■臆子妄論  

~どうでもいいこと、よくないこと~  西村  徹


◎ワンセグ大臣と永井文相


  国会の委員会質疑に応じるべき席上で二人の大臣が目の前で行われている野党
議員の質問演説をワンセグで見ていた。それをメディアがとりあげて野党から不
謹慎だと叱られる羽目になった。そして謝った。
  三木内閣のとき東京工大教授の永井道雄という人が文部大臣になった。共通一
次試験(現在のセンター入試)の制度を導入した人である。趣旨説明に立ったと
き(だったと思う)上着のポケットに片手を入れていた。野党議員がこれを見咎
めた。
  それとこれとを一緒にはできない。ワンセグ大臣と一緒にしては永井氏に気の
毒である。しかし重なるところもある。
  まず永井氏の場合を考える。永井氏は教授生活のなかで講義中ポケットに手を
入れることがあったであろう。立ってしゃべっていて四六時中棒のように立って
いるのは軍人ならいざしらず普通人にはまずありえない。案山子じゃあるまいし
無意識に手がポケットに入ったりすることは間々あるだろう。西洋人が演説中ズ
ボンのポケットに手を入れていることはよくある。ナポレオンの肖像画は右手を
チョッキの合わせ目からヘソのあたりに突っ込んでいるのが多い。田虫が痒かっ
たという説もある。
  同僚のイギリス人が会議中、座ったままでいいところ、わざわざ起立して発言
しながら、やはりズボンポケットに手を入れていた。あとで注意してやったら「
なぜいけないのか」と不思議がる。和服のばあいの「ふところ手」ということを
説明すると、異文化新知識として感心していた。仕草、身振りにはその土地その
土地でいろいろあってやっかいだ。


◎ところ変われば


 日本人はお辞儀をする。のべつまくなしにお辞儀をする。そうしていないと、
どうかすると頭が高いといわれるおそれがある。ガイジンはお辞儀しないかとい
うとそうでもない。するときとしないときの区別をどこでするのかいまだに私に
は判然としない。その角度も,どこでどう決めているのか判然としない。
  握手というのも、いつのころからか日本でもさかんになっている。昔から日本
でも子どもはお手々つないで仲良く遊ぶ。クエーカーの人たちが沈黙の祈りをす
るとき互いに手をつなぐのなども精神のつながりを確かめあうことがはっきりし
ているから自然だ。そうでないとき、見掛け倒しでわざとらしい握手は気持ちの
悪いことがある。フランスやロシアのように髭面と髭面をくっつけて頬っぺたを
吸うなど見ているだけで辟易する。ソビエトの時代のロシアでは、頬ずりした後
どっちかが粛清されたりするからなおさらである。ところ変われば品変わる。郷
に入れば郷に従えということではあろうが。


◎ふところ手とポケット手


 ポケットに戻ると、ふところ手のほかにミリタリズムも背景にあるかもしれな
い。私の出た旧制中学の制服は冬でも手を突っ込めないようにズボンの横ポケッ
トはついていなかった。そして手袋は禁制であった。外套ももちろん禁制、暖房
のない冬の教室では手がかじかんで筆記不能であった。軍服でもズボンの横ポケ
ットはついていたから、軍隊のサルまねが行き過ぎて軍顔負けの非合理な拘束衣
的厳格主義だった。
  永井文相の場合はズボンでなく上着のポケットだった。多分いつものクセだっ
たのだろう。空いた手をぶら下げているのはまさしく手持ちぶさたなものだ。ズ
ボンでなくても鵜の目鷹の目の野党議員は見逃さなかった。私はその悪がきのよ
うな野次に、テレビを見ながら恥ずかしくなったことをおぼえている。永井氏は
苦笑しつつ「ハイ」と言って手を出した。
 
