【オルタ広場の視点】

<復帰前の沖縄の印象記>にみる沖縄

羽原 清雅


 前号で90余年前の沖縄の実情を訴える沖縄の貴族院議員・大城兼義の記録を紹介させてもらった。そのあと、小生の中学時代の同期生牛山高歩さんから、父君でこの中学校の校長であった牛山栄治校長の著作『理想の教師像』<1970年・春風館刊>を頂き、そこに1960年代の沖縄での体験が書かれていた。差別下にあった沖縄の改革への想いが込められており、ぜひ読んでいただきたい。
 この牛山栄治校長先生は、山岡鉄舟の研究者として『山岡鉄舟の一生』『山岡鉄舟―春風館道場の人々』などの著書もあり、校長職のあとに『修行物語』や前記の書も残されている。

 教育者一筋、小学校の教師を経て、戦後新制中学校ができる際に新宿区立の牛込第一中学校、ついで全国的にモデル校とされた同区の西戸山中<現新宿西戸山中>の各校長、東京都中学校長会会長<昭和23-32年>を務めた。さらに、日大教授となり、日台豊山高校校長、同女子校創立、群馬女子短大学長なども務めた
 体格のいい迫力ある先生だったが、当時聞いた話はほとんど記憶になく、申しわけない思いである。以下、沖縄の記録である。

 「私は7年前の昭和38年(1963年)7月、日本大学映画研究会の大学生を引率して沖縄に滞在し、糸満、知念、辺土名、名護、沖縄等各高校を巡歴して、映画並びに講演会を開催したり、民情の調査を行ったが、当時の沖縄人がもっとも悲しんでいたことは内地人の沖縄認識のゼロに近いということで、たまたま東京に旅行すると「沖縄の小学校の教科書は英語か」などと質問されたと言い、政治家などでも真面目に来島して、沖縄の将来を画策してくれる人はいないと憤慨していた。
 当時の米国民政府の長官は、弁務官キャラウェー中将で、その権力は絶大で、沖縄人による議会の立法院もあったが、米国民政府の認める範囲内についてだけ審議権があるのみで、沖縄の祖国復帰の問題など、8回も決議されていたが、その影響は微弱であった。
 当時の沖縄高校生の希望は例外なく「祖国復帰」で、教員だった屋良<朝苗>氏も何をおいても祖国復帰を熱望されていた一人であった。

 昭和37年の沖縄は、30年ぶりの冷害であり、私の滞在した38年はまた、未曽有の干害で、全島の作物の90%は絶望と言われ、水不足で、鹿児島からの水船を涙で迎えるという有様だった。
 とにかく沖縄には堅実な生産人の姿はめだたず、全島おしなべて基地依存の経済で、コザ市など、人間の享楽的欲望の本能の上に築かれたような都市である。
 「この現状で復帰を急いでも仕方ないのではないか」と質問すると、「いかなる犠牲をはらっても、とにかく祖国復帰を希望する。人民の生活を考えるのはそれから後です」というのが大多数の意見であった。

 沖縄復帰を口にすると「赤だ」と警戒された当時、昭和37年から池田・ケネディ会談で、祝祭日における日本国旗の掲揚が許されたのをせめてものなぐさめにしていた沖縄人が、4年前<65年>に、首相としてははじめて沖縄に来島し、「沖縄の祖国復帰が実現しなければ日本にとって戦後は終らない」との叫びをきいたとき、どれほど沖縄人は力づよく有りがたく感じたかわからないと思う。佐藤総理も、言明した以上は、政治生命をかけてとり組もうとしたのであることは疑いない。後に日米交渉の裏ばなしが発表になるときもあろうが、佐藤総理もニクソン大統領を怒らせる寸前まで迫ったには違いないと思う。

 先日ある新聞に「沖縄はだまっていても日本に返還されるものだ」とほざいていた無責任男がいたが、それは今頃になってはじめて言える言葉で、内地人も沖縄人も、この問題にもっと過去を反省して謙虚になり、真剣に取り組まねばならぬ。」

 以上の原稿の締めくくりに、佐藤首相の訪米<69年>で沖縄の復帰が決まったことを喜び、次のように書いている。
 「これで戦後が終わるのだ。久しく混迷を続けていた日本は、この復帰を契機として、泥沼から脱却し、明朗な新日本の建設に邁進すべきだ。残された沖縄の諸問題は、国際情勢の変化と共に、刻々と多少変貌するであろうが、経済問題とともに、日本全体の国民課題としてとりあげ、今日からでも具体的処理に当らなければならぬと思う。
 無責任に悲観材料を仮定して、民心の不安をあおることは、識者のとるべき態度ではない。」
 と述べて、結論としている。

 この文章の冒頭では、沖縄の復帰を「涙の出るほど嬉しいことではないか。最近の日本人は素直に喜ぶようにしないようになって、何かと対立を持ち込んでケチをつけたがる傾向がある」として、佐藤訪米時の妨害、「使命を果たして帰国をしてからは次々と難点をほじくりだしてケチをつけること」をあげた。
 同時に、「これから返還につれて、おこる外交上、経済上、教育上の幾多の問題があって、順を追うて適切に処理しなければならぬことは当然である。外交問題はすべて相手のあることで、相互信頼と互譲の精神が無ければ成立しないものである。徒に不利不安な点のみを想定し、仮定して、空威張りする態度は擯斥すべきだ」と冷静な姿勢を示している。

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 復帰当時、今後の問題として、いわゆる「難点」の第一に、核兵器の持ち込みが指摘され、交渉の厳しさも予想されていた。そして半世紀が過ぎようとする今、地位協定の不平等性、新基地の建設が米国ペースで進む。
 当時の素朴な「戦後の終わり・新時代の幕開け」といった思いは、残念だが乏しいままだ。
 沖縄の地元では、経済的発展の歓迎はあっても、対米関係にあきらめの気分が漂うとともに、沈潜した怒りも消えない。
 外交的に国家間の条約や協定ができても、家族や親族の身に被害を受け、あるいは精神的にダメージを受けた大衆の気持ちは容易には消えないし、変えきることは難しい。

 国家や権力の対応だけでは片付かないことだ。中国しかり、韓国との関係しかりであって、双方の望ましい関係、相互の納得は、相手の思いを察するところから始まり、その気持ちをひそかにでも身に付け続け、語り続けるところに築かれる。
 牛山先生の沖縄への想い、冷静を求める姿勢に触れつつ、そんなことが胸に浮かぶ。

 (元朝日新聞政治部長)

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