■落穂拾記(10)
 

7回忌の松野頼三 言行録から見る歴代首相像                    羽原 清雅

  
───────────────────────────────────

  自民党で「寝業師」「策士」「語り部」「はぐれカラス」などといわれた松野
頼三(1917~2006)の7回忌が5月10日に開かれた。故人を知る政治
記者、元秘書を含め30人足らずが集まり、妙ではあるが明るく、にぎやかに往
年の話題を楽しんだ。

 保利茂、橋本登美三郎らとともに佐藤派の五奉行として政権中枢を歩き、福田
赳夫や保利らとたもとを分って少数派の三木武夫政権を支え、また岸信介に近か
ったことからダグラス・グラマン疑惑を招いて議員を辞職するなど、話題の多い
政治家だった。
 
  政治記者としては、彼の政治状況や政局、政治家に対する「読み」や分析は、
長く枢要な地位にいたこともあって核心をつくことが多いので見逃せず、トクダ
ネをとる意識ではなく、その見方をなにかにつけて聞いておきたいものがあった。
 
  昨今の政治家は、新聞記者たちと親しく会話を交すことは少なくなっているが、
松野は記者たちをかなりおおらかに受け入れた。記者たちのさまざまな情報を聞
くことで、判断の材料にしていたのだろうが、その「読み」には独特のものがあ
り、記者たちにはいい勉強になり、政治を見る目を肥やしてくれた。

 彼が亡くなって1周忌の2007年、彼が生前に話したことのみを時系列にま
とめて「政界六〇年 松野頼三」(文藝春秋企画部刊)という本を編纂した。追
悼集や伝記のような筆者や編者の主観が混じるものではないので、彼の持ち味が
かなりはっきり見えてくる。それに編者が言うのも変であるが、なによりも面白
いのだ。

 彼の語った歴代の首相の印象や内情などは、とりわけ面白い。吉田から小泉ま
でを紹介してみよう。

●吉田 茂 「吉田さんほど、これくらい下手な人はいない。・・・・(マッカ
ーサーから電話が来て)総理の英語はずいぶん少ないですね、と言ったら、『そ
れはおまえ、ペラペラしゃべる英語は通訳英語だ。おれの英語は価値ある言葉を
ひとこといえばいい。だれが一番偉いと思う。天皇陛下だ。『ああそう』としか
おっしゃらない』。」

●鳩山一郎 「私の父(松野鶴平参院議長)は鳩山と同志の政治家で、私は吉田
の秘書官で育った男だから、鳩山さんを尊敬はするけれど、行動は共にできない。
吉田さんと行動する。おやじになると、それが逆でしたね。鳩山が七で吉田が三、
私が吉田が七で鳩山が三でしょうね。」

●岸 信介 「岸さんは超弩級の怪物、吉田さんは、実績における大政治家だ。」
「(グラマン疑惑について)私はなるべく岸さんの話はしたくなかった。ルート
はそこだけれど、それをやると、人を巻き込むことになる。私は岸さんのところ
が一番大きな舞台とわかっているけれど、それを出したら駄目、大変だと思って、
わたしは一切、ひとことも岸という名前は出さない。」

●池田勇人 「池田さんが私の『政策の師』であるとすれば、佐藤さんは『保守
党人』としての生き方を教えてくれた人だ。」
「池田というのは、私は、その手腕には好感を持つが、人間がきらいだ。目の前
で人を罵倒したりそういうことを見ていると、この男はいやだな、逆の立場に立
ちたくないなと思う。」

●佐藤栄作 「(1962年、松野は佐藤栄作とアメリカを旅行する)あの時の
10日ばかりの旅行で非常に人間佐藤を知るし、お互いに胸襟を開いた。やはり
佐藤というのは、堅い男でした。養子に選ばれるような人でしたね。規格を破れ
ない人だ。だから、改革はできない人でしょうね。改善はできるけれど、改革は
できない人だ。やはり規格が常に念頭にありますね。岸のほうが国を壊した。も
っと大胆だ。」
      