これにくらべればワンセグ大臣は多少叱られても仕方ないかもしれない。修身
の授業中に次の時間の英語の予習をするなどを内職と言った。公務員などで勤務
時間中にマンガを読んでいるなども目撃している。しかし大臣らは目の前で気炎
を上げているのをテレビ画面でも見ていたのだから別のことをしていたわけでは
ない。だからそれは内職にはあたらない。教師が教科書と寸分違わぬことをしゃ
べって生徒が教師の方でなくて教科書を見ているのと似ている。ただ念を入れて
いただけである。しかし念を入れる必要がまったくないのに念を入れるのはまっ
たく意味がない。まったく意味がないのに余計なことをしたのだから心理的に内
職であって、したがってまったく実害はなくても不謹慎ということになるのかも
しれない。
 
あるいは怪気炎をあげて吠える議員をワンセグの極小画面に閉じ込めれば異化
というか矮小化というか、怪気炎が発する動物臭気がいくらかは減衰するという
心理上効果はあったかもしれない。たしかにちょっと面白そうで、やってみたく
なりそうにも思う。そうなると意味がなくはなくなって叱られるべくして叱られ
たということになるのかもしれない。しかし、いかなる意図によるものかは当事
者に聞いてみなければわからない。わからないまま叱るのもわからないまま謝る
のもわからないはなしである。


◎笑わせておいて「笑うなッ!」


  笑うべきでないときでも笑ってしまうことがある。今は少なくなったが昔の葬
式は畳座敷でのことが多かった。若い女が死んだ。多勢友達が弔いに来た。皆泣
いていた。焼香になって若い男が立った。立つには立ったが足が痺れて濡れた雑
巾のように床に崩れた。若い女たちは笑いをこらえることができなかった。泣く
ことと笑うこととのせめぎあいに身を捩った。これを笑うなとは誰にもいえまい

  子どものころ教育勅語のチンオモーニ ワガゴーソコーソーが始まると大変だ
った。噴き上げてくる笑いを押し殺して体の中に閉じこめようと皆は必死で小刻
みに身を捩った。その漣がひろがって細かく全体が波を打った。会議で勇ましい
演説を誰かがしていた。そのなかで、ふと笑ってしまうような文句がとび出して
皆が笑った。笑いが取れたら「サンキュー」だろうに「笑うなッ!」と演者は一
喝した。笑わせておいて「笑うな」は理屈に合わないが、みんな神妙に首をすく
めた。これはおもしろいほど必ずそうなるので私もやってみたことがある。その
とき矢張りおもしろかったが後味は悪かった。こんな恫喝は日本文化に固有では
なかろうか。
  ワンセグ大臣らは勇ましい演説を笑ったのではないが笑ったものと認定された
。事実ひそかに笑ったのであったろう。それで叱られた。しかし、これまた日本
文化に固有でなかろうか。


◎泉山三六トラ大臣


  今からちょうど六十年前の1948年12月13日、泉山三六という大蔵大臣
が泥酔して予算委員会に出席、そのうえ廊下だか食堂だかで山下春江という柔道
ニ段の女性議員に抱きついて顎に噛み付くという珍事があった。酔態で議場にあ
らわれたところは新聞の一面に大きく写真が出たように覚えている。
  10月19日に大臣になって12月14日、いさぎよく大臣と議員の両方を辞
めた。かえってトラ大臣として有名になり、1950年参議院の選挙では全国区
から第7位の高得票で返り咲いた。なにをやらかそうが目立つことをすれば知名
度が上がって票になるのは今も変わらないが、なりたてほやほやの2ヶ月足らず
で大蔵大臣職を棒に振るような無鉄砲というか自滅的蛮勇が、仲蔵の定九郎みた
いに意外性によって大向こうを唸らせたという側面もあった。娯楽が少なかった
からでもあるが、世はおおらかであったといえる。
 
