■ 落穂拾記(1)

       いまもくすぶる「60年安保」       羽原 清雅
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  「オルタ」の1ページとして、連載を誘ってもらいました。ありがたいことで
した。  大ニュースの陰に忘れられていった出来事のなかには、世相を語り、
価値判断の変化を示し、また喜怒哀楽を黙殺されたり、誤解されたり、さまざま
な扱いがありました。 5、60年もすれば、人も出来事も忘れられていきま
す。派手な動きを見せた政治家、財界人でさえ、若い世代には知識の一部にも
なっていません。それが、歴史というものでしょう。しかし、小ニュースとはい
え、教えられるところは多々あります。
 
  長らく新聞記者をし、あれこれ調べものをするうちに、ふと出会って、ちょっ
と忘れがたいことなどをもとに、エッセイ風に書ければ、と思うことがありまし
た。そんなことで、折からのお話に乗らせていただきまして、題して「落穂拾
記」。 初回は、安保闘争に身を置きながら、うろたえ気味であった若いころの
自分的体験を記して自己紹介を。
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  死刑廃止論に組するかどうか。アムネスティに参加しつつ、この結論は出せな
いまま、今に至っている。「安保」も、現状のままでいいのか、という迷いの中
にある。

 50年前のあの頃、ほぼ連日、早稲田車庫からの貸切電車を連ねて、清水谷公園
に集合した。立錐の余地もない車内で、カンパ袋が廻され、なけなしの金を入れ
た。ノンポリながら、ひとつは日米安全保障条約の効用への疑問、もうひとつは
岸首相と国会のあり方への批判――この二点を強く感じていた。
 
  学内は騒然と言うか、熱気が立ち込めて、みんな生き生きとして、生き甲斐の
みなぎるような日々が続いていた。教授たちも、クラス討論にかなりの時間をく
れた。あまり授業には出なかった別役実がいた。参議院に出た柔道の吉村剛太郎
がいた。いま思えば、右も、左も、一生懸命だったように思う。
 
  非暴力を説いた七社共同宣言に反発して、クラス雑誌に長文の批判を書いたり
した。要は、「メディアは群れるな」というつもりだった。学生運動の内部抗争
をやめ、統一行動が必要、といった青臭いことを学生集会で言ったら、両派から
引きずりおろされたことを思い出した。
 
  その後、先端的過激派が跳梁して悲壮、皮相というか、暴力的というか、つい
て行きにくい数年後の「70年安保」時代とはかなりの違いがあった。過激派の内
部的興奮が引き起こした殺りくは、それ以来学生たちの政治活動の息の根までも
止めてしまった。憲法にうたわれた平和理念や、戦前の反省の色濃い民主主義へ
の思いが大衆を立ち上がらせた感のある「60年安保」とは、大きく様相を変えて
いた。

 五〇年経ったいま、まず政治面ではどうか。
  自民党政治は、長年のマンネリ手法と非改革志向を見抜かれ、飽きもきて、民
主党にバトンタッチした。その新政治も、スタート早々ながら、不穏を漂わせて
いる。双方とも、ときに「数」に頼んだ強硬策をとる。「二大政党制」をうたう
小選挙区制度を採用しながら、「連立」なしでは政権を維持できない。また、た
がいに「ねじれ国会」の困惑を経験しながら、問題法案などについて修正協議を
する、といった方策も出てこない。
 
  このように、政治対応にはあまり大きな変化や成長は認められない。一方、良
くも悪くも迫力のある政治家が影を潜めてしまったことは否定できない。
  また、有権者の側は、かつては硬派的な、偏狭というか「まじめ一本」の風潮
が強かったが、無党派層を含めて、幅が広がり、さまざまな見方が存在するよう
になった。テレビの影響か。その一方で激変を感じるのは、若者たちの政治への
関心が極めて薄らいだことだ。どの大学にいっても、政治を語る学生は極めて少
なく、立て看の姿もない。

 もうひとつの安保問題自体については、迷いが続く。
 
  日米同盟の重視はわかるにしても、普天間問題にしても、地位協定の課題にし
ても、ものをいわない日本のあり方はおかしくないか。政権が代わっても、「自
動延長→不問」の状態は変わらない。「言えない」状況が定着しすぎていない
か。沖縄の「怒り」を、地域の問題にとどめすぎていないか。 安全とは、なに
からの安全か。中国から、北朝鮮から、ということだろうが、その脅威に対応す
る軍備はどこまでを想定したらいいのか。和平に向けた外交と、脅威を前面に押
し出した軍事面との比重バランスはこれでいいのか。 そんな疑問が消えない。
説得力がない。したがって、現状肯定、という気にはなれない。

 戦争被害を知る世代であり、平和憲法がアピールされるなかで教育を受けた時
代の「かせ」に絡み取られたような気分もないではないが、戦後の「歴史」の大
きな流れは誤っていなかった、という思いはある。国家・権力と国民・市民・大
衆との関係を考えるとき、過去の歴史からすれば、国家優位のかたちがいい、と
はどうも思いにくい。
 
  たとえば、ことしのヒロシマ・ナガサキの集会には、中途半端の米国をはじめ
英仏といった核保有の国家代表が初めて参加した。六五年経ってやっと、この被
爆・反核の会議は形のうえでは国際化した。   
 
  日本の権力は戦後、核保有大国のカサに入ったことでの気兼ねや、また平和志
向の憲法にあきたらないことなどもあって、唯一の被爆国と口にしながら、非人
道的なヒロシマ・ナガサキの実態を国際的に強く訴える努力を怠ってきた。民間
が頑張っても限界があり、本来は国家としての政府が、外交が、もっともっと力
を入れるべきであった。いざというとき、国家は犠牲を強いることはあっても、
われわれをほんとうに守る気構えでいるのか、という信頼がなお薄い。

 このような現実を見るとき、安全保障のあり方にも矛盾した点を多く感じて、
その迷いから抜け出せず、「60年安保」の背後霊に付きまとわれたままだ、と苦
笑せざるを得ない昨今である。 
               
       (筆者は元朝日新聞政治部長・帝京平成大学教授)

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