【戦争というもの】戦争というもの(12)

――「戦争は悪」を原点に

羽原 清雅

 「戦争」をどう考えるか。
 成り行き上、やむを得ないものなのか。あるいは、回避する努力が不足しているのか。
 「平和」は努力なしに、維持していけるのか。努力することで、守り抜けるものなのか。
 国家権力は、戦争によるメリットを求め、あるいは攻撃の危機を感じて、過剰防衛的に軍事力に頼るのか。「平和のために」として、戦争への道を求める論理を説いてはいないか。

 民主主義という仕組みは、個々人の考え方を尊重して成り立つ、という。だが、いざ国民全体が難関に立ち向かう事態ともなると、国家なり、自国なりが前面に立って、民意に耳を傾けることもなく、「個人」よりも「国家」を優先させていく。個はもろく、組織・集団が発言力を強めてくる。そして、日ごろの「防衛」に名を借りた「軍備増強」の成果が注目される。徐々に蓄積されてきた対立勢力への嫌悪、憎悪が高まる。そこに戦争がなくならない一因がある。
 こうした状況が進んだ時点で、個々人の「平和」への思いや、それを守る決意が、日ごろどこまで身についているのか、を問われる。「平和」というお題目は、左翼も右翼も、普通の市民も口にする。だが、どこまで「平和」を考え、そのために努力があったのか、それが問われるのは「戦争」の事態に接近したときだが、すでにブレーキはかかりにくい状況になっている。
 平和をのどかに謳歌しているだけでは、「戦争」は回避できない。

 このシリーズでは、11回にわたり、「戦争というもの」をできるだけ広い範囲でとらえてきた。最後に締めくくりとして、戦争を回避する姿勢について考えてみたい。

<1>「戦争は悪」を基点とする理念こそ 戦争は、誰もが求めるわけではない。しかし、ひとたびその方向に進むと、止められない。一部の反対論があっても、ひとたび戦争への傾斜が始まれば、その方向に流されるのが、これまでの史実であり、その傾向は改められてはいない。
 だからこそ、根本的に「戦争は悪」という徹底した風潮をつくらなければならない。「殺人は悪」とする気持ちは多くの人々の道義心にあるように、戦争についても、子どものころからその考えが徹底して身に着けられなければならない。教育の意味は大きい。
 確かに、現行憲法を制定した際に、国民のほとんどは「戦争放棄」の理念を大いに歓迎し、それを守る機運も広がっていった。しかし、今はどうか。イラクを見、米中の関係をさぐり、日本の軍事力拡大などの現象を目の当たりにしてわかるように、憲法制定時の誓いは薄れた。戦争の悲惨さが次第に、若返る国民の胸から遠ざかることで、初心が薄れている。
 だからこそ、不幸、悲惨、非生産的な根源である戦争自体を、「悪」と位置づけ、時代とともに蘇らない教育を幼時から徹底することが必要だ。

<2>戦争による犠牲・悲惨を心に 第2次世界大戦の犠牲は2,000万人を超える。その被害数は、厳密には数え切れていない。日本兵の遺骨は70年が経ついまも、収容されない。一人の犠牲者の家族ら身辺の悲しみ、厳しさは、いまなお癒えていない。犠牲者一人ひとりに、数倍の苦悩が付きまとい、しかもその痛みは数十年、1世紀を超えて持続している。しかも、それは敵対し殺し合った双方に、あるいは巻き込まれた第三者にも及ぶ。
 戦争の痛みが次第に薄れたとしても、今またおのれの身に降りかかる可能性が否定されない以上、この地球上の各地に展開された苦痛を忘れず、わが身に置き換えつつ、戦争の絶滅を考えていきたい。政治、経済、各制度に組み込まれがちな戦争の「気配」に敏感でなければなるまい。
 戦時の際の人的、物的、心的な消耗は、その差こそあれ、敵味方とも同様である。戦後に求められるロスの復旧は、無駄な投資が必要になる。この分だけでも、前向きな投資に使われれば、どれほど社会全体を潤すだろうか。

