■臆子妄論

~病気、病院、電車のはなし(その1)~    西村  徹

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■まずは病気のはなし


  病気のはなしは嫌われる。その痛みは本人しか感じることができないのに、聞
き手は作法として、痛みを感じるかのような顔をしなければならないからだ。無
理なはなしだ。その証拠に、聞くときは作法どおりの神妙な顔でいながら、挙句
にそれを吹聴してまわってはしゃぐ人がいる。だから、そういう人には、すべて
が過去形になってからでないと話さないがよい。多分そういう人は自分の無意識
に正直すぎるのだろう。川向こうの火事は鴨の味などというが、その味がこたえ
られないからだろう。一般に人は生理的には他人の痛みを共有することができな
い。でなければ職業として医師など成り立たない。まさにその防御システムその
ものにこだわって心を傷めるような人、さらには我にもあらず鴨の味を感じてし
まって恥じ入る人もいる。結局病気のはなしは人を幸福にすることがない。だか
ら嫌われてもしかたないのだろう。
 
  その嫌われるはなしをこれからする。しておかないと話がまとまらないからだ
。じつはこの三月末に二つの病気がほとんど同時に見つかって六月末まで百日た
らずを続けさまに手術と治療に費やしてしまった。喉頭がんと大動脈瘤と、いず
れも放置すれば致命的な病気だが、いずれもひとまず無事に終わって一区切りつ
いた。といっても治安維持法時代の転向した思想犯よろしく、釈放はされても定
期的に出頭して保護観察に服する、いわば(たぶん5年の)執行猶予中のわけだ
が、まずは嫌われるほどには深刻でもなく、もはや鴨の味がするほどスリリング
なものでもなくなったので、結局退屈なだけの事実経過を、できるだけ主観抜き
で、まず書く。


■後なるものが先になって


 
  昨年夏に帯状疱疹に罹り、何しろ痛いものだからやけくそになって猛然とタバ
コを吸った。オバマのように表向きは吸わない振りして陰では吸った。喉がいが
らっぽくなるまで吸った。だから日ごろ自分でも少しあやしいと思っていた喉頭
がんがほんものと判ったのが三月末。放射線治療に入る前のエコーの検査で腹部
大動脈瘤が見つかってしまった。「7センチもあるからいま直ぐ救急で入っても
いいくらいだ」と内科医はいう。「見つかってラッキーだった」と耳鼻科医はい
う。喉頭がんは二の次でいいらしい。なるほど喉頭がんが見つからなければ大動
脈瘤も見つからずじまいになったのだから「ラッキー」という言い方は成立する

  市立堺病院には心臓血管外科がないので、翌日、大阪府立急性期・総合医療セ
ンターという思いきり長い名前の、通称府立病院に行った。後なるものが先にな
って4月16日に入院、22日に大動脈瘤の手術をした。司馬遼太郎はこれが破
裂して死んだこと、昔の若い同僚がまだ京大教授の現職の頃に、やはりその病名
で死んだのを新聞で知ったことがあるぐらいの知識しかなかった。大動脈の瘤な
のか大なる動脈瘤なのかの区別もさだかでない程度の知識しかなかった。

 もう八十歳を過ぎていることだし、なににせよ破裂したら即死だろうから準ピ
ンピンコロリで、それもまたよからずやと最初は思った。ところが昔とちがって
、いろいろ手立てがあって簡単には死ねないらしい。死ぬのは相当いたぶられて
からになるらしい。というので手術をした。開腹手術は昔一度やっているので気
がすすまない。ステントグラフトとかいう、大動脈の内壁に、もう一枚内張りと
して針金の芯入りのポリエステルの円筒を挿入留置するという方式をえらんだ。
現物は六月下旬大和郡山の病院の診療報酬詐欺事件でテレビ画面に大写しになっ
たから、ご存知の向きも多かろう。健保が適用になって3年だから耐用年数はま
だ不明。不明でもたぶん装着するこちら本体の耐用年数よりは長いだろう。

 退院当日にレントゲン写真を見たら折りたたみの傘みたいなものが胴体ドまん
中に垂直に入っていておどろいた。手術の際いったん挿入し終わったが漏れがあ
るとわかって胆管用のステントを入れ足したとかで、そのせいか針金が重なって
メッシュになって、まるで鎖帷子みたいだ。針金はステンレスでも磁場に反応し
て動くおそれがあるからMRIはできないらしい。交通事故などのときのために
常時携帯する「MRI無用」のカードがアメリカのメーカーから届いた。だから
私のばあいステントはステントでも二枚重ねのダブルステントらしい。一枚より
二枚が丈夫かもしれないが暑苦しいはなしだ。


