【追悼】松下圭一氏を悼む

50年教えてもらえて幸運
私を支えてくれたバックボーンの存在でした

浜谷 惇


 突然、松下圭一先生の「訃報」に接することになりました。5月12日朝刊の記事です。すぐに先生と親交の深い友人の神原勝(北海道大学名誉教授)さんに電話を入れ、先生が6日にご逝去されたことや自宅療養時のご様子、後日に開かれる「お別れの会」のことをうかがいながら、悲しみのなか、なつかしい思い出が走馬燈のようによみがえっていました。

 私と松下先生との出会いは1964年、東京オリンピックが開催された秋のことです。当時、社会党機関紙局は、企業や公務員と同様の完全公募方式による『社会新報』記者の採用試験を実施したことがあり、その面接の席でした。面接官をされていた先生は、「宇野経済学の三段階論」や「科学とイデオロギーの分離」について問われ、私が珍妙な受け答えをして以来、後々までお付き合いいただくことができました。先生の存在は私を支えてくれたバックボーンでした。

 採用内定が決まり、校正のアルバイトに行くようになり、そこで先生が『社会新報』編集長に就任される予定だ、とお聞きし、夢が膨らんだことを覚えていいます。そのころ先生から、運動や理論、政策も大事なことだが、記者として先ず基本的に必要な「技術を身につけるように」と教えられたことをおもい出します。残念なことに先生は社会党の党内事情から編集長に就任されることはありませんでした。

 先生は1960年代後半から、学問のみならず地方自治体の場で市民自治を牽引されましたが、すでに社会党とは距離を置き、遠くからきびしい発言を貫かれるようになられていました。私が教えを請おうとご連絡をさせていただいても、電話ではアドバイスしてくれますが、一度だけの例外を除いて決して会ってはいただけませんでした。私が『社会新報』記者から地方政治局、政策審議会に移ってからも同様でした。社会党との付き合いは「もうよそう」ということだったとおもいます。

 そのころ松下先生は、朝日新聞に寄稿された論文で次のように語っておられました。
 「革新政党ないし革新理論の主流も、福祉は革新性をうしなわせるための労働者階級の買収にすぎず、分権の提起は体制権力を無視すると批判していたのである。その後、この福祉についで分権は、市民運動の激発、革新自治体の群生というショックのもとでようやく革新政党はとりあげたが、やはり定着しきれず、今日では政府文書に登場するにいたった。」(1979年8月30日)
 先見性と知性を失った社会党にたいする痛烈な批判でした。仮に「もしも」が許されるなら、社会党が60年安保後に見せた先見性のある路線論争を活かせていたならば、その後の社会党は、先生から「20周遅れて先頭を走っている」などとお叱りを受けなくてすんだかもしれません。

 先生は、研究者、教育者、そして実践者として市民自治の確立をめざして、誰もが知るとおり、認めるとおり、数々の実績をあげてこられました。
 その後私は、1996年10月に社会党政策審議会を退職し、同年11月から(一社)生活経済政策研究所(旧平和経済計画会議)に勤務することになりましたので、そのごあいさつのお電話をさし上げましたところ、快く「一献やろう」と言ってくださいました。以後ときどきお会いして、90年代連立政権についてコメントしていただいたり、先生が90年代末に相次いで発刊された『自治体は変わるか』、『政治・行政の考え方』(ともに岩波新書)について教えていただいたり、歓談することができました。もうかなり遅い時間になっているにもかかわらず、「もう一軒だけ寄っていこうか」と、酒のあまり飲めない私を誘ってくれたことも何度かありました。

 あれから50年、私は松下先生から多くのことを教えていただくことができて、とても幸運でした。まだ、私が30歳前後のころ先生から「浜谷君、たたかっているか」と発破をかけらたものです。その声が今にも聞こえてくるようにおもえます。ありがとうございました。 合掌

 (生活経済政策研究所参与)


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