<非正規>雇用を考えるための30項目
〜労働運動の視点から〜

龍井 葉二


◆【社会問題】
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1.非正規雇用問題はいま、雇用問題を越えた社会問題となっている。非正規雇用はそれ以前から増え続けていたが、ある時点で臨界点を超えたと考えられる。
2.かつては労働問題そのものが社会問題であり、労働運動もまた社会運動として展開されてきた。
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 雇用問題をイエの壁に取り付けられた窓枠に例えると、窓の開閉の支障が窓枠の調整で修繕できるのであれば、イエ全体の問題とはならない。しかし、窓枠の歪みがイエの構造に及ぶようであれば、窓枠の修繕では済まされない。非正規雇用問題は、もはや窓枠の修繕では解決不可能になっているわけだが、むしろ、イエの歪みが窓枠の歪みとなって現れ、社会全体の歪みが<非正規>問題として現れていると考えるべきなのかも知れない。
 今でこそ、アルミサッシの窓枠がイエの壁に難なく収まっているように見えるが、それは決して自明のことではなかった。周知のように、資本主義生産システムはいわゆる「二重の意味で自由な労働者」の出現が前提となるが、それは単に生産手段からの「自由」を強制されるだけではなく、規律に服し(例えば、定時に職場に出向き、他人の指揮命令に従い、他人とともに働き)、自分(たち)のためではなく他人のために働くという、それまでにない働き方が強制されることでもあった。こうした強制に服する仕組みが確立していくプロセスが近代化であり、強制に服さない/服せない労働者たちは、貧困に陥るだけでなく、治安対策や社会事業の対象となる。つまり、この「労働の商品化」をめぐる問題は、社会全体の統治や秩序に関わる問題であり、政治問題であった。
 どの国や地域においても、初期の労働運動は、労働の対価としての賃金引き上げという要求と同時に、「商品化」そのものをめぐる闘争という側面を色濃く持っていた。それは、市場社会という「悪魔の挽き臼」に対抗する「社会の防衛」(K・ポラニー)だったといえる。

◆【戦前期】
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3.日本では雇用社会への移行は職能団体・ギルド社会の再編としてではなく、多くは企業組織・企業社会への移行として進展した。
4.1920年代以降に正社員が誕生し、概念的には正規/非正規の区分けが生まれたが、非正規問題だけが問題化したわけではなかった。
5.戦時体制は、労働の移動を禁止する一方で、生活給をベースとした賃金統制を行い、一部にとどまっていた就社的雇用慣行が広がった
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 雇用社会という窓枠の形態や文様は、地域や歴史によって多様である。
 仕事のあり様として、一般的には、1)「仕事に人がつく」職人型と、2)「人に仕事がつく」奉公人型の二つのタイプに分けられ、これらは洋の東西を問わず存在する。どちらかが望ましいというわけでもないが、西欧では、ギルドの伝統もあって前者のタイプが主流となり、労働組合も労働市場もそれをベースに形成されてきた。
 日本でも、かつてはこの二つのタイプが併存していたが、日清戦争以降の急速な近代化=重工業化のもとで、基幹産業においては、それまで一般的だった「渡り職人」を個別企業に引き留める動きともに、「生え抜き」社員を自ら育成する動きが広がっていった。「正社員」と、就職ならぬ「就社」の誕生である。
 しかし、こうした動きはまだ一部の基幹産業にとどまっており、多くの中小・零細企業においては、その多くが不安定・低賃金労働であり、とくに都市部の「都市雑業層」は裾野の広いインフォーマル・セクターを形成していた。つまり、正社員の区別される非正規雇用というより、底辺労働全体が大きな社会問題となっていた。

 上記の「正社員」が日本全体に定着していくには、戦時動員体制という「強制」を必要とした。すべての国民を動員=徴用するには、一定の生活保障が前提となるが、その際に、一部の企業ですでに広がっていた生活給=年功給的な制度を法律を通じて普遍化したのである。
 (そういう意味で、いわゆる「日本型」雇用システムには、文化的、民族的な根拠があるわけではないが、それを抜本的に変革するには、戦時体制の時のような「強制」を必要とするのかも知れない。)
 もちろん社会問題が解決したわけではなく、労働争議は戦時動員体制に移行する直前まで増加し続けていたが、「国体」というイエ体制はそれらを封殺する体制でもあった。

