とも語った。建国大学は「新しい学校で規模も日本では見られない構想でそれに惹かれた。新しい国家への憧れも抱いた。(「満洲国」は)傀儡ではなく独立国家だというふうに思っていた。五族協和の理念が魅惑的だった。教授連に各民族代表がいた。若い者の心を惹いた。朝鮮内に居りたくなかった。皇民化運動がひどくてどこかへ出ていきたいと思った。卒業して上の学校を志望する人はほとんどが日本の高校や満洲へ行った。それに、家庭の問題(両親の不仲)もあった」。

 中学校での特別な受験指導はなかったそうだが、「建国大学からの公告広報はあったように思う」(*6)。建国大学へは校長の推薦で受験した。呉昌禄さんの中学校での成績は、クラスで三~四番。一学年四クラスで生徒数は二〇〇人、二〇〇人中一五番くらいだった。一九三九年一月一七日付『毎日新報』には朝鮮半島から日本人と朝鮮人を合わせ一三名が合格した、という記事が掲載された。受験者「内地人二十六名朝鮮人五十七名」中、合格者は「内地人四名朝鮮人九名の十三名で、京畿中学からは十名の応募者のうち五名の合格者を出し」たと、合格した洪鉄熹(ホンチョルヒ)、洪椿植(ホンチュンシク)、崔在昉(チェジェバン)、呉昌禄、徐国源(ソググォン)の写真入りで報じられた。

 (*5)建国大学は単なる官吏養成ではなく、「満洲国」の指導的な役割を果たす「道義世界建設ノ先覚的指導者タル人材」を養成する大学とされた(「建国大学令」『康徳八年度建国大学要覧』、九頁)。

 (*6)京畿中学の同級生で、建国大学に一緒に入学した洪椿植は、中学五年生の時、建国大学で軍事訓練などを担当した陸軍少将辻権作が学生募集講演に来校した、と書いている(洪椿植『旧満洲国建国大学出身の韓国人洪椿植が語るハンキョレ(はらから)の世界 ああ日本』(以下、『ハンキョレの世界』と略す)、私家版、二〇頁、[一九九〇年一〇月])。

(3)建国大学での生活

 呉昌禄さんは入学後、建国大学でどんな学生生活を送ったのだろうか。

「満洲は自由な余地が多かった。空間的自由。広い大地。精神的な自由を感じた。日本人は少なく、日本人から受ける圧迫感が感じられなかった。日本人の高慢さは目についたが、自分に及ぶことはなかった。建大は自由な校風。思想を問わない。反満抗日(*7)。「何でも良いから話せ」という雰囲気」だった。「図書館にはなんでもあった。朝鮮関係の本もかなりとはいえないが、あった。三・一や上海臨時政府の存在を建大へ来て初めて知った。本を読んで初めて判った。

 心の余裕があった。反満抗日に走るわけではないが、広く考えるようになった。朝鮮人学生は互いにこんな本を読めと勧めた。建大で民族意識に目覚めた。人によって年齢の差で違いがあるが、(自分は)皇民化されていた。自分の民族を忘れていた。海の中で溺れるようなもの。中学は受験勉強ばかり。毎日、「皇国臣民の誓詞」を暗唱させられた。同級生で民族系の中学に行った者の中には民族的な者もあったが、自分たちにはなかった。先生は日本人。中学三年の時、朝鮮人の先生三人が免職されて、もう一人もいなくなってしまった。朝鮮語を話すことも禁じられた。中学四年の初めには朝鮮語の授業もなくなった(*8)。

 建国大学では朝鮮語で話すことを禁じられなかったが、話そうと思っても言葉が出てこない。言語で差別されないから朝鮮語で話したが、朝鮮人学生の中には完全に話せない者もいた。自分もそうだった。日本語半分、朝鮮語半分で話したりした」。

 呉昌禄さんの後輩に当たる五期生の金相圭(キムサンギュ)は、建国大学に入学して「鮮系」という言葉にさえ民族を認められたと思って感激したと書いている(*9)。「入学してからは、嬉しい驚きもあった。鮮系とよばれて、日系と並称されたこと。同胞の先輩、同輩と自由に母国語がしゃべれたこと。抑圧的な大人の日本人たちと、限られた範囲の接触しか持たなかった朝鮮での経験からして、時には怒りをこめて自分の心情を吐露できる日本人学友たちの存在は、なんとも新鮮だった」。

