■臆子妄論  ~地獄の花見~        西村  徹


◇この世が地獄


 「世の中は地獄の上の花見かな」という小林一茶の句がある。まだ一茶の時代
には地獄も極楽も信じられていたから「地獄の上」という実感があったのだろう
。地獄は冥土すなわち地下にあって、地上のこの世はひとまず地獄とは隔離され
ていたのであろう。極楽もまた西方浄土に池があって蓮の花が咲いているのだと
すると、やはり池のある地面がなければならず、あながち雲中に浮遊するとはか
ぎらないらしい。山の向こうの夕陽が沈むところだとすると、さしずめ大和から
すれば夕陽は二上山の西に沈む。つまり河内、和泉が極楽ということになる。そ
れなら地続きのようでも、浄土はやはりこの世とは隔離されて存在していた。し
かし今はちがう。昔のような地獄も極楽も存在しない。そのかわりに今はこの世
が地獄だ。この世の地獄の、その地獄ぶりは昔のレトロな地獄の比ではない。生
きている間はまだ「地獄の上」にいるのだなどと悠長に構えていられなくて、も
はや生きながら「地獄の中」にいるとしかいいようがない。

 昔の地獄には地雷もなければクラスター爆弾もなかった。鉄砲さえなかった。
むろん核爆弾はなかった。桂米朝「地獄百景亡者の戯れ」みたいな、ちょっと行
ってみたくなるような粋なところはまったくない。現代の人間が創り出したこの
世の地獄を目の当たりにすれば、自分たちの未熟と素朴を恥じて、エンマがベソ
をかいたり赤鬼が青ざめたり青鬼が赤面したりするにちがいない。この世の地獄
の残酷レベルはイノベーションにつぐイノベーションで日進月歩だ。地獄も極楽
も恐怖と願望によって増幅されてはいるものの、いずれも現実のコピーなのだか
ら古いコピーはどんどん陳腐化して、多少の化粧直しでは到底新しいモデルに追
いつけるものではない。


◇極楽はカネでは買えない


 極楽も、一見すると、この世の現実になりつつあるかに見える。投機で大儲け
した青年が「カネさえあれば何でも買える」と言って拝金宗の教祖になった。教
祖に騙されてカネさえあれば極楽でも買えるものだと多くの若者は思った。今で
も思っている人は少なくない。事実なんとかヒルズとかいうところで贅沢三昧の
暮らしをしている成金はいるらしい。しかしどんなに成金暮らしをしていても人
は時空を超えられない。早い話がどんな金持ちでも毎日糞小便を排泄しないわけ
にはいかない。どんな高値で市場に発注しても、これを代行してくれる業者はい
ない。どんな金持ちも生きているかぎりは糞袋で、生老病死を代行してくれる業
者もいない。
 
また困ったことには人間の煩悩熾盛は動物本能のような生易しいものではない
。ローマの皇帝や貴族たちはいくら食っても飽くことを知らず、食っては吐き、
吐いては食って際限がなかった。動物は人間ほどあさましくはない。満腹すれば
獲物が目の前に現れても見向きもしないし、交尾期でなければ発情しない。とこ
ろが、人間は四六時中発情している。生殖が目的で性交は手段のはずなのに手段
が目的になってしまう。狩をする場合でも獲物を食うためよりも、ただ殺す快楽
のために殺す。

 ネコは飽食すればネズミを捕らなくなる。人間はネコよりあさましい。それ
でも食欲色欲の場合は、食物を余さず独り占めしようとか異性を余さず独り占
めしようとまでは進まない。選り好みということもあって余れば捨てるだろ
う。ところがカネに対する欲望となると際限がない。泥がついていてもクソ
がついていてもカネはカネ。選り好みなどしないし余っても捨てない。富は滴り
落ちる(trickle down)なんて真っ赤なウソだ。少数の富裕層が多数の貧困層か
ら乾いたタオルをしぼるようにして搾取している。


◇カネは麻薬そして魔物


 「大田総理、秘書田中」という番組で森永卓郎というエコノミストが言ってい
た。カネは海水のように飲めば飲むほど喉が渇くと。海水ならば、かわりに真水
を飲めばおさまる。それよりもカネは麻薬といったほうがよさそうだ。麻薬は匙
加減さえ正しければ薬になる。カネも使い方さえあやまらなければ便利なものだ
。しかしひとつまちがってカネに目がくらむと、いくら儲けてもさらに儲けたく
なって際限がない。「テレビってやつは」という番組で堀江貴文という人が言っ
ていた。

