■【河上民雄20世紀の回想】(6)        河上 民雄

河上丈太郎論(1)

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本稿は2010年5月26日に実施された河上民雄氏(元衆議院議員・元日本社会党国
際局長)へのインタビューを岡田一郎が再構成したものである。5月26日のイン
タビューには加藤宣幸氏・木下真志氏および岡田が参加した。

◇質問:これから2~3回にかけて、河上先生のお父様でいらっしゃいます、河上
丈太郎先生についてうかがいたいと思います。今月は河上丈太郎先生の生涯につ
いて、来月以降は、現代政治における河上丈太郎先生の思想と行動の意義につい
てお尋ねしようと思います。そう言えば、ちょうど50年前の今頃、河上丈太郎先
生が右翼青年に襲われ重傷を負うという事件(1960(昭和35)年6月17日)が起
きていますね。

●河上:父は江戸っ子だったので、騒いだら恥だという気持ちがあったのか、決
して「痛い」などとは言いませんでした。しかし、実際はかなりの重傷でした。
後でまた話すことになると思いますが、安保闘争の他にも、民社党の結成があっ
たり、委員長選挙で浅沼稲次郎氏と争うことになったり、1960年は父の生涯の中
でも最も苦しい年の1つであったと思います。

◇質問:先ほど、先生は河上丈太郎先生が江戸っ子とおっしゃっていましたが、
河上先生のご実家は代々、東京に住んでおられたのでしょうか。

●河上:遠い先祖のことはわかりませんが、恐らく江戸の下町(現在の東京の港
区愛宕山のあたり)で暮らした庶民だったと思われます。私の祖父にあたる新太
郎は、ペリー来航で知られる1853(嘉永6)年に生まれ、若くして大工の修業を
し、明治になってから大工の棟梁をしていましたが、やがて材木商に転じました。
父は新太郎の長男として1889(明治22)年1月3日、東京都港区芝に生まれまし
た。この年は大日本帝国憲法が発布された年であり、翌年には第1回帝国議会が
開かれています。

◇質問:河上丈太郎先生が社会主義者となったきっかけはどのようなものだった
のでしょうか。

●河上:父が立教中学に通っていたころまでに『万朝報(よろずちょうほう)』
の愛読者で、父はそこに掲載された非戦論に強い影響を受けていました。修学旅
行の際に、父は朝早く家を出たため新聞を読む暇がなく、両国駅で万朝報を買っ
たところ、その日の紙上に内村鑑三・幸徳秋水・堺利彦三人の「退社の辞」が載
っていました。それまで非戦論を社是としてきた『万朝報』が日露戦争を前にし
て、一転、開戦論に転じたことに抗議しての辞任でした。この記事に衝撃を受け
たことが社会主義思想に接近するきっかけであったと父は後に回想しています。

1901(明治34)年に結成され、わずか2日で結社禁止になった社会民主党の創設
者6人のうち5人がキリスト教信者であったことからもうかがえるように、明治時
代の社会主義はキリスト教と親和性を持っていました。父は祖父の影響を受けて、
幼い頃から深くキリスト教を信仰しておりましたので、社会主義思想に対する
抵抗感も少なかったのではないかと思います。一高時代同級生だった河合栄治郎
氏の日記に「河上君より内村鑑三の本を借りて読む」という記述が再三出てくる
ことを、河合氏の令息・河合武氏から聞いたことがあります。

◇質問:河上丈太郎先生と言えば、第一高等学校時代に、徳冨蘆花に「謀叛(む
ほん)論」を講演させたことで有名です。そのエピソードを詳しくお教えくださ
い。

●河上:父は第一高等学校では弁論部に所属していました。弁論部では上級生が
務める弁論部委員が卒業する年に有名人に講演を頼むという決まりがあり、弁論
部委員だった父は当時、有名な小説家であった徳冨蘆花に講演を依頼することを
決め、同じく弁論部委員だった鈴木憲三氏と共に蘆花邸を訪れました。このとき、
蘆花は大逆事件の判決に憤懣やるかたない気持ちを抱いており、自分の怒りを
どこかで話したいと思っていました。