<3>憎悪のあおりを許さない 近隣諸国、諸民族に対して向けられる憎悪、ヘイトの言葉が、出版物、映像、そして街中の宣伝活動などにあふれ出している。国情、宗教、生活風習、日常の思考、教育の実態といったそれぞれの違いには、違和感が生まれることはありうる。だが、その解釈を、一方的におのれの側が正しいとして攻撃できるものか。しかも、誤解を誘う誇大なアピールは、相手側にも同様の不快感をもたらし、相互理解の道を閉ざし、差別や攻撃の感情を生み、高める。かつて、日本人の間には朝鮮、中国への蔑視的言動が流され、普遍化さえしていった。それぞれの国や民族の特性に目を開かない傾向は、狭く、均質度の高い島国の日本ではとくに注意が必要だ。
 この憎悪の風潮は、対立や確執、あるいは戦乱を生み出す土台になりがちだ。憎みあい、軽侮し、相手の事情や生活環境、国情の違いなどを誤解させることで、火を放てば極めて燃えやすくなり、敵対感情を高揚させる。そうした愚は、戦前すでに経験済みであり、これ以上、井の中の蛙になってはならない。そうした意図を持つ一部のアジテーター・グループの教宣活動に煽られてはなるまい。
 狭隘なナショナリズムは、戦争への準備段階、と言えよう。

<4>危険性は小さな火種にある 戦前、台湾への攻勢は琉球人の殺害事件に始まり、その後の朝鮮や中国では反日行動や独立運動などの抑圧から広がった。盧溝橋事件ばかりではなく、戦火拡大を進めたい軍部の謀略によって引き起こされた仕掛けの事件も多くあった。戦争の発端は、偶発性のものばかりではなく、企まれたものも少なくない。
 最近の韓国軍の戦艦による自衛隊機へのレーダー照射事件にしても、より大きな背景として、慰安婦問題処理のこじれ、日本企業の戦前の賠償問題をめぐる判決、あるいは日本海周辺での漁船の横行など一連の動きがあり、そうした対決的な材料が武力的な波乱の要素を秘めている。一触即発までは行っていないにしても、リスキーではある。
 中国の一方的な海洋埋め立てによる領土拡張など、国際的に無理な行動は、各方面に警戒と不審、さらには応戦といった事態の引き金にもなりかねない。
 双方に配慮が求められ、日本にも沈着な対応が必要だ。同時に、中国包囲網外交の経緯、韓国との外交的接触の乏しさ、北朝鮮との拉致問題を前面に立てての接点喪失などの現状を考えれば、今の外交姿勢でいいのか、と考えざるを得ない。

 韓国と日本の関係はこのところ、悪化する一方だ。韓国側には、歴史教育に目覚めた若い世代の間に、植民地時代の屈辱を思い起こさせる感情がある。外交交渉によって決着がついたとはいっても、経済的に苦しく、教育レベルの低い時代の決着自体に納得がいかなくなることは、どこの国にも生まれ育つ可能性がある。
 そうした時代の変化を見越して、長期的に交流を重ね、侵略した当時の日本側の非を認める謙虚さを示すとともに、双方の異なる文化や意識を互いに理解しうる交流を持つことで、外交的決着後の時間的経過からくる批判や不満を解消する努力が必要だった。侵略という、相手の踏まれた足の痛さを感じないで、かつての外交的決着のみに閉じこもって、「対等」を主張し、「不当」との攻勢をかければ、問題はこじれるばかりだ。政治の不足部分を補う努力を、これまで欠いてはいなかったか。不足した部分はなかったといえるのか。
 日本政府の姿勢のみを信じ、狭い愛国心に固執し、相手の心情に思いを持たなければ、そこに「戦争」につながるナショナリズムが生まれる。戦争の根っこは、芽を吹きやすいものだ。

<5>政治の「大義名分」を疑う 戦争を仕掛けるとき、国家は自らの正当性を主張するために、「大義名分」を考える。国際的な批判を避けるとともに、国内の民意を納得させるためでもある。
 日清戦争は、朝鮮側が清国に国内沈静化を求めたことに対して、「居留民保護」を名目として参戦。日露戦争は、ロシアが満州からの撤兵に応じないことから、朝鮮半島などの「安全保障」を名分に出兵した。満州事変は、柳条湖での軍部の謀略を拡大することで、大義名分の立ちにくい戦闘で始まった。日清、日露、日中戦争いずれも、総じて言える本当の狙いは、大陸への侵出だった。
 「戦争」を仕掛けた戦前の政府、軍部には、敵対感、憎しみの高揚、それに制圧によって獲得できるメリットのアピールなどが目立ち、国際社会の理解を誘う主張はなかった。国家の不正義、無分別、仕掛けの虚偽などが平然と示されて、自己満足のみが目立ち、説得性を欠くものだった。

