■海外論潮短評(44)

  ~ソーシャル・メディアの政治的パワー~   初岡 昌一郎
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  IT技術の発達が、新しい社会的なメディアの隆盛をもたらしている。最近の
チュニジアやエジプトの政治的変動に見られるように、マスメディアが政府に支
配されている独裁政治国では、パソコンや携帯電話の普及によって促された新メ
ディアが世論と政治行動を先導している。

 この社会的メディアに対するアメリカ政府の対外的政策に関する論文が、國際
問題にやや保守的ながら最も権威がある米隔月間誌『フォーリン・アフェアー
ズ』1/2月号の巻頭論文として掲載されている。同号表紙に大々的に紹介され
ているこの論文には、アメリカ政府にたいする外交政策批判と提言を超えて、普
遍的な問題提起が含まれている。

 筆者のクレイ・シャーキーはニューヨーク大教授であり、インターネット関連
の論文やコメントを『ニューヨーク・タイムズ』、『ウオール・ストリート・ジ
ャーナル』、『ハーバード・ビジネス・レビュー』などに発表している、彼は
40台後半の新進気鋭な論客である。以下は、この論文の要旨。


◆公共領域におけるソーシャル・メディアと政治的変革


 
  1990年代初期にインターネットが登場して以来、世界のネット人口は数百
万から数十億人へと飛躍的に増加した。この期間にソーシャル・メディアが世界
中の市民社会で定着した。これには、一般市民、活動家、NGO. 電気通信企
業、ソフトウエア・プロバイダー、政府が関与している。国際的に影響力を増す
ソーシャル・メディアにたいし、どのようにアメリカ政府は政策的に対応すべき
か、という問題を新メディアの普及が提起している。

 コミュニケーション状況が稠密になり、より複雑化し、参加型になるにつれ
て、ネットワーク化した市民は情報アクセスを広げ、公共的論争に参加し、集団
行動をとる能力を高めている。政治領域では、この自由の拡大が市民の変革要求
を緩やかに連携させるのに役立っている。

 アメリカ国務省は"インターネット・フリーダム"を具体的な政策目的として掲
げている。しかし、特定の反体制派を支援し、体制変革を奨励する事を意図した
短期的目標にこの自由を結びつけることは、政策の効果を損なうであろう。失敗
した場合、その結果は深刻なものとなる。アメリカ政府は、インターネットの自
由という目的を原則的かつ体制ニュートラルな方法で追求すべきであり、特定国
にたいする当面の政策目標追求手段とすべきではない。


◆インターネットの自由は政策手段ではなく、環境整備


 
  政治的自由のためには、提起されている諸問題を十分理解し、討議する事ので
きる市民社会が存在しなければならない。1948年の大統領選挙後に出され
た、有名な政治的意見に関する報告においてマスメディアだけが人心を左右でき
るものではなく、二つのステップからなるプロセスがあると指摘された。まず、
問題がマスメディアによって伝達され、次に友人、家族、仲間の中でそれが議論
される。

 この第二のステップの中で、政治的な意見が形成される。この社会的ステップ
の段階で、インターネット全般、とっくに社会的なメディアが際立った役割を果
たしうる。新聞と同じように、インターネットは情報消費を拡大するだけではな
く、対立する見解を掘り下げる情報生産に貢献する。
 
  徐々に拡大している公共領域における世論はメディアと対話に依拠する、とい
うのがインターネット・フリーダムに関する環境論的見解の核心である。自由に
アクセスできさえすれば専制国家は崩壊するという、西欧が保持している誇大妄
想的見解とは反対に、環境論的見解は、公共領域でのアイデアと意見の流通なし
には政治的変化があまり期待できないとみる。抽象的な政治思想の受容よりも、
経済や日常生活上の統治にたいする人々の不満から社会的公共領域が拡大する。


◆新技術を否定できない保守派のジレンマを突く


  組織化され、規律ある集団は、未組織で、規律のない集団よりも常に優位に立
つ。ソーシャル・メディアは提携のコストを軽減することで、この不定形な集団
の不利益を補う。ソーシャル・メディアは、社会的ネットワークを通じてメッセ
ージを拡げることにより、認識の共有を拡げる。