それにくらべると人畜無害のワンセグで叱られて神妙に謝るようになったのだ
から大臣も「よい子」になったものである。せめて照れて笑うぐらいはあっても
よかった。大臣もケチくさくなったが騒ぎ立てる議員の方もケチくさくなった。
  麻生首相が毎晩ホテルでメシを食うとか,ホテルのバーでしめるとかをマスコ
ミはがやがや言う。がやがや言うのは勝手だが、ホテルは安全だし、人目に立
つことも少ない。脂粉の香もなく清潔だ。飲んで遊んでいるようでも、息抜きを
兼ねて、なにかと情報交換の場は必要であろう。高いの安いのと、ひとの財布
のことをマスコミがあげつらうのは商売だからそれもよかろう。大衆が反応し
て怒ったりするのも当然だが、政治評論家と称する人までが、それに嘴を入れ
て,朝のウォーキングまで「やめるべきである」などとやつかみめいたことを
言う。総理になると基本的人権まで制限されることになるのだろうか。「やめ
るべきである」より「すべきである」ことをいうべきであろう。


◎世襲


 世襲議員の論議にしても同様である。たしかに世襲議員には絆創膏議員もいる
。さりとて人は出自、門地によって差別されてはならない。バカ息子もいればト
ンビがタカを生むこともある。与党に限っても、世襲でも親よりすぐれている場
合もある。石原慎太郎より石原伸晃のほうが言葉遣いも行儀作法もはるかに上等
だ。能力もたぶん上等だろう。新銀行のていたらくを見れば、どんな息子でも親
父よりは上等になるだろう。石破茂なども、先代のことは知らないが、本人は軍
事オタクで鉄道マニアであろうとなかろうと、教育基本法に愛国心を織り込むこ
とに反対するなど、右翼論壇の渡辺昇一から国賊呼ばわりされるぐらいに、スト
イックな筋が一本通っている。テレビから飛び入りして猟官一途のオポチュニス
ト舛添要一よりはるかに節操がある。他にもまだまだいるだろう。
 
世襲に問題があるとすれば職業の世襲ではなく選挙地盤の相続にある。世襲の
新人がはじめて立候補するときは相続税的に得票数から一定割合を差し引いたら
よいという人がいるが、それでは投票者の権利まで差引くことになるからまずか
ろう。それよりも親の選挙区からの立候補を禁じればよい。世襲というのかいわ
ないのか、親から子への世襲より連れ合いの議員が死んでヨメさんがポッと出る
のにひどいのがいる。議員になってもまるでなんにもできないのがいる。


◎力士と大麻と八百長と


 どうでもいいことに大騒ぎする例として力士と大麻のはなしもバカげている。
もともと大麻は自生しているし、栽培もされて民間に薬草として鎮痛剤、鎮静剤
として珍重された。それを進駐軍が来てタバコ産業の利益のために根絶させた。
タバコ産業に駆逐される前は農業の重要産品であった。アメリカの独立宣言も大
麻の上に記された。帆布、ロープ、衣類、帽子、蚊帳、薬品と汎用された。地名
にハンプシャーとかヘンプステッドとかhemp(麻、大麻)を含むものが多いことか
らも、いかにその生産が盛んであったかがわかる。麻布とか麻生とかもある。麻
袋(ドンゴロス)は穀類、コーヒー豆、砂糖、肥料、羊毛、綿花、鉱産物、硬貨
などのほかセメントの容器にも適する。だから麻生セメント、というわけでもな
かろうが。
 
このところこの国では大麻密売や吸引が毎日のように報じられる。学生の間に
大麻がひろがっているという。ただそれだけのつまらないことが大きな活字で新
聞に出ている。どんな害があるか、タバコより悪いか悪くないか、なぜタバコは
害についてもさかんに報じられながら年齢制限があるだけで公然と売られている
のか、なぜ大麻は害についてもろくに報じられずに異様にきびしく禁じられてい
るのか。先進諸外国では大麻にかぎって規制はきわめて緩いのがグローバルスタ
ンダードである。これに対して、なぜこの国はここまでヒステリックに反発する
のか。そのような疑問にこの国のメディアは一切応える努力をしない。思考停止
状態を装ったままである。
 
