■【河上民雄20世紀の回想】(10)        河上 民雄

第10回 石橋湛山論(2)

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  本稿は2010年9月29日に実施された河上民雄氏(元衆議院議員・元日本社会党
国際局長)へのインタビューを岡田一郎が再構成したものである。9月29日のイ
ンタビューには浜谷惇氏・加藤宣幸氏・山口希望氏および岡田が参加した。

◇質問:「一切を棄つるの覚悟」「更生日本の門出─前途は実に洋々たり」の他
に、先生が石橋湛山氏の思想を代表するものと考えている論文はございますか。

●河上:石橋氏は明治天皇が亡くなったときに、「何ぞ世界人心の奥底に明治神
宮を建てざる」という論文を書いています。(『東洋経済新報』1912年8月15日
号。同趣旨の論文として「愚かなる神宮建設の議」『東洋時論』同年9月号があ
る)明治天皇は晩年葬られるなら京都に帰りたいと側室に洩らしておられ、皇后
もそれを認められたため、伏見桃山御陵に葬られますが、東京の御陵に葬られる
と考えていた東京市民がこれに衝撃を受け、当時の東京市長・阪谷芳郎が発起人
となって、「明治神宮」建設を呼び掛け、莫大なお金を集めることに成功します。

 そのとき石橋氏はその莫大なお金をノーベル賞に匹敵するような「明治賞金」
を創設し、東西文明の融合に努められた明治天皇の遺徳を記念するため、五大陸
で毎年ひとり、東西文明のかけ橋として活躍した人に賞金を贈るべきだと主張し
ました。日本には色々な賞金・表彰制度がありますが、世界に誇れるような賞金
・表彰制度を私たちは未だ手にしていません。この点でも、石橋氏の見識と先見
性には驚かされます。
 
  実は昭和天皇が亡くなった後、たまたま私が旧制静岡高校の東京の同窓会に招
かれて、石橋氏の話をしたとき、私の話が終わり、みんなで食事を始めようとし
たとき、同窓会会長の大先輩が「昭和神宮創建の議」の趣意書みたいな紙を配り
始めたのです。そこで、私は、さりげなく石橋氏が明治神宮の建設を批判した話
を始めました。するとその大先輩は私に対して何も言われず、ただ、秘書に命じ
て趣意書を回収してしまいました。

◇質問:先生は石橋氏と実際にお会いになり、石橋氏を高く評価されています
が、社会党内では保守政治家である石橋氏を先生が評価されていることについて
何か言われなかったのでしょうか。

●河上:確かに社会党内には、「いやしくも自民党の総理総裁をつとめた石橋湛
山を社会党の代議士が評価するとは何事か」と非難する人も存在しました。しか
し、不思議なことに岩波文庫から1984年に『石橋湛山評論集』が松尾尊兌さんの
編集で刊行されると、そのような声はぴたっと止んでしまいました。岩波書店の
権威に感心するとともに、自分で考えず周りの空気に流されがちな日本人の悪い
一面を見たように思いました。

 私は石橋氏を思想家として高く評価します。もちろん、エコノミストとしては
昭和恐慌に際し、また、浜口内閣の金解禁導入について、旧平価ではなく新平価
にすべしと高橋亀吉氏らと並んで主張した時、すでに自他ともに認める存在でし
たが、それにとどまらず幅広い骨太な思想家と、私は見ています。

 聖学院大学大学院でご一緒した社会思想史の大家、田中浩教授によると、戦前
の日本では思想家という独立した枠はなく、ジャーナリストにそれを見出すこと
ができる、長谷川如是閑と石橋湛山がそれだという説で、私もまったく同感です。

 長谷川如是閑は生涯ジャーナリスト、評論家で一貫しますが、湛山は日本の敗
戦後、政治を志します。日蓮の誓願、「我れ日本の柱とならむ、我れ日本の眼目
とならむ、我れ日本の大船とならむ」の影響がそこにあったように思われてなり
ません。

◇質問:これまで評論家としての石橋氏についてお話をうかがってきましたが、
政治家としての石橋氏について先生はどのように評価されていますか。

●河上:政治家としての石橋氏というと、いつも話題になるのが、総理としての
余りにも短命だったこと、また、その引き際の良さです。ご存じのように、石橋
氏は病気で執務をおこなうことが不可能となり、わずか2ヶ月で総理大臣の座を
降りました。それは、かつて濱口雄幸首相が右翼青年に狙撃され、重傷を負った
ときに、『東洋経済新報』で「議会に出られないのなら、濱口首相は辞任せよ」
と主張した自分の言葉の責任をとるためでした。

 そうした自分の言葉に最後まで責任をとったところも私は評価しているのです
が、私は石橋氏のアジア諸国との友好、特に中国との国交回復に命を賭けた点を
より評価したいと思います。しかもそれが戦前のアジア諸民族の心情を正当に認
めた彼自身の論説と一貫していたことにあります。