 あらゆる近代国家の特徴である認識の共有が、いわゆる"保守派のジレンマ"を
生み出す。このジレンマは、言論や集会に対する一般大衆のアクセスを高めてい
るニューメディアによって深められる。インターネットやコピーの普及により、
公的な言論を独占する事に慣れていた国家が公的見解と大衆の評価の落差を考慮
せざるを得なくなる。これにたいする保守派のお決まりの対応は検閲と宣伝だ
が、これらは市民に沈黙を守らせる手段として効果的ではない。政府がインター
ネット・アクセスを封鎖したり、携帯電話を禁止すれば、親政府的市民までをも
反対に回し、経済を悪化させる危険がある。

 保守派のジレンマは、政治的言論と非政治的言論を峻別できない事にある。2
008年にアメリカ産牛肉輸入に抗議するために集まった韓国人少女の多くは政
治活動の経験がなく、非政治的な人気ロックバンドのブログにおける議論から先
鋭化したのである。このブログには80万人ものメンバーが積極的に加わってお
り、会話を通じて政治的意見が生み出された。

 ポップ・カルチャーもソーシャル・メディアの政治的活用に通路を提供するこ
とがあり、保守派をジレンマに追い込む。反体制派のために設計されたメディア
を政府が閉鎖に追い込むのは容易だが、幅広く利用されているメディアを検閲対
象とすることは、それにより非政治的であった市民を政治的集団に転化させる危
険を犯すことになる。

 こうした理由から、特殊政治的なメディアよりも、ソーシャル・メディア全般
にたいする自治を促進する手段として、メディアの自由を支援することに意義が
ある。自由な言論という基準は本質的に政治的なもので、普遍的に共有されてい
るものではない。アメリカが言論の自由を優先的目標とすることは、民主主義国
においては比較的によく作用するが、非民主主義的な同盟国ではあまり受け入れ
られず、同盟国でない非民主主義国ではほとんどうまくゆかない。

 しかし、すべての国は経済成長を願っており、政府が新技術の導入を禁止する
ことはそれを阻害する。メディアの広範な利用を可能にするためには、その経済
的インセンティブを利用すべきである。自由の美徳について論争するよりも、公
共領域を創出、強化するために、この保守派のジレンマを突くほうがよい。


◆ソーシャル・メディアへの懐疑論


  アメリカがインターネット・フリーダムを政治的手段として追及しようとする
のであれば、特定政権にたいする手段として協調するのを避け、市民の言論と集
会の自由を一般的に支持することを強調するべきである。特定の政権をターゲッ
トにした、具体的な手段やキャンペーンをアメリカ政府が直接支持することは、
より慎重かつ忍耐強いアプローチが回避しうる、反発とバックラッシュを生む。

 国務省のインターネットの自由に関する政策は転換が必要である。個人的社会
的コミュニケーションの自由を確保する事の優先順位が高く、個々の市民が公然
と発言する力を持つ事がその次に来る。政策転換は、グーグルやユーチューブへ
のアクセス問題というよりも、政府が市民に顔を向けざるを得なくする、市民社
会強化に重点を置くべきである。

 グループ向け文章メッセージ・サービスのライセンスを義務付けた、エジプト
政府による最近の統制は、新聞の自由規制強化と並んで、アメリカが懸念すべき
事である。こうした文章メッセージ・サービスが支援する集会の自由こそ、報道
の自由に劣らず、アメリカン・デモクラシーの核心である。同様に、一定のイン
ターネット・サービスに実名で登録する事を義務付ける最近の韓国における規制
は、2008年の抗議のように電撃的に政府を驚かす市民の力を削ごうとするも
のである。中国の検閲に抗議するアメリカ政府がこうした政策に直接的に異議を
唱えなければ、その立場と主張は普遍的一貫性を失う。

