■臆子妄論

~うんと古本のB. ラッセルとW. ジェームズ ~  西村  徹


◎バートランド・ラッセル『人類の将来―反俗評論集』


しがない年金生活者は新刊書には手が出にくい。自然古本屋に足が向く。店頭
でバートランド・.ラッセル『人類の将来―反俗評論集』(理想社)といううん
と古い本が目に入った。開けてみると「第一章 哲学と政治」の冒頭が目に入る

  「近代ヨーロッパ諸国民のなかでイギリス人が特にめだっている点は二つある
がその一つは彼らの生んだ哲学者たちが優秀だということであり、もう一つはイ
ギリス人は哲学を軽蔑するということである。これら二つの点はイギリス人の智
慧をよくしめしている。」
  即座に大枚150円を払って買って帰った。特にイギリスが好きというのでな
くて、特にドイツが嫌いというのでもなくて、ただドイツ観念哲学に強い劣等感
を抱いている私は、こういう文章に出会うとうれしくなってしまう。

 読み始めると「しかし哲学を軽蔑することも、それが体系的になされるところ
まで発展するとそれ自身が一つの哲学となる。アメリカで『道具主義』と呼ばれ
る哲学がそれだ。
私がいおうとしているのは哲学がもし悪しき哲学であるならば危険であるだろう
し、したがって稲妻や虎にあたえられる程度の侮蔑を受けるに値するということ
だ。『善き』哲学に対してすすんではらわれる尊敬がどういうものであるかにつ
いてはしばらく未解決にのこしておこう。」とある。
  「稲妻や虎にあたえられる程度の侮蔑を受けるに値する」に私はまごまごして
しまう。翻訳で哲学書を読みなれている人は平気かもしれない。たぶん念力みた
いなもので呑み込んでしまえるのだろう。勘の悪い私はそうはいかない。すんな
り消化できなくて調子が狂ってしまう。虎を侮蔑するような豪傑も百万人に一人
ぐらいはいるかもしれない。しかし稲妻を侮蔑するような酔狂な人はいるだろう
か。稲妻を恐れない人はいるだろうが侮蔑する人はいるだろうか。頭のよい人な
ら気にしないことが気になる。

 原文にあたってみると、「侮蔑」はnegative respect の訳らしい。「『善き
』哲学に対してすすんではらわれる」ほうの「尊敬」はpositive respect の訳
らしい。おなじ尊敬だけれども「積極的」と「消極的」のちがいがあるだけだか
ら決して「侮蔑」ではない。ほんの少し前にcontemptを「軽蔑」としている。co
ntemptとは別な言い方をしているのだから別な訳しかたをしてもよかろうにと思
う。negative respectが煮詰まってcontempt にまでいってしまうことはありう
る。ありうるが、そこまで行かぬ場合もありうる。たとえば私がイエス・キリス
トに対してはpositive respectをはらうが旧約の神にはnegative respect をい
だくといったとして、私は旧約の神を畏れはしても侮蔑することはない。「消極
的尊敬」なら「敬遠」というぴったりの日本語があるが、概念規定にきびしいは
ずの哲学・倫理学の先生がどうしてそれを使わなかったのか不思議に思う。編集
者がこれをなんとも思わなかったのも不思議だ。こういうことであんまり文句は
つけたくないが第一ページからこれだと先が思いやられてちょっと困る。

 ついでに言うと221ページに「我々はドイツの子供たちが空腹で死んでいって
いるあいだ、うまい焼肉やあたたかいロール巻きをたのしんでいる」というのが
出てくる。「あたたかいロール巻き」?ロールはすでに巻いたものだ。巻いたも
のをさらに二重に巻くのだろうか、いったい何に何を巻くのだろうかと調べてみ
ると、それはhot rollsで、「焼きたてのロールパン」のことらしい。「ロール
パン」は「巻きパン」という訳例も見たことがある。訳者はパンだと知っていた
のかいなかったのか。

