■落穂拾記(3)-汚職列島、亡びず-          羽原 清雅

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  新聞記者四〇年(1962-2001)をふと考えると、いろいろな政治関係
の汚職腐敗の周辺にいたものだ、と慨嘆せざるをえない。直接取材したケース、
よく知った人物に捜査の手が伸びたケースなど、さまざまだが、今回はそんな話
に触れてみたい。 小沢一郎疑惑の成り行きを見ながら、反省もなく、開き直れ
ば許され、社会も嘆きつつも受け入れている状況は「またか」の印象をぬぐえない。

 スタートは1965(昭和40)年、新潟支局勤務のときで、いわゆる「現金
中元事件」だった。塚田十一郎新潟県知事が2期目の選挙に臨むに先立ち、主流
反主流の自民党県議全般に中元名目で現金20万円ずつを配り、これを反主流
(多くは塚田知事が衆院時代に競合した田中彰治系)の県議が選挙違反だとして
暴いたのだ。塚田知事は能吏であり、当選確実の状況と見られていた。しかし、
彼は机の中に各市町村の得票リストをしのばせ、首長らが陳情などに現れると、
これをちらつかせて「君のところは少ないなあ」などとニラミを利かせていた。

 大半は「頑張ります」と従うが、一部の首長や企業人たちからは反発を買って
いた。そんなことで、この反塚田の田中系県議や野党の社会党などのあいだに、
自治官僚として副知事の座にあった吉浦浄真を対抗馬として擁立する動きが出て
きた。地検が捜査に入り、ノイローゼ気味になった塚田は東京の病院や熱海に隠
れるなど、県政は大混乱となった。結局、塚田は保革相乗りの吉浦を破り再選、
不起訴処分になったものの、辞任に追い込まれて事態は決着した。
 
  当時駆け出し記者の筆者は、はじめての事態に大いに発奮、毎日新聞の支局員
だった鈴木恒夫記者(のち衆院議員、文相)とともに、紙面扱いの鈍かった地元
紙の向こうを張る気分もあって、「全学連」「紅衛兵」などといわれながら、厳
しい筆致で追及したことを覚えている。思えば60年安保世代として、どちらに
付くというような気持ちはまったくなく、カネで動く地方自治の現場に対して、
一種の正義感に燃えていたのだろう。地方権力というものを実感する、この最初
の経験は貴重だった。
                
  翌1966(昭和41)年、政治部に配属され、その最初の出張取材が茨城県
議会の「黒い霧事件」だった。時の県議会議長飯沼泉が、短期で辞める「約束」
だった議長の座にしがみついたことで、自民党県議からブーイングが起きていた
ところ、彼が「議長になるには経済的負担がかかった」と話したことで、贈収賄
の疑いが表面化したのだ。
 
  半年近くも混乱して、県議会はやっと自主解散するが、その翌日には8人の自
民党県議が逮捕、その後も4人が逮捕されるなど、連座した議員は20人に及ん
だ。つい先ごろまできわめて長期にわたって自民党県連会長の座にあった、当選
14回の実力者山口武平も逮捕組の一人だった。のちに国家公安委員長など閣僚
5回、自民党幹事長を務めた梶山靜六も逮捕は免れながらもこのとき数回の取り
調べを受けている。

 翌年1月の「出直し」選挙では、収賄逮捕の12人が立候補して8人が当選し
た。逃走して出馬した者まで当選、さらに驚いたことには4年後の県議選では被
告県議13人中9人が当選、8年後には8人全員、12年後は7人中6人当選、
16年後は5人全員当選、20年後は5人中3人当選、24年後は最高裁で有罪
が確定しながら2人が当選しているのだ。しかも、これらの県議のうち5人まで
が県議会議長に選ばれ、自民党の県連会長、幹事長、市長、県の農協中央会長な
どの要職についた者もいた。

 これが民主主義を掲げた法治国家なのか、とただただ驚くばかりだ。議員の質
もさることながら、議員は県民の代表であり、有権者の多くが投票した結果だか
ら、その責任は地域の有権者にある。とすれば、県民の選択自体を嘆かざるをえ
ない。閉鎖的な地域社会で、なにかと人脈や利害がからむのか。よほど役に立つ
実力者たちなのか。供応買収の事件の多い茨城なので、カネやご馳走で票を売っ
たのだろうか。
           
  その茨城に関わりのある、汚職がらみの二人の政治家と長らく付き合ったこと
がある。「ロッキード事件」の橋本登美三郎(内閣官房長官、自民党幹事長)
と、「ゼネコン汚職事件」の茨城県知事の竹内藤男である。橋本とは、政治部の
幹事長担当として、また朝日新聞の大先輩として、接近した取材をしていた。新
潟時代にも時折取材したことのある田中角栄の仲間であり、佐藤栄作首相を支え
る佐藤派の幹部であった。

 田中はチャーミングな政治家だったが、地元新潟の鳥屋野潟の水利権、信濃川
河川敷買収を田中の息のかかった新興企業がひそかに買いあさっている実態を、
県議会で追及され、その手口の巧妙さと強引さをかすかながら知っていたので、
田中にはどこかカネの疑惑が抜けないでいた。テレビや週刊誌などによって「庶
民宰相」としてもてはやされていたが、次第に姿を見せる金権選挙と小選挙区制
推進の姿勢にはあらためて強い反発を感じた。1976(昭和51)年、米議会
でロッキード事件が表面化したとき、まさかと思いつつもウーンとうなったもの
である。

 その一端に橋本があり、彼が受託収賄で逮捕される前後は、社会部によってそ
の疑惑が紙面化されるたびにご本人の談話を取りに行くことになって、これはち
ょっと気の重い仕事だった。橋本はざっくばらんで、気のいい人物だった。それ
でも、「疑惑は事実」という気分は消えなかった。逮捕後も2回当選しており、
県議の場合と同様に、有権者は「汚職」容疑とは無関係に選出したのだ。その後
落選、かつ高裁の有罪判決があり、上告中に亡くなった。