  「(防衛庁長官就任のとき、佐藤首相が)『どうしても椅子が1つ足りない。
1回(入閣を)待ってくれ』という。即座に『いやだ』と断った。『いやだって
何だ』と佐藤さんは目をむいたが、『佐藤内閣の第1回目(の入閣)になるから
価値があるんだ。椅子がどこだなんてことは言わない。どこでもいい。・・・・
2回目、3回目という出がらしみたいのならやらなくていい』と言うだけ言った
が、総理は黙っていた。こっちは立ったまま。しばらくして、『わかった。もう
いいよ。帰れ』と大きな声で言う。『うまくいったな』と思った。」
 
・田中角栄 「(吉田茂が総裁の自由党に、民主党脱党の幣原喜重郎グループが
合流し、民自党が発足、そのメンバーに田中がおり、吉田内閣の法務政務次官に
抜擢された)その田中は、私と同じ当選一回、しかも新参者だ。自由党子飼いの
若手議員は面白くない。・・・・あとで聞くと、日本進歩党(後に民主党)幣原
派の政治資金は、田中が仕切っていたということだった。」
      
  「幣原さんたちの同志クラブ14人が、僕たち自由党と合流して民自党になっ
た際、田中が『入党あいさつ』と言って30万円持ってきた。僕はその金を受け
取らなかった。借りをつくりたくなかったし、当時から彼にはカネにまつわるい
ろんな話が出てたからね。しかし、これが田中と終生しっくりいかなかった一因
になったのは間違いない。『君とは交際しない』と言ったようなもんだからね。」

 「(ロッキード事件での田中逮捕について)私は逮捕と言うことを聞いたとき
は、もう有罪だと思った。逮捕で無罪ということはありえない。わたしがうすう
す考えたのは、田中が(首相を)辞めた後でしょうね。辞め方のあわただしかっ
たこと。粘らなかったですからね。自分で辞めましたからね。何かあると思った。
本人が一番早く感じたんでしょうね。」
 
●三木武夫 「(椎名裁定について)あのときの4人(福田、大平、三木、中曽
根)は露骨だった。佐藤はしかし知っていましたね。私は佐藤に『どうも噂では
三木という話があるけれど、三木じゃひどいよ、福田じゃなければ』と言ったら、
『まあ、松野、任せたらもう触るな。任せたのにいちいち言うと男らしくないぞ。
どうなってもいいじゃないか。しょうがない、任せたんだから』と言った。・・・
佐藤は前の日に三木だということを知っていましたね。」
      
  「裁定後、椎名は僕に言った。『(首班が)福田なら田中角栄に近い大平が敵
意を持つ。中曽根はまだ早いし力もない。三木は派閥は小さいが、政治経験が豊
富で3人を包括できる。4人をまとめるには、これ以外にない』とね。結局、消
去法で三木になったわけだ。」
      
  「佐藤内閣では、三木さんとは敵、味方の関係で、キザッたらしい、憎たらし
い政治家だと思っていたが、言うことは近代的なことを言う。池田(勇人)さん
が財政論で数字を駆使して我々をトリコにさせた。松村(謙三)さんが日中で我
々に火をつけた。同じように三木さんは、政党政治の未来の虹を思わせた。政策
理論でなく、政治理論で聞かせた。」
      
  「三木さんは、好きでも、嫌いでもない政治家だった。『思想、政策がちょっ
と左がかってる』『きれいごとばかり言う』という印象だったね。後で三木さん
に僕のことを聞いたら、『小理屈を言う男。うるさいやつ』と思っていたらしい。
ところが実際に三木さんに接すると、案外純粋なんだ。私利私欲がない。派閥の
議員に盆、暮れに配る金も少ない。」
      