 翻訳のなされた1958年の東京では、あるいはパンの種類も今ほどに多様ではな
かったかもしれない。hotも「あたたかい」で悪くはないが、hotのほかにwarmも
あることだから「熱々」「焼きたて」がのぞましい。しかし、やはり今のように
焼きたてのパンは珍しかったかもしれない。パンといえば売店のアンパンが主流
だったかもしれない。1946年に書かれた原文のなかで、「ドイツの子どもが餓死
しているのに、われわれは飽食している」という文意がわかれば、霞を食ってい
る哲学者にとっては食うものがパンであろうがなんであろうが頓着するに値しな
いということかもしれない。
  なにぶん「虎を侮蔑」は冒頭ページに出てきたので、いきなりこんなことを書
く羽目になったが、多少の瑕疵はどんな翻訳にもある。テニヲハをちょっと添え
ればメリハリが立つであろうと思える箇所もある。しかし全体として十分りっぱ
な訳である。内容のよさはつたわる。


◎ウィリアム・ジェームズ『プラグマティズム』


 近頃プラグマティズムというものに、どうも気持ちが引かれる。前掲ラッセル
の書中の「道具主義」(instrumentalism)というのもそれだ。世界は百年に一度
の危機だという。もしかすると百年前に出た本が役に立つかもしれない。私の若
い頃は西田哲学が流行っていた。西田哲学はウィリアム・ジェームズに影響され
たというのに、なぜかプラグマティズムは亜哲学というか一段低いもののように
言われた。敵性国アメリカの哲学であったから同盟国ドイツの哲学が重んじられ
る、そのぶんだけ貶められていたのかもしれない。哲学はドイツと相場がきまっ
ていた。
  どっちにしても哲学は苦手の私にもぼんやりわかる範囲で、プラグマティズム
では真理は便利でなければならない、便利でない真理は真理でないということに
なるらしい。なんだか「仏に遭えば仏を殺し祖師に遭えば祖師を殺し」なんてこ
とを言う禅坊主なら言いそうなことでもあって、その抜けのよさが気に入ってし
まった。憲法9条は戦争をしたがる変質者にはこの上なく不便であるぶん、非戦
を願う正気の人間にはこの上なく便利重宝だ。9条がこれだけ便利重宝なのは真
理であるからだろう。
  井尻秀憲『李登輝の実践哲学』(ミネルバ書房・2008年9月刊)を読んだ。珍
しく新刊を読んだ。李登輝の、あのしなやかさはプラグマティズムというものら
しいことが書かれていた。オバマについても「彼は徹底してプラグマティックだ
」といったことを耳にする。アメリカの強欲資本主義が破綻したのはプラグマテ
ィックだったからではなくてプラグマティックでなかったからであるらしい。オ
バマはそこからもういちど、忘れられたプラグマティズムの本来に立ち戻ろうと
しているらしい。まさにプラグマティックにそれをやろうとしているらしい。
 
  1953年創元社から出たウィリアム・ジェームズ『プラグマティズム』を友人が
抄録してコピーをくれた。哲学の歴史は少なからず人の気質(temperament)の
ぶつかり合いの歴史であるとジェームズは言い、その気質による観念形成の二類
型を対照表にしたものが第一講のかなりはじめに出ている。


  ★軟い心の人             ★硬い心の人
  ------------ ------------
合理論的(「原理」によるもの)   経験論的(「事実」によるもの)
主知主義的              感覚論的
観念論的    唯物論的
楽観論的   悲観論的
  宗教的                非宗教的
  自由意志論的 宿命論的
一元論的               多元論的
独断的 懐疑的
      