 新しい事業(金儲け)に挑むときの「ストレスが快感」だと。それはそうだろ
う。ランナーズハイもそうだろうし、性行為におけるオルガスムもまさしくそう
だろうが、そのように利いた風に言い替えることによって、まるで欲望追求は欲
得づくではないかのように、カネの亡者は亡者でないかのように、自分でも自分
の言葉の暗示にかかって、どうも本気でそう思ってしまっているらしかった。つ
まりつぎつぎ挑んでいないと禁断症状に陥るというわけだ。サルにマスターベー
ションを教えると死ぬまでやめないという。「カネさえあれば何でも買える」と
言ったときは、まだカネはモノを買う手段だという客観認識がわずかに残ってい
た。しかしストレス快感説にいたって、手段がいよいよ目的になってしまう倒錯
の病理を白日に曝した。

 文明の衝突とかいうけれど、じつはカネに対する歯止めのきかない欲望が底に
あって、そしてもともと同祖の三つの一神教が三つ巴に絡み合って、ユダヤ人の
キリスト教徒による迫害が長く続いた後、非対称な戦争による受難はこのところ
イスラムに集中している。ボーンナゲインとかいうキリスト教原理主義が経済の
市場原理主義と結びついた挙句「神のお告げ」だとか「民主化」とか「十字軍」
だとか、なんだかひとりよがりで訳の分からない呪文やshock and aweなどと腕
白小僧のような脅し文句を口走って、かつてアブラハムの生まれた土地、エデン
の園があったともいわれる土地に、どやどやと殴りこんで生き地獄さながらにし
てしまった。こうなるとカネは麻薬というよりも魔物というほかない。


◇一縷の希望


 どうやらカネでは極楽を買えないらしい。極楽を買えないどころかカネがこの
世を地獄にする。カネという魔物を魔物でないものにして市場経済をやめてしま
ったら理想の社会、自由の王国が地上に造れると考える人たちがいた。しかし今
までのところどうも成功していない。どこまで行っても人間はカネの魔性から逃
れられそうにない。カネが仇の世の中である。

 しかしカネの縁はなくても自然界を見ても弱肉強食であるにはちがいない。エ
コ、エコと近ごろさわがれるが生態系そのものが食物連鎖つまりは弱肉強食のシ
ステムにほかならない。テレビが地デジとかハイビジョンとか、画質がうんとよ
くなって「自然百景」とか「日本の名峰」とか、そういうのを飽きずに見る。平
和そのものに見える自然の細部には昆虫を食う蛙、蛙を食う蛇、魚を食う鳥、鳥
を食う獣、食物連鎖(food chain)というよりは私としては生存連鎖(chain of be
ings )と言いたいことがさまざま必ず映される。BBC制作、音楽はベルリンフィ
ルという豪華な記録映画にDeep Blueというのがあった。そこではシャチがアシ
カを空高く放り上げる場面や鯨の子を追って溺れさせて食う場面があった。Plan
et Earthというのもあった。これらは風景ものより格段にドラマチックでもあり
ドラスチックでもあった。

 一見すると人間だけが残忍であるわけでもなさそうに見える。自然そのものが
弱肉強食のシステムのように見える。生きることは食うことと同義で、また生き
ることは死ぬこととも同義である。それは誰の仕業か。「責任者出て来い!」な
どといえば創り主は困惑して「りんごを食ったからだ」などと苦しい物語をつく
らざるをえない。しかしこの物語は人間にしか当てはまらない。だから仏教は、
問うても詮無いことは問わないでありのままを受け入れることから始めるらしい

 このあたりは正直なにがなんだかよく分からなくて、いろいろ考え方はあるも
のとして、このシステムを自然の摂理として受け入れるところまではそれでもま
あしょうがないと思う。しかし受け入れるのはここまでであって、そこに人間が
上乗せした理不尽は放っておけない。人間が尻拭いするしかない。神様の製造者
責任にはできない。

 ほとんど希望はないけれども、まれに希望を持たせてくれる人がいないわけで
はない。「プロフェッショナル」という番組で地域医療に従事する中村伸一とい
う医師や認知症老人の介護に献身する大谷るみ子という女性やらのことを見ると
そういう気もちになれる。たしか堀江貴文氏の出ていた「テレビってやつは」と
いう番組で、ヴィデオ収録されていたのだが、司会者が「一千万円手に入ったら
どう思うか」というような質問をした。それに対して夫の職業は清掃業で夫婦と
子供一人で月収25万円の、その二十代の主婦は「でも今の幸福は失われる」と答
えた。
  こういう稀な例だけでも、ひょっとすると人間は皆がみな堕ちているわけでも
ないかもと、甘いかもしれないが思わないでもない。ひょっとすると本当に聖ア
ウグスチヌスの言うように
「謙遜は傲慢に打ち勝つ」(Humilitas occidit superbiam)かもしれないと思う。
                    (筆者は堺市在住)

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