 呉昌禄さん自身は「大学そのものに対する失望感はなかった」という。「知識養成する学校ではない。体力訓練、武道。規律性をもたせる教育。知識涵養については満足した。日本精神を唱えなければならないのは、日本や朝鮮でも同じだから(それほど嫌ではなかった)」。とはいえ、民族を認めないような事柄に関しては反発を感じることもなかったわけではないようだ。「建国廟に誰を祀るかという議論になった時に、
天照大神を祀ると言われ違和感を感じた。また、食事前に「朝夕になんとか」という歌を唱えさせられたが、良い感じはしなかった」(*10)。

 建国大学の朝鮮人学生たちの民族意識は、呉昌禄さんによれば「朝鮮人学生だけで集まって話すことは稀だった。個人的に同期生が二~三人集まると話をした。合い言葉のように「独立」を口にしたが、具体的な話ではなく漠然とした独立への思いがあった。左翼や右翼や民族独立が何か判らないが、民族といえば「おお」という感じ。

 独立運動に関して話は聞いたが具体的なことは判らなかった。(大学内で)中国人の抗日組織はできたが、朝鮮人の組織はなかった」。

 (*7)建国大学の設立に大きな力を及ぼした関東軍参謀辻政信は、「満洲国」建国の理想追究のためには、日本政府や軍の方針と必ずしも一致させる必要はないと考えていたようで、そのことを「反満抗日」と表現した。また当時、副総長だった作田壮一は学生の思想の自由に寛容であった。「何でもよいから話せ」という雰囲気は、こうしたことに由来する。

 (*8)第三次朝鮮教育令によって朝鮮語は随意科目とされた。

 (*9)「古き良き縁を明日に」建国大学同窓会『歓喜嶺遥か(上)』、一九九一年六月、一〇六頁。宮沢恵理子氏によると、建国大学では受けた中等教育の違いにより、朝鮮人は本国出身者は「日系」、大陸に居住していた者は「満系」とされ、学生間では「鮮系」と呼ばれた、という。「鮮系」という言葉は、侮蔑的な呼称である。引用資料中
には、他にも「半島」など差別的用語があるが、時代を写すものとしてそのまま記した。

 (*10)食事前には天照大神賛歌の和歌の朗唱が強制された。「「いただきます」「ごちそうさま」という日本語の言葉も全員で唱えねばならなかった」(『建国大学と民族協和』、一九九頁)。

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◆3.学徒兵「志願」の状況

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(1)朝鮮人学生は、学徒動員をどう考えたか

 学徒動員によって日本軍に入営するまでにどのような経緯をたどったのだろうか。

 一九四三年一〇月二〇日、朝鮮人と台湾人学徒動員のための「陸軍特別志願兵臨時採用規則」が公布された後、学生たちは会合を開いた。その時の状況を尋ねると呉昌禄さんはこう書いて寄こした(*11)。

 「同じ動員令ながら日系と韓系(ママ)では受け入れ方が違ふ。私達は予期しなかった丈に選択は複雑で苦悩した。初めは心的強圧感を覚へた。専門学校以上の大学生達にはそれ迄秘められてゐた民族意識がめざめ始めてゐたのである。(中略)〝苛歛誅求、民族抹殺〟が尚物足らず今や民族の若者エリートを血祭りに上げるつもりなのか、と激昂した。

 然 し そ れ は ど こ 迄 も 一 方 的 な 不 鮮 明 な 感 情 で 当 時 の 段 階 で は 恐 怖 と 不 安 が 先行した。相手は軍部である。而も彼等は戦時下の国策遂行に立脚してゐる。当時の実 状 は 軍 の 命 令 は 至 上 命 令 で あ り 、 言 論 の 自 由 は 毛 頭 な く 民 族 語 は 徹 底 的 に 禁止され、如何なる反戦思想は極刑に罰せられる。

 学徒兵にしても同じこと。場合に依っては親達にも連累される。逃れる道はない。だからと言って志願書を提出した覚へもない。親達の承諾書(同意書)を持参した者は一人もない。召集令状もない。志願兵とはどうも納得が行かなかった。

 私達二期生は(一〇人)事前に会合した。会合は結局出陣のやむなきを認めた後、全 員 不 帰 の 場 合 を 予 測 し て 後 事 を 託 す べ く 同 期 生 の 内 最 も 優 秀 な 学 生 を 選 ん で指名した。所がそれが漏れてその翌日になると同じ場所に貼紙が出され大書されてゐる。