  「そのうちにすっかり洗脳されちゃった。かつてそれまで政党政治をこんなに
熱心に口説かれたことはないと思う。そのうちに自然に三木の考えが入ってくる。
それで考えが福田(赳夫)と離れてしまう。」
  「(三木おろしに対抗して衆院解散をもくろんだ際に)河本(敏夫、三木派幹
部で当時三光汽船オーナー)が40億用意したらしい。実際、それだけ用意した
んだ。河本が用意した。それで党に5億あるから、45億。」

●福田赳夫 「福田というのは、私とずっと長く一緒にいたから、三木の問題以
外なら福田赳夫は好きだったんです。」
  「(ロッキード事件での田中逮捕について、政調会長の松野は)私は本当に知
らなかった。・・・・福田がそのことをずっと言う。『松野、おまえは知ってい
てなぜ俺に言わなかった。また三木も、俺は副総理なのに俺に言わなかった』と
言う。そのことが福田・三木の争いのスタートになる。」 
      
  「(三木おろしの始まるころ)大喧嘩をしましたけどね、福田と。・・・・
『なんだ君は』『お前は何だ。何が悪いんだ』といって、お互いに1時間ぐらい
罵りあうからね。・・・・この喧嘩の後、渡海元三郎(福田派)が来ましてね。
私がうろ覚えの百人一首を書いた。『瀬をはやみ 岩にせかるる滝川の われて
も末に逢わむとぞ思ふ』。それを紙に書いて渡海に渡し、福田にもたせてやった
のを覚えています。それは妙なもので、政治はなかなか取り返しがつかないけれ
ども、友情は取り返せる。暦は取り返せない、友情は取り返せるということがわ
かって、その後は福田と非常に仲良くなった。」
 
●大平正芳 「大平の時は何もしない。干されっ放し。大平に頭を下げる気もな
いし。大平に忠誠を誓って、大平のためにやるのもいやだと思った。」

 「(ダグラス・グラマン疑惑問題のとき)私は、離党しようか、しまいか、だ
いぶ考えたんですが、結局、議員辞任はしてもいいが、離党のことについては、
非常にしたくなかった。議員を辞任すれば、選挙で当選すれば上がる。・・・・
結局、大平との約束で、選挙で上がれば当然復党する、だからいいじゃないか、
という話をした。そこで辞任と離党を併せてしたんです。」

 「大平は大嫌いだ。(議員辞職の際)大平の総理官邸に行って、『党のために
俺は出たんだから、党のために離党も辞任もするよ。しかし、その恩義はいつか
返せよ。君たちのために俺はやるんだから』と、総理執務室で大平に怒鳴ったこ
とを覚えている。」

●中曽根康弘 「(戦後の日本独立の際)吉田内閣のいまの政治は『立てばパチ
ンコ、座ればマージャン、歩く姿はヘイマンボ』だと言って、中曽根君が吉田内
閣を攻撃したのを覚えている。そのとき、ずい分と憎らしいアジテーターだなあ、
と思ったことを昨日のことのように思い出す。」
      
  「彼が政党政治家だとは、私は言い切れない。無論、官僚政治家ではない。そ
のミックスしたところにあるんじゃないか。政党政治家の行動を学び、官僚政治
家の心を持つ・・・・そういう感じだ。・・・・彼は騒然たる社会をリードする
ことは得意だ。しかし、佐藤(栄作)さんのように、ものを創り出すタイプでは
ない。

無からものを創り出す発想はないが、出来たものを上手に積み上げていくことは
得意だ。吉田さんは敗戦という無から有を創り出した。敗戦という無から今日の
体制の枠組みを創り出した。だれも考えられなかったことを構想し創り出した。
これが吉田学校の教育だ。」

 「中曽根君の得意とするところは、出来たものを上手に調理し、味つけするこ
とに妙を発揮する。・・・・吉田さんの講和にしても、佐藤さんの沖縄返還にし
ても、・・・・あの時勢の中で時代に先駆けて発想し政治目標として取り上げ、
まとめた。