  さて自分はどちらに属するか考えてみた。多分人はどっちつかずの斑であるこ
とが多いだろう。私とて、ときに宗教的にならぬわけではない。恋愛詩におとら
ず宗教詩を好む程度には宗教的である。あるいは宗教的的ぐらいか。美的である
かぎり神秘主義にも惹かれる。だから「宗教的」「非宗教的」は灰色だが、概ね
右側「硬い心の人」になるらしい。しかし「頭の悪い人」というのなら私にかぎ
り納得はしても「硬い心の人」はどうしても呑みこめない。硬派軟派ということ
なら、さしずめ私は軟派だろうと思う。硬い心より軟い心のほうだと自分では思
っている。またしても原文に当たらないと落ち着かない。
  原文を見ると「軟い心の人」はThe tender-mindedを訳したものであり、「硬
い心の人」はThe tough-mindedを訳したものであることがわかる。道理で釈然と
しなかったはずだ。結論を先に言うと、いっそ「軟い」と「硬い」を相互に入れ
替えたほうが比較のうえでよほどましなくらいだ。
  なるほどLove me tenderのtenderは「やさしく」だから「やわらかい」でいい
と思うかもしれない。牛肉のテンダーロインは腰の柔らかい部位を指す。だから
「柔らかい」だったらさほど抵抗を感じなかったかもしれない。しかし「軟い」
という字を使われると抵抗は大きい。tenderは「柔弱」ではあっても「柔軟」で
はない。「柔軟」はむしろtoughの属性である。

 Tenderはfragileとかbrittleとかeasily injuredが英語辞書には出てくる。
「弱い」「脆い」「痛みやすい」だ。Toughはdifficult to break 「壊れにく
い」とか、比喩的にはdifficult to beat, tenacious「へこたれない」「粘り
強い」とかが出てくる。さらにはhaving great intellectual or moral endur
anceというのも出てくる。肉体的にのみならず「精神的にも知的にも粘り強
い」という意味である。きわめつきはnot fragile, brittle or tenderだろ
う。つまり「強い」「弾力性がある」「へこたれない」ことだ。柔らかくはな
いが「硬い」のかけらも出てこない。

 だから、前者には「脆弱」か「繊弱」、後者には「強靭」が妥当だろうと思う
。「脆弱」「繊弱」ではtenderのnegativeな面しかつたえていない、「やさしい
」とか「おとなしい」が落ちている、片方をえこひいきして中立性を欠くという
なら「繊細」でもいいだろう。ただし「繊細な心」だと、続くmindedから本来の
「理知的」「意思的」な側面がかぎりなく薄れて「心性」ではなく「心情」hear
tedにとられかねない心配は残る。慣用としてもtender-heartedのほうが熟して
いる。反対にtough-mindedは1907年W.ジェームズが初出と登録されている。英辞
郎ではずばり「意志の強い、感傷的にならない、現実的な(考え方をする)」と
出ている。おなじくtender-mindedは「不快な現実が直視できない」と出ている
。「硬い」はとにかくまったく困る。瓜を茄子というぐらいのものではない。段
ボール肉マンとかミートホープ級に困る。「硬い」「軟い」の問題ではないのだ

 なにごとも「初めよければすべてよし」で、リヒャルト・シュトラウスは「ア
インガングで聴衆を引きつけなければおしまいまで聴衆を引き付けられないまま
に終わる」というようなことを言った。ラッセルの『反俗評論』の場合もそうだ
が、読み始めて直ぐにこういうことがあると、せっかくの読書意欲が削がれて目
がテンになってしまう。「なんじゃこりゃ」ということになって引いてしまう。
「オレはとても哲学にはついていけない」と放り出してしまうことにもなる。編
集者がまずヘンだと気付いてよさそうなところだが、編集者は読まないのだろう
か。
  抄録を作ってコピーをくれたKさんによると1957年岩波文庫に入り80年
まで25版を重ねているが、25版に至るまで、この箇所は創元社版と少しも変
わっていないという。その後絶版になったらしく、2004年に復刊の要求があ
って応じることになったらしい。現在岩波文庫を検索すると「在庫僅少」とある
から復刊されてはいるらしい。復刊されたものが修正されているのかどうかは知
らないが、もしされていないのだとすると読者には迷惑な話だと思う。最初の翻
訳は1953年サンフランシスコ条約締結によって日本がようやく独立したばかりと
いう時代だからまだ無理もないが、その後30年にわたって25版までそのまま
には恐れ入る。なぜもっとプラグマティックに対応しないのだろうか? 
Why not?
                (筆者は堺市在住)

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