そこへ一高生が講演の依頼に来たので、自分の気持ちを一高の講演で述べること
とし、父と鈴木氏に「謀叛論」の題を与えました。謀叛論が大逆事件のことを指
すのは誰が見ても明らかでした。学校に事前に講演の演題を伝えれば、講演は中
止になることが目に見えていました。そこで学校には「演題未定」と報告し、会
場の演題と弁士を示す掲示の紙にも「演題未定」と記しておきました。そして父
から直接聞いたところによれば、蘆花が登壇する直前に父はその紙を引き摺り下
ろし、その下には「謀叛論=徳冨蘆花」と書かれた紙がかかっていたのです。蘆
花はこの講演で極刑になった幸徳秋水らを弁護し、「謀叛を恐れてはならぬ。新
しきものは常に謀叛である」と訴え、会場の学生に深い感銘を与えたと言われて
います。
  なお、父と一緒に蘆花に講演を依頼した鈴木氏が若くして亡くなったため、父
と共に蘆花に講演を依頼した学生が、父と同期で弁論部委員を務めていた河合栄
治郎氏としている書物がありますが、明らかに間違いです。また、森戸辰男氏が
父の没後、「先輩として同行した」「先輩として先導した」などと晩年の回想で
主張されましたが、蘆花夫人の日記には「一高生二名」と記されており、二名と
は明らかに父と鈴木氏ですから、森戸氏の主張は先生の記憶違いではないかと思
われます。なお、鈴木憲三氏は東京帝国大学法学部法律学科を卒業後、大正半ば
から昭和初頭にかけて東京で弁護士として活躍しますが、郷里(小田原)に戻っ
て1929(昭和4)年に病死したことが最近になって判ってきました。

◇質問:河上丈太郎先生は政治家になる前に大学で教鞭をとっておられます。河
上丈太郎先生が大学教授となった経緯についてお教えください。

●河上:父は東京帝国大学法学部政治学科を卒業しています。この学科は当時は
官吏養成コースとでもいうべき学科であり、卒業生には様々な省庁のポストが用
意されていました。父にも朝鮮総督府にポストが用意されましたが、父はこれを
断って立教大学の講師となりました。父はかねてから「自分は生涯サーベルをつ
ける仕事にはつかない」という誓いをたてていました。ところが、当時の朝鮮総
督府は武断政治をおこなっており、武官だけでなく文官でもサーベルを身につけ
ていました。そのため、父は朝鮮総督府のポストを辞退し、立教大学の講師とな
ったのです。

しばらくして、同僚が関西学院に赴任することになったのですが、その同僚の先
生と一緒に関西学院に行く方が急に赴任できなくなり、急遽、父に白羽の矢がた
てられ、神戸に赴任することになりました。関西学院では情熱的な教師として知
られ、現在の社会学部の前身である社会学科の創設に尽力しています。しかし、
普通選挙の導入の可能性がささやかれるようになると、父は政治家となることを
決意するようになります。

それがうかがえるのが、父が東京帝国大学法学部法律学科に学士入学し、1922(
大正11)年6月に卒業していることです。当時、帝国大学の法律学科を卒業した者
には全員、弁護士資格が与えられていました。父は政治家となった場合、大学教
授との両立は不可能と考え、政治家と両立できる弁護士の資格をとろうと法律学
科に学士入学したのだと思います。もちろん、大衆のために闘うためにも弁護士
になることが必要と考えていたに違いありません。

◇質問:河上丈太郎先生の政治家としての活動は戦前はどのようなものだったの
でしょうか。

●河上:父は1928(昭和3)年の総選挙で当選し、8人の無産党議員の1人となり
ました。その8人とは社会民衆党(安部磯雄、鈴木文治、西尾末広、亀井貫一郎)、
労農党(山本宣治、水谷長三郎)、日労党(河上丈太郎)、地方無産党(浅原健
三)です。父が初めて総選挙に立候補したときは、選挙の様子を毎日、東京
にいる祖父に伝えていたのですが、それを聞いた祖父が「保守党は買収と戸別訪
問で票を集めているが、息子は演説だけで票を集めているのは偉い」と日記に書
いています。祖父は大工の棟梁をしていたこともあって、地元の政治家の相談に
のることも多く、そのため、選挙では金を使うのが当然だと思っていました。

そこで、自分の息子が全く金を使わずに選挙をおこなったことが新鮮な驚きだっ
たようです。しかし、1930(昭和5)年・1932(昭和7)年の総選挙では落選して
しまいました。1930年総選挙で落選したとき、祖父は父に「10821人の支持を喜
べ 父母」という電報を打ちました。祖父の電報に勇気づけられた父は、落選報
告の演説会を開き、2回の演説会で獲得票数以上の聴衆が集まったと言われてい
ます。しかし、その次の選挙でも落選し、さすがの父も意気消沈したのか、1936
(昭和11)年の総選挙には立候補の届出を出しませんでした。しかし、支持者が
勝手に立候補届けを出したために選挙活動をおこなったところ当選し、国会に返
り咲くことが出来ました。

この選挙では、それまで離合集散を繰り返した無産政党が一つになった社会大衆
党が18議席を獲得し、それまで1桁台にとどまっていた無産党の代議士が一気に
増えました。次の1937(昭和12)年総選挙では、さらに無産党代議士を増やそう
と、神戸では父の他に永江一夫氏が社会大衆党から立候補しました。当時の選挙
用のちらしを見ると、神戸市が2つに分けられ、父と永江氏とで票割をしていた
ことがわかります。票割はかなり正確におこなわれ、数百票の誤差しか生じなか
ったそうです。当時の候補者と支持者がいかに気持ちが一体であったかがわかり
ます。