 石橋氏は首相に就任したとき、東洋経済新報社の社員に対して「私が首相をや
るのは3年ぐらいであろう。その間に日中国交回復を実現する」と約束して、首
相官邸に向かいました。残念ながら石橋氏はわずか2ヶ月で辞任をやむなくさ
れ、日中国交回復を成し遂げることは出来なかったのですが、昨今の日中関係の
緊張を見ると、石橋内閣が長続きし、日中国交回復が早期に実現し、日本と中国
の友好関係が深められていれば、日本と中国の戦後史は大きく変わっていたので
はないかという思いを強くします。

◇質問:石橋氏が政治家になったのは第一次吉田茂内閣で大蔵大臣に就任したこ
とが最初でした。なぜ、戦後、ジャーナリストから政治家になったと先生は思わ
れますか。また、石橋氏はGHQによって公職から追放されていますが、小日本主
義を唱えていた石橋氏がなぜ、公職から追放されたのですか。

●河上:石橋氏は戦後第1回の総選挙に出馬して落選しています。第一次吉田内
閣の蔵相として、吉田首相はマルクス経済学者の大内兵衛氏に白羽を立てたらし
いのですが、大内氏に断られ、石橋氏に蔵相就任を打診しました。したがって、
石橋氏は非議員、民間人起用だったのです。このとき、石橋氏が蔵相を引き受け
た背景には日蓮の魂がベースにあったと思います。日蓮は寺の中でただ経典を研
究するのではなく、権力者に献策したり、寺の外で辻説法をして、時には迫害さ
れながらも法華経の教えを民衆に広めていきました。

 日蓮宗の僧侶であった石橋もまた「ただ、政府を批判するのではなく、自らが
政治家となって自分の考えを政治に反映させなければ」という考えで政治の世界
に飛び出していったのだと思います。しかし、蔵相となった石橋はGHQによって
公職から追放されてしまいます。

 石橋蔵相は戦時中の軍需補償打ち切り問題で経済学者としてそれは呑めぬと4
カ月もGHQに抵抗して不興を買った(渡辺武『占領下の日本財政覚え書』日本経
済新聞社刊)うえ、石橋氏がGHQの高級将校用のゴルフ場建設費用を予算案から
ばっさりカットしてしまうようなことが、GHQの気に障ったともいわれています。

◇質問:石橋氏は終始一貫して、小日本主義を唱えており、石橋氏を戦争協力者
として公職追放するのは困難なように思われますが。

●河上:石橋氏は戦時中も軍部に迎合するようなことを『東洋経済新報』に書く
ことはありませんでした。しかし、東条英機内閣のころには政府の干渉も厳しく
なり、石橋氏が自分の考えを書くことが出来なくなりました。そこで苦肉の策と
して、東条首相の演説を延々と引用し、最後に数行程度、疑問を呈する文章を書
き添えて、批判をにじませるといったスタイルをとった時期がありました。

 GHQの担当者はこの時期の論文のうち、石橋氏が東条首相に対して疑問を呈し
た部分を無視し、東条首相の演説を引用した部分を英訳し、「石橋は大変な軍国
主義者である」ということにして公職から追放したのです。

◇質問:最後に、石橋氏の思想が現代にどのような意義を持つのかをうかがって
石橋湛山論を終わりにしたいと思います。

●河上:尖閣諸島での事件以来、日中関係は緊迫したままですが、このような状
況に至った背景には、石橋氏のように中国をはじめとするアジア諸国のことを理
解する人間が日本にほとんどいなくなったのが原因ではないかと思います。石橋
氏のアジア観について、中国文学者の竹内好さんが「こんな素晴らしいアジア観
を持った人は戦前にはいなかった」と驚嘆し、石橋氏の存在を無視してきた自ら
のアジア観研究をもう一度やり直そうと反省したほどでした。

 今の日本に、石橋氏のようにアジアのことを心底から理解し、アジアとの友好
を願う人間がどれほどいるでしょうか。一方、中国をはじめとするアジア諸国に
も残念ながら、日本や日本人を心底から理解している人は数少ないと思います。
そういった時代だからこそ、私は『石橋湛山評論集』と勝海舟の『氷川清話』は
是非、中国語・韓国語に翻訳して、日本にもかつてアジアのことを真に理解した
人間が少数ではあるがいたということをもっと中国・韓国の人々にも知ってほし
いと思います。

 『石橋湛山評論集』や『氷川清話』の中国語訳や韓国語訳を出版しても商業的
には厳しいと思いますので、それならば、国際交流基金のようなところで援助し
てこうした事業をおこなってはどうでしょうか。長い目で見た場合、石橋氏や勝
海舟のような真にアジアのことを考えた日本人の存在を知らしめることこそ、日
本とアジアの真の友好につながると思います。

           (元衆議院議員・東海大学名誉教授)

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