■喉頭がんの放射線治療


 
  心臓血管外科を退院したのが5月1日。連休が終わって5月13日水曜から放
射線科の治療が始まった。退院時に「治療開始がこんなに遅くなってもいいのか
」と訊いたが耳鼻科では「ひと月ぐらい問題ない」という。いよいよ喉頭がんの
治療である。7月1日水曜に終了予定。初日は照射位置を決めるための作業にず
いぶん時間がかかった。二日目からはものの5分ほどであっけないものだ。
  台の上に仰向けにころがされてオペラ座の怪人みたいな、プロレスの選手が被
るような、じめっとして重たいゴムのような鉛のようなマスクを被されて、左右
をパチパチと台にボタンで固定されるから外でなにが起こっているか明暗と機械
音以外はまったくわからない。台にころがされたところは上半身裸だからかCTな
どとおもむきがちがって照り焼きにでもされるみたいで少々生臭い感じだ。築地
の魚市場でマグロを捌く有様に似ているかもしれない。どのみち病院には、手術
前の除毛など、なにげにポルノグラフィックなところがある。気などを言う東洋
医学と違うところで、いったん患者を非人格化・物象化・客体化するからだろう
か。感覚的にその延長上の奇妙な屈辱感がある。土日をのぞく週5日、これがあ
しかけ7週続くことになる。

 手術入院のときは日々刻々状況は動く。検査に行く。医師が来る。薬剤師が来
る。もちろん看護師が来る。入院翌日に手術の予行演習みたいな大動脈カテーテ
ル検査という死亡もありうるマゾキズムの極みみたいな凄い検査がある。とにか
くあわただしい。術後もそれはかわらない。切ったり刺したり体のあちこちが穴
だらけになる。上から入る管、下から出る管が装着されて上下水道のようだ。と
ころが、この放射線治療というのはその種の工事らしきものはなにひとつない。
注射ひとつない。医者とは毎火曜、治療後に診察があるが、ただ会って一言聞く
だけ。工事といえば水曜に研修医が経鼻内視鏡で覗く練習台になるだけだ。それ
以外延々と坦々と6週間築地のマグロである。毎日まったく同じことのくりかえ
しだ。

 「はじめは痛くもなんともない。そのうち皮膚がケロイド状になることもある
。喉が痛くて食事ができなくなることもある。そうなったら入院して鼻から栄養
を撮ることになる」と脅かされていた。つらい時は吸入がいいというので吸入器
も買った。さいわい、ついに吸入器も入院も必要なく摂食に問題はなかった。放
射線科の医師は「照射範囲が狭いから心配ない」とは言いつつ「食事は撮れてい
るか」と毎度訊いたから、よほど私は倖いだったのだろう。ただ変わったことと
いえば頚の照射部分がきれいにくっきり日焼けのように赭くなったぐらい。そこ
に三箇所肉インキで位置決めの十字架が印され、どうしても薄れるから三日おき
ぐらいに色揚げされた。これは洗えないから今もまだ残っている。照射部分は剃
らなくても髭は生えなくなる。

 毎日おなじことのくりかえしだが機械が言うことを聞かなくなって修理の終わ
るのを待たなければならないことが2度あった。6週間に2度は多いのか少ない
のか、そこはまったくわからない。機械は新しいものなほど精度が高くてよいそ
うだが、府立病院は古いから機械も古いかもしれない。ホームページには「VARI
AN社製のリニアック1台が稼動」とあるからステント同様アメリカ製である。1台
が毎日稼動すればたまには故障もあるだろう。2度とも月曜だった。機械だって
月曜はブルーになるのだろう。1度目は朝出かける前に病院からしらせがあった。
修理完了のしらせがあって治療は午後になった。2度目はKさんのクルマで行った
ので一度帰って修理完了のしらせの後にもう一度送ってもらった。6週間に2度
の、これは変化であった。途中の経過良好で35回の予定が30回に短縮、一週
間くりあがって6月24日に終了した。
  以上が病気治療のおおむね即物的な記録である。十分退屈されたと思う。次回
は少しは主観的に立ち入って病院を描いてみたい。

              (筆者は堺市在住)

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