つまり、創り出した。『生産者』のパターンだ。池田さんも所得倍増を創り出し、
田中角栄君も列島改造を創り出した。『生産者』だ。中曽根君はこれに比してい
えば『調理型の政治家』だ。大平、福田も調理、料理する型の政治家だ。・・・・
憲法改正という『生産者』タイプで立ち上がったが、いつの間にか雪崩を起こし
て安定したほうに向いてしまった。」

●竹下 登 「(中曽根後の竹下内閣登場について)僕は中曽根が、安倍(晋太
郎)を支持する芽はないと見ていた。福田(赳夫)と同じ選挙区で犬猿の仲だっ
たからね。師の福田が応援する安倍はあり得ない。後は竹下か宮澤。中曽根は金
丸(信)と話をつけて竹下にするだろうから、僕は安倍・宮澤連合に走った。し
かし、(福田)派内は安倍・竹下連合派が多く、『安竹の仲』とか言って、浮か
れていたよ。」
  「(竹下は)表面は明るいけれど、性格が陰気なんだ。」

●宇野宗佑 「総裁が作られる時は、いつも感激があるが今回は全くない。宇野
外相(当時)は改革的な責任者の顔でもないし、斬新的人材でもない。」
「みんなが納得する訳ないよ。中曽根亜流政権では、選挙だって戦えない。」

●海部俊樹 「海部クンの演説はうまいもんだねえ。」という松野に、金丸は
「あれから演説をとったら何が残るのかね。」

 「あれは雄弁だ。あれは(早大)雄弁会だ。雄弁会といえば、竹下、森(喜朗)
、海部もそうだ。いまの議長(綿貫民輔)も、(副議長の)渡部恒三も。それか
ら小渕もそうだ。不思議にあの雄弁会はみな成功しているんです。大したもので
もないと思うけれど、出世している。」

●宮澤喜一 「(総理に)なる時期が悪かった。あれはよく勉強もしているし、
財政にも詳しいし、語学はかえって良すぎて邪魔ですね。鼻にかけちゃうんです
ね。・・・・運が悪かったな。大事な時期に出てこなかった。池田のときにもっ
と伸びなければいけなかった。それから仲間ができない男だ。人間が素直だと仲
間ができない。水が濁ると泥鰌が増えてくる。水清くして魚住まず、です。」 
    

●細川護煕 「小沢(一郎)の強さと鋭さが君を殺す。1メートルでも距離を置
け。手をつなぐのはいいが、抱き合う政治家ではない。」(松野は、小沢をいつ
爆発するかもしれない「ガソリンのような男」とも言っている)

 「細川という政治家は風と雲をよく見る。ただ、いつまでも雲は飛んでいない、
風は吹いていない。そのときどうするか。どうもしない。碁を打っていた殿様が、
難所にさしかかるやエイヤと碁盤をひっくり返したようなものだろう。」

●村山富市 「何となしにバランスの上に村山内閣は延命している。ちょうどゾ
ウの上に乗っているカナリアみたいなものなんだ。本物のゾウ使いがゾウの上に
乗っているならいいんですよ。見てくれのきれいな、ソフトなカナリアを頭にい
ただいている以上、それを振り落とすわけにいかない。といって、カナリアがゾ
ウを牛耳ることはできない。」

●橋本龍太郎 「私は橋本を子供のように思い、彼も私をおじさんと言うくらい
の仲で、よく知っている。行儀のいい勉強家ですよ。あんまり行儀がよくて、国
民が冷たく感じたね。権力的に見えた。それから耳の痛いことを言い過ぎた。そ
の一番が消費税と財政再建でしょう。だから気の毒ではあった。」

 「全然人事ができていないな。佐藤(栄作)はずるさがあったんだよ。橋本は
そこが見れていないんだよ。きれいなところだけ見ている。佐藤はいちいち人事
の前にはサウンドしていたよ。3ヵ月くらい前から。」