「志願しない者は司令部に出頭せよ 関東軍憲兵司令官」」(原文ママ)
(*11)「呉昌禄氏書簡」。筆者の郵送した質問事項に対する回答。

 この集まりでは、「いくら強制でも「志願」だから一人残そうと話した。自分が提案したが、憲兵司令部の貼紙でダメになった。残そうとしたのは金泳禄(キムヨンノク)(*12)。頭がいいから死なせたら痛ましい。だが、自分たちには力がない。気持ちだけでどうすれば良いか判らない」状態だったという。自分たちの力の及ばない、大きな圧力で強いられた軍隊への動員。しかもそれは、祖国朝鮮のためではなく、支配者である日本の軍隊への動員である。納得しようとしてもしきれない状況の中で、事態を受け入れざるを得なかったのだろうが、呉昌禄さんはそれを「強制連行を意識しながらの意識的志願」だったと表現した。そして、その理由を次のように書いている。

 「(1)激動する戦乱の中、塾生活の六年間起居を共にした日系同窓学友が出征した今日、韓系学徒のみが安閑居眠りして果してよいのであらうか?(2)民族の過去史に対する反省である。今がよい機会だ。[軍事について]習っておこう。将来役立つかも知らないと考へた。(3)更に最も欠かせないのは著名な民族主義者であり当時建国大学の恩師であった六堂先生(*13)の高邁なる教へであった。六堂先生は学生達に民族実力の涵養と民族再起に於ける軍事力の役割、特に将校幹部の養成を力説した。そして恩師の真実な意図を学生がよく理解したからである」(*14)(原文ママ)

 (*12)一九二一年黄海道出身。財務部理財局長(張勉政権時)など歴任。

 (*13)六堂崔南善(一八九〇~一九五七)。六堂は号。文学者であり、歴史学者。三・一独立宣言書の起草者。解放後、建国大学に籍を置いたことなどを理由に親日派として追及される。

 (*14)「呉昌禄氏書簡」

 学徒動員について、ほかの建国大学生はどう考えたのか。学生たちが集まって議論した時、呉昌禄さんが志願をさせずに残そうとしたという金泳禄は、自分が提案してくじ引きで決めようと話した、と書いている(*15)。「志願の如何を巡って意見が乱れ飛んだ。私は勿論志願しない側だった。しかし、妙案も結論もなかなか出てこなかった。結局、私は一つの提案をした。(中略)志願する、しないで分けるのではなく、籤を引いて半数は志願し半数は残ろうというのであった。

 (中略)私が残ることを主張するのは、建大生となった以上、最低限在満三〇〇万朝鮮人のために何名かでも残って働かなければならないということだ。(中略)我々の総意 で 籤 を 引 き 半 分 は 入 隊 し 半 分 は 残 っ て 満 洲 国 の た め に 働 く と 決 め る と い う ことなら、半数であってもしっかり働くことができるだろう」。

 同じく二期生の呉寛用(オガニョン)は「二期生(最高年)だけでなく入隊対象者全 員 が 集 ま っ た が 、 そ の ま え に 全 員 帰 国 し て 家 族 と 又 は 尊 敬 す る 先 輩 を 訪 ね 指導をあおいだ後、再会して意見を述べあい対策を講ずることにしていたので、当時公主嶺の関東軍上級将校再教育学校の教授部長洪思翊少将の志願慎重論があったが、崔南善先生の憂国の民族将来を考える積極志願論に感動して全員志願することになった」(*16)と書いて寄こした。呉寛用は、学徒志願について学生たちが洪思翊(ホンサイク)と崔南善の意見を聞きに行った時の話を次のように話した(*17)。

「初めは学校で言われたんではなかったかなあ。配属将校の確か、小松大佐(*18)という方が来てね。しばらく経ってから、みんなどうしようかと相談して、うちへ帰って家族に相談するとか知合いの者がいたら意見を聞くとかそういうことにして一応うちに帰ったんですよ。それが一〇月ですね。