1937年の選挙では社会大衆党は38議席に躍進し、得票数(25才以上の男子のみ)
が100万票に近くなります。しかし、この総選挙の直後に盧溝橋事件(7月7日)
がおこり、当時の呼び方によれば支那事変に突入、国内は戦時体制に入ります。
父の政治生命は1940(昭和15)年に社会大衆党の解散、そして大政翼賛会が創設
されるころから暗転します。大政翼賛会創設に積極的だった麻生久氏が翼賛会創
設直前に死去し、代わりに父がやむなく大政翼賛会総務の地位を引き受けたため、
父は戦後、公職から追放され、1951(昭和26)年に追放が解除されるまで、選
挙に立候補することを許されませんでした。それでも選挙のたびに神戸では「河
上丈太郎」と書かれた無効票が出てきたそうです。

◇質問:公職追放時代の河上丈太郎先生の様子と戦後、河上丈太郎先生がどのよ
うに政界に復帰していったのかをお知らせください。

●河上:公職追放時代、父は弁護士の仕事に専念し、美村貞夫弁護士と河上美村
法律事務所を開き、家では専ら聖書と漢籍を読んでいました。そこから戦後の父
の思想というか戦略のヒントを得たのだと思います。たとえば、父が1952(昭和
27)年に右派社会党の委員長を受諾したときの演説、いわゆる十字架演説には聖
書の影響がうかがえます。有名な「委員長は私にとって十字架であります。しか
しながら十字架を負うて死に至るまで闘うべきことを私は決意したのであります
」の一節は聖書の「わたしについて来たい者は、自分を捨て、自分の十字架を背
負って、わたしに従いなさい。」という一節(例えばマタイ16章)に由来してい
ます。

また、演説には「諸君、河上のもとに諸君がつくのではなく、諸君の後に私がつ
いて行く態勢こそ、真の正しい態勢であることを深く信じるものであります」と
いう一節がありますが、それも聖書の「いちばん先になりたい者は、すべての人
の後になり、」「あなたがたの中で偉くなりたい者は、皆に仕える者になり」と
いう一節(マルコ9~10章)に由来しています。

ちなみに、「十字架を背負う」の部分では代議員席から万雷の拍手が起こりまし
たが、「諸君の後に私がついて行く」という部分では代議員の皆さんが拍子抜け
というか、がっくりしたような感じになっていたのを覚えています。おそらく、
父が「私の後について来い」と言うのを皆さんは期待していたのだと思います。

また、父は『老子』の「無為にして化す」――「何も策を講じなくても存在する
だけで自然に人を感化する」という意味に受けとって――この言葉を座右の銘と
していました。このような境地に至ったのも公職追放時代の読書の影響があった
と思われます。
 
父は1951年の日本社会党の分裂を非常に嘆いており、なんとか再統一を実現した
いと思っていました。そのため、1955(昭和30)年に社会党が再統一した際には、
自分のポストは一切求めず、鈴木茂三郎委員長・浅沼稲次郎書記長の体制を受
け入れました。父のために最高顧問のポストを作ろうという動きもあったようで
すが、父は「人のためにポストを作るのは良くない」とこれを辞退しました。
 
しかし、再統一後、約10年続いた昭和電工疑獄事件の裁判で西尾末広氏の無罪が
確定(1958(昭和33)年12月)すると、それまで政治的な言動を慎んできた西尾
氏が公然と政治的発言をおこなうようになり、それが左派の反発を招いて、西尾
氏の除名を求める声が社会党内で沸き起こってきます。父は西尾氏の除名に反対
する演説を党大会でおこない、除名は回避されますが、西尾氏は統制委員会に付
されることとなってしまいました。

これを不満に思った西尾氏は右派の一部の議員を引き連れて1960年1月に民社
党を結成します。河上派の中にも五月雨式に民社党に移る者が出始め、河上派は
危機にたたされました。河上派からの離脱者をこれ以上出さないため、父は委員長
選挙に立候補することを決意します。

左派は父の後輩とも言うべき浅沼氏を候補に担ぎ出しており、父としては委員長
選挙への立候補は望むところではなかったでしょうが、それ以外に河上派の結束
を固める方法は見出せなかったのです。現に父が委員長選挙で浅沼氏に19票差で
敗れた時、浅沼氏にすぐさま近寄り、握手を求め、大会場が万雷の拍手に包まれ、
一部にこの選挙の結果の発表を機に一斉退場の噂もありましたが、大会以後、
中央、地方を問わず、それまで続いた五月雨脱党はぴたりと止まります。河上派
から離党する議員はいなくなりました。
 