●森 喜朗 「小渕(恵三)が2000年4月、脳梗塞で倒れた。そこで、野中
広務、青木幹雄、村上正邦、亀井静香、森喜朗の5人が、後継は森と決めてしま
った。小渕が青木に『後はよろしく頼む』といったことを根拠にね。・・・・野
中や青木が、平成研(橋本派)をまとめた。森にしたのは、橋本、小渕と続き、
さらに平成研では偏ると考えたんだろうね。

その頃小泉(純一郎・森派)は僕のところに来た。『森に異論はありませんが、
やり方が気に入らない。平成研主導で決まったんじゃあ、森は平成研のひも付き
じゃないですか』。小泉は密室政治に不満をぶつけていた。」 

 「突然出てきて小渕の跡継ぎだと言い出したから、後継者という姿をしなきゃ
いけない。森としてのカラーを出せたら、また違う局面が開けただろう。」

●小泉純一郎 「『情熱と感動の男』だ。ベート-ベンやバッハの音楽に心を揺
さぶられ、涙を流すセンチメンタルなところがある。しかも、心を動かされたこ
とはいつまでも忘れない。鼻っ柱は強い。しかし、協調性はあり、お供を連れて
よく飲み歩く庶民的でフランク、学生っぽい性格だ。自民党が国民から変革を求
められている今の時代には、最もふさわしい。欠点は、陶酔して歌うカラオケの
悪声くらい。」

 「(経済に)弱い。経済が強いのはカネに執着のあるものでなければならない。
・・・・やはり苦労した人間でないと身につかない、頭の勉強じゃ。だから私は
『小泉は経済が駄目だ』と。」

   ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 ところで、森鴎外を調べていて、その長女の、辛口・本音のエッセイスト・作
家の森茉莉(1903-87)が「松野頼三」を評している記事を見つけた。こ
れもぜひ、紹介しておきたい。「週刊新潮」に連載していた<ドッキリチャンネ
ル>というコラムで、1979年、松野がグラマン疑惑で追及されていたころの
ことである。

 「松野頼三の目は萩本欽一の目とは又別種の賢い目で、自民党の献金受納につ
いて喋った時、にくいほど巧緻な言回しが冴えていて、三宅菊子と二人でそれを
評し合って楽しく笑った。さえざえとした青葉の風のような話でうまく切り抜け
ているように見える。鮮やかである。お見事!!!と言いたい弁舌である。松野頼
三の目は萩本欽一の目とちがって一寸曇りがかっている。」

 さらにその翌週、書きたりなかったのか、再び取り上げている。
「前回に出た松野頼三の顔写真を見た私は改めて愕いた。ミリエル僧正に会わな
い前のジャン・ヴァルジャンなんてものじゃない。シャーロック・ホームズがた
った一人、挙げることが出来なかった(法の網を巧く潜っているので)金貸爺さ
んを彷彿する面構えで、試みに名をつけるとするとステファン・ゲオルグという
感じで、テコでも圧し伏せられないふてぶてしさである。

 松野頼三が10人、いや5、6人いたら、カガヤケル歴史を持ち、拘置所入り
という名誉を保持する田中角栄、バカげた話題になった自民党も荒船(清十郎)、
なぞを出した、栄えある自民党ももう少間(しばらく)は栄光を保つだろう。煮
ても焼いてもくえない爺さん。これは悪口じゃない。私はシャーロック・ホーム
ズを口惜しがらせ、(こういう奴はこうして)と言いざま、得意の棒術でぶっ叩
かせた金貸爺さんのような人物や、こういう政治家は或意味で尊敬する。頭が冴
えている人物としてである。いい人物でも頭の切れないのは困る。」
                                    
<敬称略>

  (筆者は元朝日新聞政治部長)

                                                    目次へ