 その中で代表的な意見というのが、(中略)洪思翊少将が大佐で連隊長として山西省に行った時の心境を語りながら、日本軍隊の高級将校として中国と対峙していると時々、静かになった時にはやはり自分の身に返るらしいんですね。「私は朝鮮出身の者だということで、なんで日本の将校としてこういうことになるのか。相手の敵というのは中国人なんだが、韓国人とは何も敵対する、あれはない。自己矛盾に入ったことが多い」と言いながら、「君たち、自分で判断することなんだけれども軍隊に入ったら、やはり将校になって部下を指揮して、私みたいに中国人と敵対して戦うことがあるかも知れん。そういう時に私が起こしたその気持ちが君たちにも起こるかも知らん。それで無理に学徒に、兵隊に行くことは奨められない」と。徐國源が知合いと一緒に会いに行って聞いて来たらしいんです。もう一人金昇濬(キムスンジュン)は、ソウルに行って崔南善先生に会った。[崔南善は]「君たちを犠牲にするのはなんだけれども兎に角、戦後どういう処理になるかも判らん。その時、もし朝鮮
が独立するようなことがあったら朝鮮の人は軍人の経験が全然ない。これは君たちが軍人の経験を積む絶好のチャンスだ。生きて帰る者もおるんだから国の再建に貢献できる。そういう気持ちで私は君たちが学兵に行くのを奨める」と言った、という話をしたんですよ。大抵、その話にみんな傾いて一緒に全部兵隊に行こうということになりました」

 (*15)「螳螂の夢」満洲建国大学在韓同窓会『歓喜嶺』、一九八六年一〇月、ソウル、五八頁

 (*16)二〇〇〇年七月二九日付書簡。洪思翊は日本の陸軍士官学校第二六期生。一九四四年中将。一九四二年四月公主嶺学校附。四四年フィリピン俘虜収容所所長。戦後、俘虜虐待の容疑で戦犯に。四六年九月処刑(古川利昭編『帝国陸海軍将官同担当官名簿』朝日新聞出版サービス、一九九二年一月、など)。

 (*17)一九二一年黄海道出身。解放後は空軍士官学校副校長、韓国製粉工業協会常務など歴任。呉寛用氏へのインタビューは、二〇〇一年四月、ソウルで行なった。

 (*18)配属武官、小松茂久万(陸軍大佐)(『康徳八年度建国大学要覧』、四一頁)。

 建国大学の学徒兵該当者が全員一致で「志願」を決めた大きな契機として、崔南善の存在があったことは否めない。建国大学の朝鮮人学生が師と仰いだ崔南善の「軍事力養成論」が学生たちの意思決定を大きく左右したのだろう。それでも学生たちには心の迷いがあった。呉寛用は次のように語る。「(自分としては)皆の意見に従おうという気持ちだったんです。両親をはじめ別に行くなという強い反対をする家族もいなかったんですね。志願しなくても逃げられないんじゃないかという話でね。家族に迷惑がかかるんじゃないかという気持ちもあったし、学校に帰ったら、みんなそういう意見だし、それで皆と一緒に行動したということですね。別に逃げようとか、絶対に志願しないとかそういう気持ちはなかったですね。正直なところ。

 学徒兵に行くという決心をした時に迷いや悩みはありましたね。死ぬかも知らんとか、なんで自分の国でもない、よその国ではないんですけどもね、兎に角、日本のために命を捧げなければいけないのか、そういう心の、あれはありましたね」。

 「支配者のために兵隊に行くということについて、自分の中でどのような整合性を付けたのか」という筆者の問いに対して、三期生の方煕(パンヒ)(*19)は次のように答えた。「あの時は、なんて言うかね、日本人が(学徒動員で先に)出て行ったでしょ。それから中国人とうちとロシア人とか残った。これで、民族協和から王道楽土建設だっていうのに、日本人は途中でみんな兵隊へ行った。おまけに兵隊へ行った
ら、死ぬやつが出る。で、我々はここで残って勉強している。実際に任官して高等官になった代わりに我々が日本人と同じようなことが言えるかどうか。我々はそういう犠牲を払っていないじゃないかと。じゃあ、やっぱり同じレベルで同じことをしてなければ、同じことを主張できないんじゃないか、というような考えをもつようになったですよ」。

 彼らのほかに五期生が二名志願したと思われる。武本森雄と竹山鎮峻(いずれも創氏名。朝鮮名は不明)である。武本は一九二二年四月、咸鏡(ハムギョン)北道鏡城(キョンソン)郡出身、竹山は一九二四年五月、平安(ピョンアン)南道成川(ソンチョン)郡出身、二人とも四四年一月二〇日に関東軍独立守備歩兵第八大隊に入営している。竹山は徴兵一期生に該当するが徴兵年齢がくる前に学徒動員で入営したものと思われる。樺太で幹部候補生訓練を受け、それぞれ第八八師団歩兵第二五連隊と歩兵一二五連隊第七中隊に配属されている。二人の志願の経緯は不明である。