◆【戦後期】
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6.戦後復興のなかでも、多くの労働者の低賃金・不安定の状況は変わらず、労働組合は、事業所をベースに職工一体のものとして組織された。
7.戦前に横行していた組請負・人夫貸は、戦後の職安法で禁止されたため、臨時工が増大。一部の労組は臨時工の本工化に取り組んだ。
8.戦後期の労働運動は、占領下から独立に向かう状況下で国民運動とそて展開され、雇用問題は正規/非正規という区分け以上に、経済社会の「二重構造」の問題として論議された。
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  敗戦は、イエそのものの崩壊を意味した。戦時動員という大義を失い、どのように生産体制を確立し、社会秩序を回復するかが、改めて根底から問われることになる。
 インフレに追いつくための「労働の対価」引き上げを求めることもさることながら、仕事の確保、職場の管理そのものが退っ引きならない焦点となる。
 それだけではない。米軍の占領下において、イエとしての独立や平和・再軍備問題、そして労働者としての基本的な権利に関わる課題などが、労働運動にとっての大きな焦点となったのである。

 戦後民主化と一体のものとして広がった労働組合運動は、労働市場における取引交渉だけでなく、社会運動、国民運動として展開され、1950年に結成された総評は、その後まもなく「ニワトリからアヒルへ」の変身を遂げ、「民族の太い柱」としての役割も担うようになる。こうした運動の広がりは、組織内から「政治偏向」の批判を招いただけでなく、大河内・東大教授らも「労働組合本来の任務からの逸脱」だとする批判を展開した。
 雇用問題という窓枠の再構築をめぐる確執以上に、イエそのものの再構築をべぐる確執が焦点となっていた時代、労働組合運動が地域や他の階層と一体となった運動を展開せざるを得なかったのは、ある意味で当然といえるかも知れない。上記のような運動の広がりは、一部の労働運動リーダーの指導理念によるものではなく、職場や地域に根ざした「下から」の運動によって引き起こされたものだからである。

◆【高度成長期】
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9.高度成長への移行は、労働運動の転機をもたらし、「市場内」的取引関係が主流となるとともに、企業別組合が確立していった。 
10.そこで形成されたのは、いわゆる「日本的」雇用システムというべきもので、正社員が企業内訓練を経て、スキルの面でも、稼ぎ手の面でも「一人前」になる仕組みであった。
11.これは同時に「雇用・扶養システム」でもあり、非正規雇用問題はそのなかに「内包化」されていった。
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 日本というイエが、企業別の労使関係という窓枠を基礎として安定的な構造物に移行するのは、60年代に入ってからのことである。
 高度成長経済と、安保条約改定後に登場した池田内閣の「所得倍増」政策の下で、労使のせめぎ合いは、「市場内」取引の枠内のものとなっていく。時を同じくして、総評も「日本的労働組合主義」を掲げ、国民運動や社会運動から経済闘争へと軸足を移していく一方で、労働組合の政治闘争は選挙活動と議会対策へと明確に仕分けられていくことになる。
 また、春闘という波及メカニズムを通じて、賃金の引き上げ幅が中堅・中小企業にも連動していくとともに、戦後期に広がっていた臨時工も企業の正規雇用として吸収されていく。こうして、高度成長と春闘が連動することで、やがて「一億総中流」が形成されていくことになる。

 こうして形成される企業社会に特徴的なことは、1)男性正社員が企業の「家族的経営」に包摂されると同時に、2)この男性正社員が世帯主として、他の成員を扶養するという、二重の家族的包摂の仕組みが確立したことである。
 つまり、単に企業という窓枠が全体を覆いはじめただけでなく、それが労働者世帯という家族を伴うことで、イエ全体の基礎構造を形成していったといえる。
 これは、かつての戦時システムが企業間競争システムに移行し、「24時間戦える」戦士と銃後の守り(女性、子ども、高齢者)に再編されたものと見なすこともでき。ここでは女性は当初から「一人前」とは扱われず、仕事に就いたとしても非正規=被扶養の労働力として想定されていた。