 では、現代の社会ではどうか。
 トランプ大統領の自国ファースト主義は、国内外に波紋を投じている。おのれの国をまず大切にする――その大義名分は間違いではない。だが、それは大国の腕づくによるところに問題がある。相手側との協議や配慮、妥協や納得などが省略されていないか。強大国として、わが道ばかりを突き進む、そのような国際情勢ではない。
 安倍政治が「戦争」に向かうとは思わない。しかし、トランプ流儀に甘える姿勢は望ましくはない。政治は、自国や支持層にのみアピールできればいいのではなく、むしろ批判層、反対層を切り崩すほどの説明をするべきだろう。安倍政治の「大義名分」はなにか。抽象的な美辞を連ねるが、納得のいく説明責任が果たされないところに、大事に至った場合の日本に不安が残る。日本は、周辺にあるアジア諸国との関わりをもっと強め、相互の理解を高めるといった和平努力が必要だろう。

<6>権力は国民を束ね、支配する 戦前の国家、政府は、意に沿わない国民大衆を各種の法制度で拘束し、戦争という単一方向に向かわせることに全力を投じた。議論などは許さなかった。
 今、民主主義の社会ではどうか。多種多様な議論が交わされ、その集約された意思が、現実に生かされているだろうか。議論の省略、説明の不足、強硬な採決、多数の横暴・・・・そのような国会審議の批判が出る昨今、民主・立憲の姿が保たれているだろうか。
 強大な権力システムは、崩れだすと早いが、その状況で決められた仕組みなどはそう容易には変えられない。民主主義は、広範にものが言える建前なので、その統治のためには国会であれ、企業であれ、自治体、町内会であれ、一部の代表、代行にゆだねることになる。しかし、その代表機能がゆがんで、一部の意見だけの遂行に堕すなら、民主主義から遠ざかる。その点を、常に監視し、邪道への突進を回避しなければならない。だが、それは容易ではない。
 国家権力は、国民の多様な発言を期待しているか。むしろ、さまざまな法制度や運用によって、一定の方向に束ねようとしていないか。うっとうしい多様な民意を、独断的にまとめ、束ねようとしていないだろうか。

 個々人への配慮と尊重――これが本来の民主主義の理想だが、事を素早く、意のままに進めようとすると、民意の確認を欠きがちになる。国家の緊張時には、さらにそれが省略される。
 それは、戦争を招くような事態になると、ますます強烈に発揮される。「個」の尊重こそ、民主主義の根幹であるべきであり、戦争遂行の便利のために「国家」を上位においてはならない。

<7>軍事増強のもたらす不安 戦時下の国家予算には、膨大な軍事費が計上された。軍事費の増大は、軍需産業を潤す。兵器や銃弾などの損壊は、さらなる供給を呼び、再生産を促す。銃後の軍需産業は、自らに犠牲者を出さず、作れば作るほど儲かる。大陸に進出した財閥系の企業が戦前、軍部、政府に密着し、新兵器の開発にも力を注いだ。また、徴兵制度によって戦地に送り出した兵士たちは、コストの低い、単なる消耗品でしかない。
 このような仕組みも戦争を生み出しやすくする。

 そうした政軍財の一体化による戦線の拡大は行きつくところ、日本では731部隊の暴虐を生み、ドイツではヒトラーの独裁と大量虐殺を進め、米国はヒロシマ・ナガサキの新兵器による殺りくを強行した。戦争が進めば、こうした究極の姿をさらけ出す。
 動き出した戦争は止まらない。安倍政権になって軍事予算は膨張し続けて、2019年度予算案は5%を超えた。戦前の国家財政の軍事費からすれば、小さいものだが、戦争放棄を打ち出した日本としては巨額だ。しかも、トランプの要望を入れたかの重装備の新兵器購入である。さらに、敵基地の先制攻撃までが、検討課題にのぼり、攻撃性の高い空母改造が進められる。
 軍備の増強は、周辺国に警戒を招き、それらの国でも軍備の増強に拍車をかけることになる。この軍拡競争は、いつか衝突を招くことにもなりかねず、和平を進めるべき外交交渉に疑心暗鬼を生み、破たんに導くことにもなる。