 五期生の山下光一は『塾生日誌』の一九四三年一一月一二日に「鮮系学徒が挙って志願する、と聞いて、さらに感慨深い。よくも、かく快挙し得たものぞ」と書き記した(*20)。また、一一月二三日付『毎日新報』は「建大の四十名を筆頭に/新京から半島人学徒総出陣」の見出しで、新京支社電として次のように伝えている。「新京建国大学に在学中の半島出身学生四十名は十八日までに全員が志願手続きを終え
た」。

 また、前年六月に繰上げ卒業をした一期生の中に志願した人がいた。これは四三年一一月一二日に公布された陸軍省令第五三号で学徒兵有資格者に「昭和十八年九月当該学校を卒業した者を含む」と付け加えられ、既卒者でも志願出来るようにしたためである(*21)。一期生の李用炅(イヨンギョン)(創氏名・平山峰秀)はこの時志願をし、樺太の連隊に所属したようである。樺太第八八師団第二五連隊第四中隊に所属したある日本人は、シベリアのエラブカ九七収容所で平山峯秀という経理少尉に会い帰国まで起居を共にしたと証言している(*22)。実際には、一期生はほとんど志願しなかったようだ。

 こうして建国大学から学徒志願したのは、二期生、三期生、新制三期生、四期生、五期生、それに一期生が確認できる。

 学徒動員で朝鮮人学生が出征した後、残された後輩たちには徴兵制による動員が待っていた。四期生の太仁善(テインソン)は次のように書面で答えてくれた。満洲で徴兵検査を受け、結果は近眼と座骨神経痛のため「第二乙種」であったが、実際には入隊しなかった。「第二乙種」は、「朝鮮では大多数が召集されていたが、私には召集状が来なかった」(*23)。

 四三年一二月、朝鮮人学生たちが学徒兵として入営する直前に、解放区を目指し

て建国大学を出奔した四期生の中国人学生の一人、聶長林(ニェチャンリン)は出奔する前日、朝鮮人の同期生で同塾の金在景(キムジェギョン)とかわした会話について書き残している(*24)。金在景は、自分たち朝鮮人学生も召集されることになった、もし、前線で会うことになっても銃口を自分に向けないでくれと冗談のように言ったという。金在景は徴兵一期生として徴集されたものと思われるが、その後消息不明だという。

 (*19)一九二二年京城府出身。三期生。日韓会談時、駐日代表部公使など。方煕氏のインタビューは二〇〇一年四月、ソウルで行なった。

 (*20)湯治万蔵編『建国大学年表』一九八一年一一月、四五八頁

 (*21)姜徳相、『朝鮮人学徒出陣─もう一つのわだつみのこえ』、岩波書店、一九九七年四月、八〇~八一頁

 (*22)一九九九年四月二一日付書簡

 (*23)二〇〇二年五月一七日付書簡。太仁善は一九二四年京城府出身。元ソウルオリンピック組織委員会専門委員。

 (*24)『幻の学園・建国大学』、八四~八五頁

(2)入営まで

 呉昌禄さんは、その後、志願について親の承諾を得るために一ヶ月ほどソウルへ帰省する。

「結局(志願に対する親の)承諾書は出さなかった。「親に話をしてこい」と塾頭に言われた。戦争に行くと言うだけでも良い、と言われた。

(家で)退屈でオンドルにねそべって本を読んでいたとき、父が「どうして戦争に行くのか」と聞いた。「生きても朝鮮人、死んでも朝鮮人の血」と答えたら、父は驚いてはっと起きた。聞かれたらいけないと、外に出て行かれた。民族精神に目覚めたと思われると危険だと思って。「戦争に行く」と言ったら、父は何も言葉はなかった。それから二~三日して新京へ戻った」。両親は、「どうにも仕方ない、皆、とられるんだから」というあきらめの気持ちだったという。

 大学から戻るようにという呼び出しの電報が届いて新京へ帰ったが、京城駅前では父親の友人が集って壮行会が開かれ、呉昌禄さんは京城から「出征」する形になった。「新聞社が来て撮影した。弟が動いている汽車を追ってきたのを覚えている。お母さんはお父さんと仲が悪くて別居していたので来なかった。だが、後から 手 紙 が 来 て 「 実 は 母 さ ん も 隣 に 来 て い た 。 顔 を 見 せ ず に 見 送 っ た 」 と 書 い てあった。