◆【パート・派遣】
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12.臨時工は徐々に正社員化され、それに代わってパートタイム労働者が増加し、労働団体のなかからパート労働法の要求が高まったが、なかなか実現には至らなかった。
13.パート労働問題に対し、労働省は当初、労働基準の問題として対処しようとしたが、結局は福祉問題、女性問題として処理する道を選択した。
14.他方、禁止後も横行していた違法派遣に対し、労働省は、その違法状態を追認する労働者派遣法の制定に踏み切り、その後も実態を追認する法改悪が重ねられていった。
15.当時の雇用政策をの背景にあったのは、前述の雇用・扶養システムを前提にした「縁辺労働者は基幹的であってもミゼラブルでない」(高梨)という判断であった。
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 臨時工の前身は上記の「7」で触れた組請負・人夫貸といった労務供給である。これはピンハネ、人身拘束だけでなく、雇用責任逃れ、労使関係逃れの温床でもあり、「人権侵害」として捉えられたことにより、戦後に制定された職安法で禁止され、その多くが臨時工や社外工に姿を変えたのである。
 「臨時工問題」は、戦後期において社会問題として浮上しつつあったが、その後、高度成長期を経て、非正規雇用問題は「パート労働」問題と「派遣労働」問題として展開されていくことになる。ここで留意すべきなのは、当初、総務省の行政監察などの指摘を受けて、労働政策や基準行政の対象として真剣に検討されかかっていたという点である。
 つまり、パート労働については、その賃金について同種の労働者との格差が問題とされ、派遣労働については、違法派遣の横行が問題とされたのである。
 しかし、それらは労働政策や基準行政として具体化するには至らず、パート問題は女性福祉問題に矮小化され、派遣労働に至っては、労働者保護の視点をまったく欠如したまま、違法状態を合法化する「業法」が制定された。ここに、非正規雇用問題が今日まで放置され、その拡大を許してきた大きな要因がある。

 確かに、派遣労働に関しては、外資系の人材ビジネスの圧力が背景にあったことは事実だが、それを許容した労働行政の責任は重たい。パート労働対策や派遣労働対策の基本スタンスを裏付ける形になったのが、当時の職安審座長であった高梨昌氏が示していた認識で、それはまさしく企業中心の雇用・扶養システムが機能していることを前提とするものであった。
 つまり、非正規雇用は、「基幹的」とはいえ、窓枠と壁の隙間を埋める緩衝材としての地位を与えることにより、それが「問題化」することが葬り去られたのである。

◆【地殻変動】
————————————————————————————————————16.90年代末に雇用の「地殻変動」といういうべき変化が起こり、正社員数が98年をピークに減少に転じ、非正規雇用への代替が進んだ。
17.その変化の背景として様々な要因が指摘されているが、決定的なのは、(1)長期→短期、(2)従業員→株主利益、(3)人事労務→財務へとシフトした経営の変化であり、それは日経連「新時代の日本的経営」の思惑をも越えるものであった。
18.一方、雇用政策については、94年のOECD雇用戦略以降、規制緩和と人材ビジネス支援策が強められ、派遣労働の製造分野への解禁などが進められていった。
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 冒頭で触れた「臨界点」というのは、非正規雇用の比率がある水準を上回ったということではない。正社員→非正規雇用への代替という質的な変化、さらにはそれを導いた思想の転換に求められるべきであろう。
 その思想的転換というのは、やや単純化していえば「日本的」雇用システムに関する評価の転換といえる。戦後の高度成長期においても、欧米型へのキャッチアップをめざしていた時代は、日本型イコール特殊、遅れという価値観が根強かったのだが、80年代の「Japan as No.1」の時期になると、『文明としてのイエ社会』に象徴されるように、日本型をむしろ高く評価する論調が広がるようになる。そして、冷戦終結以降のグローバリズムの蔓延のなかで、その評価が再逆転するのである。
 年期的処遇制度を維持する企業の株価低下が話題になったりしだが、労働行政においても、『99年版労働白書』が「日本の長期雇用慣行は障害になっている」と明記する事態になる。

 考えてみれば、金融資本は生産資本よりも遙かに長い歴史を持ち、生産資本のG−P−G’に対して、G−G’は生産関係、雇用関係が介在しない。極端な例でいえば、ある企業を買収し、大量の人員整理を行い株価が上昇したところで売却すれば、生産に関与せずとも莫大な利益を得ることができる。こうした価値観に立てば、長期雇用慣行は確かに「障害」となるだろう。
 資本は、労働者を「使用」する主体ではなくなっていくので、使用者団体たる日経連は経団連に吸収され、労使関係は労資関係に転じていく。かつての「労使安定帯」(桜田元日経連専務理事)が日本社会の基盤たり得なくなる、それが集中的に現れたのが「非正規」雇用問題であった。