大麻ぐらいと思っても、それでは飽き足らなくてさらに強いドラッグへとエス
カレートする、というのがこの国で言われる建前論だ。大麻も強いドラッグも同
じ密売ルートを通して買うしかないからそうなる。大麻を他のドラッグから切り
離してタバコと同じ仲間に入れれば状況は変わる。タバコからタバコには飽き足
らなくてドラッグへということがないのを見ても分かる。
  オランダではコーヒーショップで大麻を売っているという。「害をなくす」の
でなく「害を少なくする」harm-reductionという考え方があって、大麻のような
、タバコよりはるかに害の少ない、禁断症状もないソフトドラッグを解禁して、
そこで穏やかにガス抜きして、ヘロイン、コカイン、覚せい剤などのようなハー
ドドラッグへの歯止めにしようというのだ。事実効果をあげているらしい。禁煙
治療に大麻というのもいい智惠かもしれない。うつ病治療にもよいかもしれない

  私の知人で死ぬのが怖くて心配で死にそうになっている、もうすぐ83歳にな
る坊さんがいる。死ぬのが怖いから酒もタバコも呑まない。胃にゴマ粒ほどのガ
ンが見つかって、それはそれは大騒ぎしたあげくに内視鏡手術で切除した。それ
でも心配でPET検査の結果、身体じゅうのどこにもガンはないと分かった。なに
も心配することがなくなったら今度はなにも心配のタネがないのが心配でならな
いそうだ。この坊さんに大麻を吸わせたら死ぬのが怖くて心配で死にそうになっ
たりしなくなるだろうと思う。
 
オランダ方式は、たとえていえば、いきなり非武装ではなく、まず軍縮という
ようなものだ。いまの憲法が完璧なわけでないが当面下手にいじらない方が無難
という消極的護憲。民主主義が他の体制よりまし、民主党が自民党よりまし、つ
まりとりあえずlesser evilを選ぶという考え方に似ている。排除より寛容、圧
力より和諧のプラグマティズムだ。いまどきガイジン力士が大麻を吸ったぐらい
でこんなに目くじら立てるのはあきらかにアナクロニズムだ。八百長にしてもお
なじだろう。勝負を商売で見せるショーだから八百長も隠し味だ。水だってミネ
ラルがあるからおいしい。なにも不純物のない蒸留水では不味くて飲めまい。


◎麻生太郎のじつはチョロイ弁論力


 麻生首相は弁論に強いと言われる。どのように強いのか興味があって国会中継
を見た。長妻昭議員が資料の事前検閲について質した。野党が農水省に請求した
資料を、請求した当の野党に渡すより前に与党に見せていたという。長妻議員は
「与党にも渡す必要があるのなら、事前でなく、同時にすべきだ。あるいは事後
でもよい」と言う意味のことを言った。首相はこれに答えて「事後でよいなら事
前でもよい」と開き直った。
 
後ろから乗って前から降りる約束になっているバスに、約束を破って勝手に前
から乗るのは困るといっているのに、後ろからがよいなら前からでもよいという
ようなものだ。物理的に乗ることができるかできないかでなく乗り降りの約束、
渡すことができるかできないかでなく渡す順番を言っているのに、できるかでき
ないかにすり替えて順番を無視した。尻をまくって胡坐をかいたにひとしい。
  これはもはや、ならず者がケンカの売り言葉である。詭弁とか暴論とかいうよ
り暴言である。イカガナモノカぐらいではすまない。一国の宰相たるの品位が問
われよう。麻生氏の弁論力の正体はこの程度なのかとがっかりした。どんなに苦
しくてもいったん首相になった以上こんな薄っぺらいハッタリは小泉純一郎かぎ
りにしてもらいたい。どんなガラッパチでも川筋者でも、いったん首相になれば
君子豹変しなければならぬ。
 
首相はfair game(誰もが撃ってよい獲物)である。あるべきである。それが
最高権力の座にある者の支払うべき代償だからだ。説明責任は回避できない。首
相の直後に答弁を求められた石破農水相は辞を低くして率直に非をわび改めるこ
とを誓った。二人のクリスチャンが執った態度はまったく正反対であった。党派
を超えて農水相は首相答弁を否認した。
  ホテルだのウォーキングだのと箸の上げ下ろしみたいなことでなく、こういう
実はきわめて劇的な場面にこそ政治評論家とかいう人たちは鋭く切り込んで議論
をしてほしかった。これはどうでもいいことではない。
                        (筆者は堺市在住)

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