 襷を懸けられてみんな騒いでいたが、自分は不愉快だった。わけが分からない状態だった。同じ建大生で京畿中学の同級生が五人いたが、一人は平安道の出身だったから三~四人、一緒に同じ列車で行ったと思う」。

 一九四三年一二月一六日には学内で「入営者壮行会(志願による)」が開かれ(*25)、一二月二七日に「第四回前期修了(中略)式並ニ仮卒業(鮮台系特別志願学生)式ヲ挙行」。四四年一月一八日には「特別志願出陣学徒壮行(鮮台系)式ヲ挙行」(*26)してい
る。呉寛用は、当時建国大学の助教授であった黄道淵(ファンドン)(*27)と、すで に 卒 業 し 建 大 で 助 手 と し て 働 い て い た 一 期 生 が お 金 を 出 し て 、 市 内 の 飯 店 で壮行会を開いてくれたと証言した。この時は朝鮮人学生だけが集まったという。

 呉昌禄さんは四四年一月二〇日、新京の独立守備歩兵第七大隊に入営する。「入営は部隊ごとに組に分かれて行った。私は一人だった。学生の服を着て、身の回り品を持って」行った。「塾頭先生に引率されたこと、身体検査を受けたこと、私物所持品は一切取り上げられたことの外は思ひ出せません」(*28)。

 呉昌禄さんは、部隊が満洲から千島列島占守島に移動する途中の船内で幹部候補生試験を受けた。幹部は幹部候補生試験について無関心で、試験を受けさせてくれと申し出ると仕方なく受けさせたという。「船の中で筆記試験を受けた。志願者は日本人、朝鮮人合わせて五~六〇人。半分ちょっとが(甲乙)合格。そのうち、一〇~一三人が朝鮮人でほとんどが建大出の同級生だった(全員甲種合格)」。さらに「犬死にしたくなかった。人知れず、山の中、海の中に放っぽり出されるような死に方はしたくなかった」と、幹部候補生試験受検の心境を語ってくれた。

 (*25)山下光一『塾生日誌』(『建国大学年表』、四六八頁)

 (*26)『康徳十一年度建国大学要覧』、四四頁

 (*27)京都大学経済学部卒。担当学科は「企業経営学」(『康徳十年度建国大学要覧』、五三頁)。解放後は北へ行ったが、その後は行方不明である。

 (*28)「呉昌禄氏書簡」

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◆おわりに

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 樺太留多加(るうたか)の部隊で呉昌禄さんは日本の「敗戦」を迎えた。だが、樺太ではソ連軍が侵攻、「終戦」にはならなかった。まして、呉昌禄さんにとって祖国の「解放」とは遥かに隔てられていた。ソ連軍は、八月二〇日には真岡(現ホルムスク)に上陸。呉昌禄さんのいた第一二中隊は、冒頭で触れたように中隊長の判断で自己武装解除し、部隊を解散させた。部隊員は軍服を脱ぎ民間人となった。樺太部隊に配属されていた他の建国大学卒業生はシベリアに抑留されているものと思われる。

 呉 昌 禄 さ ん が 分 隊 長 を 務 め た 分 隊 に は 朝 鮮 人 が 九 人 い た 。 ソ 連 軍 の 侵 攻 で 中隊が再編成されたときに増えたという。そのうちの三人と行動を共にした。戦後五〇年以上に及ぶサハリンでの生活の始まりであった。

 呉昌禄さんは、樺太に動員されてから永住帰国するまでを振り返って、「本意ならずも日本軍に服務したことが親日派と呼ばれ民族反逆の罪に問はれるかも知れない」という不安と、スターリン時代のソビエト社会での「資本主義日本精神の残滓」に対する追及の厳しさに言及した。「宙に浮べる私には自分の位置付けに苦しんだ。そして迷った。自分にとって学徒兵は何であったのか?果して自分は何者であるのか?罪人なのか?反逆児なのか?虜(トリコ)ならずの虜として而も無期限である」(*29)と悩み続けたのである。

 (*29)「呉昌禄氏書簡」

※この論文は、日本戦没学生記念会機関誌「わだつみのこえ」第140号(2014年7月18日発行)に掲戴されたものを「わだつみのこえ」編集部の承諾を得て、オルタに転戴した。呉昌禄さんの学徒兵体験と建国大学の学徒動員の全体については、北原道子著『北方部隊の朝鮮人兵士─日本陸軍に動員された植民地の若者たち』(現代企画室、二〇一四年三月刊)の第三章に詳しく載せている。全四章構成。

 (筆者は、在日朝鮮人運動史研究会会員)


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