◆【ワーキング・プア】
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19.正規→非正規への代替は、(1)正規と同じ仕事を担う非正規、(2)自ら主たる生計を担う非正規という想定外のタイプを生み出し、「ミゼラブルでない」というかつての前提条件が崩されていった。
20.こうして02〜07年の景気拡大期に「格差と貧困」が拡大し、非正規雇用問題は、社会問題、さらには政治問題として焦点化することになり、第1次安倍内閣はパート法と最賃法の改定を余儀なくされた。
21.08年のリーマン・ショックとその後の「派遣切り」の広がりは、非正規問題、貧困問題をさらに深刻化させ、企業の対応や政策的な対応に変化をもたらしたかに見えたが、「反転」には至っていない。
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 すでに触れたように、主婦パートや学生バイトなどの非正規雇用は従来から存在していたし、低賃金・不安定雇用という問題も従来からあった。だが、「ワーキング・プア」とはいわなかった。どんな貧乏学生でも、その先に正社員としての就職が待ち受けていたからであり、最賃スレスレの主婦パートも、シングルマザーでない限りは、家計補助的な働き方だったからだ。
 ところが、その前提が崩れ去る。ここで起きた「地殻変動」は、単なる量的な意味での格差の拡大ではない。まさしく地盤の変動であり、これまでイエを支えてきた雇用・扶養システムそのものの変動である。この変動に耐えかねて、窓枠の緩衝材として押し込められてきた非正規雇用問題が、一気に外に向かって噴出したのである。

  これは、上記「2」で触れた、資本主義創世期に起きたことに近い現象といえる。ただ単に低賃金というだけでなく、税や社会保険料を支払えない、雇用保険の給付も将来の年金の受給もできない、将来の生活設計ができない、世帯を持てない…といったことが「例外」でなくなるとすると、イエの成員として想定していた「国民」から逸脱することとなり、政治危機にならざるを得ないからである。
  少なくとも、第1次安倍内閣には、そうした危機意識があったことは間違いない。(第2次安倍内閣の政労使会議との大きな違いといえるだろう。)
 この政治危機は、その後、リーマン・ショックを経て政権交代として現実のものとなる。また、この時期には上記の「17」と「18]」をめぐっても様々な議論が展開された。
 「反省とパラダイムシフト」(連合方針)、「長期雇用の再評価」(労働経済白書)、「労働再規制」(五十嵐仁)、「正社員回帰の兆し」(JILPT調査)などなど。

 確かに、前述のパート労働法改正、最賃法改正や、麻生内閣時代の「第二のセイフティネット」などの動きはあったものの、民主党政権を経て今日に至るまで、抜本的な「反転」は起きていないといわざるを得ない。
  つまり、60年代以降に日本社会というイエの屋台骨を形成してきた雇用・扶養システムが機能し得なくなり、それが非正規雇用、とりわけ自ら主たる生計を営む非正規雇用労働者の問題として現れているという事態は、依然として未解決であるどころか、むしろ深刻化しているといえる。

◆【労働組合】
————————————————————————————————————22.労働組合は、法制度対応では早くから取り組んできたが、非正規労働者の組織化・労働条件改善については大きく出遅れ、職場における非正規雇用増加にも関与しえなかった。
23.2000年代に入る頃から、職場の過半数代表としての正社員組合の地位が危うくなったこともあり、ユニオン・ショップ協定などを通じた組織化の取り組みが進み、それ以外の組合にも広がっていったが、まだ一部にとどまっている。
24.連合は、非正規労働者を対象とした労働相談、地域における個人加盟ユニオンの組織、さらに非正規労働センター設置などを通じて「すべての労働者」の視点を強調するようになった。
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 戦後期に急速に結成された労働組合は、事業所を基盤としていて、臨時工問題に対しても、本工化を要求するなど積極的に関与する組合も少なくなかった。
 その後、企業という窓枠が定着していくに伴って、労働組合もまたその窓枠に順応した組織形態となっていく。労働組合から見ても、非正規雇用は「ミゼラブルでない」「緩衝材である」との認識があったことは否定できない。また、職場における要員に対する関与も弱く、とくにサービス分野において非正規雇用が急増していくことに歯止めをかけることができなかった。
 そうした対応に変化が迫られるのも、やはり非正規雇用問題が社会問題に転換する時期になってからであったといえる。