 より困難だが、同じく不可欠なのは、公共領域でネットワークのサーバーとな
っている民間企業に関与する政策を練り上げることであろう。アメリカに本拠を
置くフェースブック、トゥイッター、ウィキペディア、ユーチューブや、海外に
本拠を置くQQ(中国のインスタント・メッセージ・サービス)、ウィキリーク
ス(スウェーデンにサーバーを置く、リークされた文書預託サイト)、ナーヴァ
ー(韓国のサイト)は、政治的な言説、討論、連携に最もよく利用されているサ
イトである。世界的な無線通信企業が、文章メッセージ、写真、ビデオをこれら
のサイトを通じて携帯電話に伝送している。これらの事業体は、利用者のために
言論と集会の自由を支持することを、どの程度期待されているのだろうか。


◆介入政策ではなく、原則的な支持を


  良し悪しはともかく、公共領域のネットワークを支えているプラットフォーム
は民営で、民間によって運営されている。クリントン長官は、政府がこれらの企
業と共に問題に対処すると約束している。しかし、一定の法規的枠組みなしに、
これらの商業的アクターを道義的説得だけで縛ることはできないだろう。

 現実世界で必要な政治的要件は、何が起こりそうかを予測するよりも、何が望
ましいかを見極める事である。抑圧的ないし民主的体制のいずれにおける活動家
もインターネットと関連する手段を利用して、自国における変革を実現しようと
するだろうが、これらの変化を方向左右するワシントンの能力は限られたもので
ある。そして、このような進展が緩やかなものである事も理解しなければならな
い。

 ワシントンは、世界各地における言論の自由、報道の自由、集会の自由につい
てより一般的なアプローチを取るべきである。公共領域におけるソーシャル・メ
ディアにたいして、方法論的アプローチではなく、環境論的アプローチを採るこ
とによってのみ、短期的失望を受容しなければならない事があるとしても、これ
らのメディアの約束する長期的利点を生かすことになる。


◆コメント


  本年になってから急テンポで展開したチュニジアとエジプト、さらには他の地
域における独裁崩壊と民主化のうねりの連鎖は、1980年代末からのソ連・東
欧の変化を想起させる。だが、あの当時のコミュニケーションの手段が、電話と
FAX、複写に主として依存していたのにたいし、今回の主役は携帯電話とイン
ターネットであった。その効果は、比較にならないほど迅速かつ広範なものであ
った。こうした事態の展開は、緩やかな進展を想定する筆者の所論を超えたもの
であったかもしれないが、基本的アプローチの妥当性は裏付けられている。

 本論文で最も重要な指摘は、ソーシャル・メディアの基本的な役割が、大量な
情報を速報するマスメディアと異なり、情報に関する批判と評価を議論する[公
共領域]を提供するという点だ。そして、特殊的に重要な役割が、行動や集会を
組織するための連絡、連携を促進することにある。本誌の目的もこうした議論に
公共領域を提供する事にある

 日本のソーシャル・メディアについて、興味あるコメントが外国人特派員クラ
ブ機関誌『ナンバー・ワン新聞』1月号に掲載されている。「日本の政治とソー
シャル・メディアの迷路」と題する4ページの論文の筆者は、『ファイナンシャ
ル・タイムズ』ドイツ版の記者、マーチン・ケーリング。かれは、「日本語のブ
ログ数は世界中の英語のブログよりも多いが、政治的役割がほとんどない」と論
評し、政治議論の不在と政治的低迷の相関関係を論じている。この意味で、ソー
シャル・メディアの役割が日本では不在と断じている。

 最後にお断りしておくが、紹介したシャーキー論文は、ソーシャル・メディア
自体の意義を論ずるというよりも、アメリカの外交政策批判に焦点を当て書かれ
たものである。これは発表された媒体の性格からみて当然である。論文の中で
は、中東やアジア諸国における近年の事例が論証のために具体的に言及されてい
るが、紹介に当たってはこの部分をほとんど割愛した。

       (筆者はソーシアルアジア研究会代表)

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