 もう一人の竹内は、たまたま筆者が建設省担当のころ都市局長として知り合
い、参院に当選してからも時折議員会館で会い、また水戸支局に赴任したときに
は知事として取材する立場にあった。どちらかといえば新聞記者好きのタイプ
で、時折ワインの居酒屋などでバッタリあって雑談をしたりしたものだ。ゴルフ
セットがいくつもあるからあげるよ、ゴルフ場は多いし、ぜひ始めなさい、と悪
気なく誘われたこともあるが、そんな興味はまったくなかった。もしもらってい
たら、記者失格だったろう。

 それが1993(平成5)年、県の事業に関連するゼネコンからの収賄容疑で
逮捕される。1億円にも及ぶカネの動き、数億円相当の債券の隠匿などが報じら
れた。結局、病気で公判手続きは停止、その後死亡により公訴は棄却されてい
る。このゼネコン汚職では、収賄側の宮城県知事、仙台市長、茨城選出の衆院議
員中村喜四郎ら、贈賄側の鹿島、清水建設などの幹部の計32人が逮捕、起訴さ
れ、2008年までに最高裁などで竹内以外の31人が有罪となっている。

 その一人中村喜四郎は、埼玉土曜会の談合事件をめぐり公正取引委員会に刑事
告発阻止を働きかけたとして斡旋収賄罪に問われたもので、26年ぶりに国会で
の逮捕許諾請求を全会一致で決定されている。もっとも、実刑判決の確定によっ
ていったんは失職するが、その後2回衆院に返り咲いているほか、衆院では25
年の永年勤続で表彰を受けている。逮捕されるという不名誉、社会全般そして有
権者への背信・・・・再出馬の神経も問題だが、それでも投票する有権者の思考
はどうなっているのだろうか。

 大方の政治家には、それぞれに魅力や華がある。だが、個人の魅力が「是」で
あり「可」であっても、社会的に「非」であるなら、それは投票するに値しない
程度の眼力は必要だろう。個人的には好みの政治家であっても、それが社会全体
の秩序を阻害するなら、ほかの有権者のためにも選択すべきではあるまい。
         
  国会議員でいえば、筆者にとっては長きにわたる取材の対象だった松野頼三が
いる。勘どころのいい、独特の読みを身につけていて、政治記者として教わるこ
とも多かった。 第2次FX商戦のF4Eファントム戦闘機売り込みにからんで日商
岩井から5億円を受け取ったという「ダグラス・グラマン事件」で衆院議員を辞
任した。辞任を発表する直前に、たまたま勤務先の九州から上京した筆者は、松
野からその心境を聞いたことがある。1979(昭和54)年のことである。

 彼がほかのケースと違っているのは、検察当局が松野には職務権限がなく犯罪
にならない、との判断を下した点だ。彼の衆院議員辞任は道義的責任をとったの
か、あるいは次期選挙への計算ずくだったのか。決してクリーンとはいえず、腐
敗の一端が表に出たことだけは間違いない。

 注目されるのは、のちに彼がこの事件で岸信介との関わりをかなり鮮明に匂わ
せていることだ。「私はなるべく岸さんの話はしたくなかった。ルートはそこだ
けれど、それをやると、人を巻き込むことになる。私は岸さんのところが一番大
きな舞台とわかっているけれど、それを出したら駄目、大変だと思って、私は一
切、ひとことも岸という名前は出さない。それだけに追及が厳しかった。」(筆
者編「政界六〇年 松野頼三」文藝春秋所収 『オーラルヒストリー 松野頼
三』より)。彼はこのあと、3回当選、2回落選、となった。
        
  ところで、茨城県は公職者の汚職行為は多いのだろうか。ここに『茨城県戦後
汚職年表 1945-1998』(那珂書房編、2000年刊)という労作がある。
戦後の汚職、選挙違反などについて各紙をめくり丹念に調べたものである。これ
によると、この53年間のこの県下で生じた選挙違反なども含めた「汚職」の検挙
件数は1557件、検挙人数は1724件。47都道府県の平均と比べると、前
者は2.17%、後者は2.22%で、やや多めという程度だ。ということは、
全国どこでもこの程度の腐敗が摘発されたということであり、かつ陰に埋もれた
摘発漏れを考えると、「汚職列島」を思わせるほどだ。

 その範囲は広く、国会議員、国や自治体の公務員、地方自治体の首長と議員な
ど広範にわたっている。茨城の県議の事例だけをこの労作のなかで見ると、過半
数を占める買収などの公職選挙法違反事件を除いても、横領、暴行傷害、贈収賄
はそれぞれ10件に届きそうであり、詐欺、恐喝、麻薬、飲酒運転、盗掘、名誉
毀損などさまざまである。日本の民主主義はこの程度か、と思わざるをえない。
公職者たちの感覚は「みんなやっている」「見つかるまい」「カネが必要」「つ
かまるのはウンが悪かった」「贈答の習慣は日本の文化」「必要悪」「政治家た
るもの、清濁併せ呑むくらいでなければ」といったところか。

 では、警察、検察の摘発待ちなのか。これは、モグラたたきに等しく、氷山の
一角を切り崩しても、すぐ鎌首をもたげるから、恒久的な期待はできない。やは
り有権者に犯罪としても、道義としても「許さない」という厳しい姿勢がなけれ
ば、安定的で公平公正な社会は確保されないだろう。迂遠だが、その自覚しかあ
るまい。
           (筆者は帝京平成大学客員教授・元朝日新聞政治部長)

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