 筆者自身は、連合・非正規労働センター長を2年間担当した後、09年秋に離れているので確かなことは言えないが、連合が掲げた「すべての労働者」という視点は重要であるが故にハードルの高い課題であり、各職場、単組に徹底していくプロセスは今なお進行中であると思われる。
 率直に言って、労働組合という会員制の組織が会員の利益を最優先するのは当然のことといえ、あえて窓枠の外に目を配る必要性はないわけである。筆者は当時、「労働組合運動はメンバーのための運動だが、労働運動はそうではない」と訴え続けてきたが、そう簡単に理解が得られるう問題ではないのだ。

 連合に非正規労働センターが設置されたのは、ナショナル・センターとしての連合はこの問題を最重視すべきだ、という共通認識からだった。ほどなく起きたリーマン・ショック後の状況のなかで、地方・地域においても連合と様々なNPOや労福協との連携による「社会運動」が目に見える運動として展開されていった。
 そして現在、再度の政権交代という新たな局面の下で、さらに広がりをもった社会運動を展開できるかどうか、が問われている。08年以降の時代は、(連合評価委員会から指摘を受けた時期とも異なり、)窓枠を中心に展開し得てきた労働組合運動が、足下から転換を迫られている状況といえよう。

◆【震源】
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25.非正規問題は雇用システム全体の「地殻変動」の一部として露呈したものであり、若年正社員の雇用不安、賃金不安、長時間労働、将来不安などもそれに劣らず深刻化している。
26.しかもこの変動は、日本社会の「戦後レジーム」(企業、家族、地域という「中間地帯」が基盤)そのものの液状化と並行して進行しており、非正規問題の背景には、地域経済の衰退や自営業の減少などがある。
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 イエの造りが地域や時代によって異なることはすでに指摘したが、日本の近代社会は、それまであった農村的な小部屋をすべて取っ払って大部屋にしてしまうのではなく、新たに小部屋に再編するという形態をとってきた。それが、前述の企業と家族を基盤とする雇用・扶養システムであり、それと連動した地域社会の連携である。
 それが日本社会の「遅れ」か「強み」かという評価はともかく、こうした「中間地帯」が戦後の社会基盤を形成してきたわけだ。
 それが崩壊の危機に瀕しているということは、いわば明治期の農村共同体の解体の危機に匹敵する事態といっても過言ではない。ここ20年にも及ぶ自民党の支持基盤の弱体化もここに起因している。真に問われているのは、それに代わる政権の受け皿などではなく、これまでのものに代わる社会基盤の再構築なのである。
 中間地帯の崩壊によって、いわば流民のように放り出されるのは、いま直撃を受けている非正規雇用労働者に限らない。若い正社員たちもそうだ。いや、すべての人が直面しているのである。
 政権交代という狭い意味の政治革命によっては、何も快活しない。皮肉にも、それが前回の政権交代劇の最大の教訓といっていいだろう。

◆【展望 1】
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27.非正規問題の「解決」は、正社員化、均等待遇、最賃引き上げなどの対策では決定的に不十分であり、従来型の「雇用・扶養システム」の再構築が不可欠となる。
28.すべての労働者が「ジョブ型」に移行することは考えられず、すべての労働者に「半人前→育成→一人前」を社会全体で保障する仕組みを構築する必要がある。
29.同時に、長時間労働が前提となっている働き方基準を見直し、「定時」勤務が規範となる法制度も不可欠であり、「限定社員」という中間を作るだけでは、現行の「無限定」な働き方がさらに無限定になることは必至である。
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 「日本的」雇用の見直しについては、すでに長い議論の歴史がある。最近に限っても、例えば、連合評価委員会報告(2003年)は、労働者が企業依存から脱却できるよう「年功賃金から仕事給へ」の転換を提起している。だが、当時、労働条件部局を担当していた筆者は、この考え方に消極的だった。かつて日経連が主張した職務給導入が挫折した経緯があること、賃金制度は雇用システムの一部にすぎず賃金制度だけ取り出して変えることはできないこと、仮に仕事給に移行したからといって賃金格差の問題が解決するわけではないこと、などが主な理由である。企業別組合はダメだから産業別組合に移行すべきだ、という議論にも似て、実務を担う立場からいうと唐突感を拭えないのである。
 もちろん仕事給に移行できる職種は大いに移行すればいいが、すべての労働者がそうなるわけではない。となると、いま企業の正社員だけが独り立ちできるという仕組みを、「会社」を越えた「社会」の仕組みとして確立していくことが重要な課題値尾なる。