<8>繰り返される戦争賛美の風潮 子どもたちは、戦争の悲惨さを知らない。むしろ、戦闘機や軍艦などに、カッコいいイメージを持ち、戦争を否定しない。自分自身は参戦しないし、戦闘は見栄えがいい、と思わせる世界にある。だから、戦争をやって、領土を広げ、日本の高揚策はいいじゃないか、となってくる。
 戦前の子どもたちの夢は、軍人になり、国のために死ぬ、といった思考を植え付けられた。美化された戦争礼賛の考え方は、とかくものの見方を狭め、自国ファースト、対立国蔑視の立場を盲信しがちになる。偏狭な愛国心は、長い負の歴史に学ばず、いつしか他国との関係をゆがめ、対立を誘う。
 このような姿勢は、一定の支持層が生まれると、一部のマスメディアはそうした立場を謳歌するように報道し、その傾向に拍車をかける。過去の歴史から都合のいい解釈を拾い出し、威勢のいい一方的な、狭い考え方を鼓吹する。それは、深く考えない階層を捕えることにもなる。国際社会を広く見ようとしない、はき違えた「愛国心」を育てる。
 戦前のメディア、つまり新聞、ラジオ、映画、出版、芸術一般などは、広範に、政府や軍部などの強制、弾圧、懐柔、優遇といったアメとムチの施策につかまり、次第に法律や制度の枠に抱き込まれ、ついにはメディア自体が権力の思考を持ち始めて、国民各層を同じ方向に向かわせた。そのような忘れがたい歴史を持つ。

 メディアの逃れられない「収益」という足かせが、本来の使命を麻痺させ、長いものに巻かれていく。抗うことより、現状に追随する方が楽な道に思えてくるのだ。実際、反権力、理念を貫くことは容易なことではない。いつしか、過去に学ばず、未来を見通さず、狭隘なおのれだけの世界に溺れていく。思考が狭まり、自己弁護と自己正当化の姿勢が強まり、報道人として必要な、将来に待ち受ける歴史的評価への畏怖の念が薄れていく。
 戦前、作家や芸能人たちがこぞって戦地に赴き、文字に、絵画に、詩歌に、映像に、軍歌に、キャッチコピーに、その才覚を生かした現実があった。兵士らの死をたたえ、敵の殺りくをあおり、軍部や政府と共犯関係に溺れたではないか。
 このような事実が「戦争というもの」の、大きな推進力になったことを、メディア、報道関係者は肝に銘じておかなければならない。ペンや映像は、「凶器」の一面を持つ。

 さらに言えば、宗教も怖い。戦争協力、戦意高揚、戦闘推進など、宗派ぐるみで煽った宗教は、神道をはじめキリスト教、仏教、新興宗教など、広い範囲に及ぶ。生命、そして人々の心を貴ぶはずの宗教が、国家権力におもねったケースは少なくない。宗教は、人の心をつかみ、疑う信者は少ないからこそ、宗教の原理原則(教義)は忠実に守られなければならないだろう。
 かなりの昔から、宗教と政治の距離は遠くはなかった。権力に接近して宗派の利害を利する動きや、権力が宗派の信者に取り入るために工作するケースもあった。日本のみならず、世界的に宗教と政治は、時に危険な関係を結んできたが、それは宗教の堕落にほかならない。

<9>責任をとらない戦争遂行者たち 第2次世界大戦の責任者は、一部だけがA級戦犯として処刑されたが、その周辺で扇動した幹部らの多くや、憲兵、特高などの直接的な弾圧者は、一時的な拘束や失職はあったが、次に試みられた朝鮮戦争を機に大量に社会復帰し、新時代を創りだすはずの舞台に蘇った。あれだけの犠牲者や被害を出しながら、戦争が国民総がかりの集団的な動向であったことで十分な責任をとることなく、放置された。