なお、このころ、総評議長の太田薫氏が父に「次回の選挙では河上派を支援する
」と持ちかけて、社会党の分裂を防いだという話がありますが、誤りです。確か
に太田氏は議員会館の父の部屋までやって来てそのような話を持ちかけましたが、
父はそれを聞いて烈火のごとく怒り「自分たちは損得のためにやっているので
はない」と太田氏を追い出してしまったと、そのとき父のそばで同席した党本部
書記の瀬尾忠博氏が証言しています。しかし、太田氏も何も出来なかったと言う
わけにはいかないので、河上派を支援して社会党の分裂を防いだという話をあち
こちでしているようです。

全逓の宝樹文彦氏も「1960年の総選挙では、総評が総評系候補者・五島虎雄氏を
切り捨て、河上氏を支援したので、河上氏はトップ当選したが、同じ選挙区の社
会党候補の五島氏はそのあおりで最下位でギリギリ当選した」などと言っていま
す。しかし、選挙結果を見ればわかりますが、父がトップで、五島氏は2位で当
選しています。当時、神戸は3人区にもかかわらず1955年から1965(昭和40)年
まで約10年間、社会党は2議席を常に確保していました。それが可能だったのは、
労組票は五島氏にまわし、父は一般市民の票のみで、選挙を戦っていたからで
す。父が総評の支援を受ける必要はまったくなかったのです。
 
浅沼氏が暗殺されたあと、総選挙は江田三郎書記長が委員長代行で乗り切り、翌
1961(昭和36)年2月父が社会党の委員長に就任しましたが、委員長在職中の196
5年1月に、父はくも膜下出血で倒れてしまいました。側近の議員は「現職のまま
死なせてあげたい」と思っていたようですが、6月には参議院議員選挙が予定さ
れており、「参議院議員選挙2~3ヶ月前に父が委員長をやめないと党に迷惑をか
ける。それは父の本意ではない」と考えた私は、周囲に諮ることなく半ばクーデ
ター的に父の辞表を成田知巳書記長に提出しました。成田氏はもしかしたら父の
辞表を握りつぶすつもりだったのかもしれませんが、NHKが父の委員長辞任を速
報で流したため、他社の記者が成田氏のもとに殺到し、やむなく成田氏は記者た
ちに対して、胸ポケットにいれていた父の辞表を公開しました。こうして、父の
委員長辞任が決定したのです。父がこの世を去ったのは、その年の12月3日のこ
とです。

◇質問:河上丈太郎先生に関するエピソードで他に触れておきたいというものが
ございましたら、お教えください。

●河上:昭和電工疑獄事件で西尾氏の主任弁護人をつとめたのは三輪寿壮氏です
が、1956(昭和31)年に三輪氏が亡くなると、父が主任弁護人となりました。そ
のため、西尾氏に対する政治献金の流れなど、西尾氏のかなり重要な個人情報を
父は知ることになりました。もしも、父が知りえた情報をうっかり洩らせば、西
尾氏は政治的にかなり苦しい立場に追い詰められることになったかもしれません
が、父は弁護士としての守秘義務を守り、また、政治家として取るべき態度とし
て生涯、口外することはありませんでした。

慶應義塾大学の中村菊男教授が西尾氏に「なぜ同じ社民系の片山哲氏ではなく、
政治的にはライバル関係にあった日労系の三輪氏や河上氏に弁護を依頼したのか」
とインタビューしたことがあります。そのとき西尾氏は「片山氏は自分だけが
きれいであればそれでいいという性格であるが、河上氏は清濁併せ呑む性格であ
ったから」と答えたといいます。世間は西尾氏無罪のときの主任弁護人が河上で
あったことに殆ど気づいていません。
 
1983(昭和58)年に私が妻と訪中したとき、中国共産党の長老・趙安博氏とお話
しする機会がありました。趙氏は一高への留学経験があり、日本共産党の幹部が
中国に亡命していたときには、その世話係を務めた知日派でした。趙氏は私と話
していたときに、突然卓を叩いて激高し、「安保のとき、あなたのお父さんは刺
され危うく死にそうになったし、浅沼さんは殺された」「そのときに、宮本(顕
治)や野坂(参三)はどこにいた」と叫びました。

突然そんなことを言われてもどう返答すればよいのか困ってしまったことを覚
えています。しかし、よく考えると、父にしても浅沼氏にしても共に日労系の人
間であったということは興味深いことだと思います。日労系である2人が安保闘
争で最も危険にさらされたという事実は、難しい理論を構築するよりも先に大衆
の中に飛び込んでいくことを優先するという日労系の特徴を体現したものであっ
たと考えられるからです。(了)

        (元衆議院議員・元日本社会党国際局長・東海大学名誉教授)

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