 民主党政権の理念の一つだった「社会全体による子育て」という考え方に倣ったいえば、すべての労働者を「社会全体で一人前に」育て、処遇するという仕組みを作り出すことである。
 ここで留意する必要があるのは、この「一人前」は生活面においてもきちんと役割を果たすことであり、「戦士」と「銃後」という役割分担を打ち破る必要があるということである。その間に「中間」の選択肢を作るだけでは、この二分法自体は何ら変わらない。
 男女雇用機会均等法は、本来はこの二分法を解体するはずだったが、結果的に女性戦士を増やしてきたという面も否定できない。
 正社員と非正規雇用労働者の格差是正も、単なる正社員化ではなく、「だれもが一人前になれる」という、社会的な仕組み作りが不可欠となる。

◆【展望 2】
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30.非正規雇用が社会全体の液状化の一部として現象している以上、雇用対策を超えて、雇用に限定されない就労、自営、社会的企業も含めた働く場の確保とともに、役割と参加が保障される社会基盤づくり、その基盤となる地域づくりが重要となる。  
31.それらを可能にする政策転換もまた極めて重要だが、それは根無し草の議員集団によって達成されることはありえず、上記の社会基盤づくり、地域づくりの営みを通して初めて実現されるものである。
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 いま問われているのが窓枠の手直しだけでなく、イエそのものの再構築だとするならば、雇用関係が社会全体をカバーするというあり方そのものの問い直しが必要となる。
 先に触れた「社会の防衛」という視点に立てば、「ディーセント・ワーク」の実現にとどまらず、「労働の商品化」そのものに抵抗し、「市場を社会に埋め戻す」(K・ポラニー)ことが問われることになる。連合評価委員会のいう「企業に依存しない」働き方は、賃金制度の手直しによってではなく、雇用から離れた働き方として、すでに各値で展開され、広がっている。震災という災禍が、こうした動きを促しているのもまた事実だろう。
 そうした運動とネットワーク形成のなかから、住民参加と住民自治による「下から」の政策形成の動きも出てきている。一部の自治体首長が主導する「上からの分権」に対して、どう立ち向かっていけるか。正念場はこれからである。

◆【再び労働組合】
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32.労働組合がこうした課題の一端を担っていくためには、狭義の「労働条件の維持・向上」という役割から大きく踏み出し、社会基盤、より所、居場所としての役割を発揮し、それをベースに、経営者、行政と対峙していくことが求められる。
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 そうなると、労働組合が窓枠の外に出て、「すべての労働者」の視点に立つだけでは、決定的に不十分であることがわかる。
 「非正規雇用問題」がイエそのものの危機から発している以上、労働組合として独自の役割を発揮していくことは、いわば社会的責任といえる。ここでも誤解してはならないのは、新たな社会を築いていくための政策要求、政策実現だけが独自の役割ではないということである。労働組合という組織は、「労働条件の維持・向上」をめざして交渉する組織であると同時に、お互いに寄り添って扶け合うという互助・共済組織として始まったことを忘れてはならない。「組合」という携帯とのものにかけがえのない価値があり、組合自体が一つの社会基盤なのだ。
 それをベースに、他の団体やグループとの連携により、イエ全体の再構築にどう結びつけていくか。これまでのどの時代にも増して、労働組合に対する期待は強まっており、まだ同時に、その可能性も開けてきていると考えるべきだろう。

※ 本稿で触れた課題と春闘の関わりについては、拙稿「社会運動としての春闘 春闘60年—総括の一視点」(『現代の理論』第4号 http://gendainoriron.jp/vol.04/index.html)を参照。

(筆者は前・連合総研副所長)


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