 本来なら、リーダーらの責任を問うだけではなく、戦争を謳歌、順応した国民たちも責任を負わなければならない。身辺に犠牲を抱えたことで、戦争責任を担ったということかもしれず、その点では戦争遂行者の一群とは異なるのかもしれない。だが、戦争追随の責任は問われよう。
 戦争遂行責任者らは、自らの直接の手による殺りくには加担していない。だが、指揮命令を出して、国民を犠牲に追い込んだ責任は重い。その人々が再出発した日本の首相や閣僚、国会議員などの任務につくこと自体、おかしくはないか。この点は、不快で許し難く、いまも納得がいかないでいる。

<10>「徴兵制」を布いた国家は戦争の犠牲を償ったか 戦争は多くの痛みを残し、悲しみと苦行を強いた。その苦痛はさまざまであり、複雑であり、救済策も分散の方向にある。そのような状況が、戦争の国家責任が果たされない、ひとつの背景になってもいる。それに、経済は復興できても、人の心に受けた傷は、いつまでも消えないということに気付かない統治者が多すぎる。戦争犠牲者の救済は、戦後ただちに、また被害、損害の多様な局面に対して、取り組まなければならないことだが、そうした要求が弱く、見えにくいものは黙視されてしまう。
 そのような国家の責任処理の甘えが続くと、戦争再開の火種がくすぶり始める。

 具体的に話を進めよう。終戦直後、生存して引き揚げてきた兵士、身障者、その遺家族らに対してはまず、遺族会や旧軍人団体などの活動で生活費などの救援があった。
 その一方で、原爆被害者の一部は指定の被災地外にいたことで、いまだに救済されずに、やがて訪れる死を待っている。遺骨の収集に至らないままに放置された兵士の遺家族はいまも悲しみを抱き続ける。家屋の強制疎開にあった者、空襲被害を受けた者は、訴訟を起こし続けている。シベリアなどの墓地の荒廃にも手を付けようとせず、外交交渉も極めて不十分のままで、その怒りも収まっていない。
 財政難、異なる多様な被害状況、救済したくても資金が不足、制度のむずかしさの障害など、難しさはいろいろ横たわる。だが、それを理由として、対応を逃れ続けてきたのではないか。1960年ころからの日本経済の復調ぶりを見れば、もっともっと戦争の尻拭いができたはずだ。時代の変化と、戦争の犠牲の多様さにかまけて、国民に対する国家責任を果たさず、戦争の後始末を怠ってきた。

 戦争に指向し、徴兵制度という戦争に駆り出す仕組みを打ち出したのは、ほかならない国家権力によるものだった。ある部分では、戦争に流された国民の責任が問われるべきだが、国家の名において動員をかけ、死に至る戦闘に向かわせ、家族たちに不幸をもたらしたのは、まさに「国家権力」だった以上、戦争被害のすべてを国家の責任において救済しなければならない。どこかの女性の国会議員は、自分たちの時代のことではない、と過去の責任について放棄するかの発言をしていたが、戦後の国家の責任者は同じように「戦争の始末」という優先すべき宿題に十分な取り組みを見せなかった。

 帰還できた遺骨を靖国神社に託すだけで、国家の責任を果たしたというのは、いかにも姑息である。仮に靖国神社に祀ることで心の安らぎを遺家族に与えたとしても、心から取り戻したいのは生きた夫であり、子どもであり、父であったはずだ。靖国に抱かれる満足があるにしても、それは一種の心のまやかしやあきらめなのだ。
 このように後継者である戦後の国家責任者は、過去に戦争を遂行した者たちの責任を背負おうとしない。国家としての継続性を無視して、国家は成り立つというのか。誤った道を選んだ国家の責任は、それを押し付けられた国民一人ひとりが背負わなければならないのか。
 その取りこぼしてきた諸問題は、いまだに人々を苦しめ続ける。そして、為政者たちは70余年後の今も、「平和と安定」などと口にしながら、軍備の拡張など新たな危機を生みかねない装置を築きつつある。

 「戦争というもの」はいまも、矛盾のなかに生き続けている。

 (元朝日新聞政治部長)

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