【自由へのひろば】

『俳句弾圧不忘の碑』の建立まで

マブソン 青眼


 「オルタ」165号(2017年9月号)に紹介しました『俳句弾圧不忘の碑』が18年2月25日、信州は上田市の「無言館」近くに建立されました。自由と平和を願う思いから、金子兜太先生が碑文の題字を揮毫して下さり、最後までこの除幕式には「必ず行く」とおっしゃっていましたが、2月20日にお亡くなりになり、わずか5日で間にあいませんでした。
 でも、先生の、この並々ならぬ意志の強さと優しさは、この碑のいのちとして永遠にとどまり、子ども達にも、先生がおしゃっていた「いのちは死なない」、そして人間らしく生きることを、永く教え続けてくれるでしょう。

 また、偶然というか、金子兜太の命日「兜太忌」は、特高警察に拷問されて亡くなった小林多喜二の忌と同じ2月20日となりました。さらに、この戦没画学生の絵画を掲げる「無言館」の一隅には、22歳で貧窮のなかに早逝された天才的な画家・村山槐多のデッサンが多数残されていますが、彼もまた2月20日に亡くなっています。

 この『俳句弾圧不忘の碑』建立の発案は、約2年半前に遡ります。2015年11月8日、第84回の秩父俳句道場で、金子先生と私は、昭和俳句弾圧事件について対談しました。その際、金子先生は十五年戦争中の俳壇における言論弾圧は、現代俳壇や現代日本社会にとっても大変重要な歴史である、と述べられました。
 そして、金子先生の最初の師匠であった嶋田青峰は、実はその犠牲者の一人である、と話されました。僕は驚きました。嶋田青峰は、所謂「リアリズム俳句」を作ったというだけで、1941年2月5日、治安維持法違反容疑で特高警察に検挙され、獄中で肺結核が悪化、仮釈放されたものの間もなく亡くなられました。いま確実に判明している方だけでも、このように検挙され、獄中で病を患い、亡くなられた俳人は少なくとも3人います。さきほどの東京の嶋田青峰、秋田の加才信夫、三重の野呂六三子がそうです。

 反戦的な作品、もしくは反体制と思われるような作品を作った、と言うだけで投獄された俳人達の名誉回復が、今こそ必要ではないかと、私はその対談の場で、金子先生に申しました。そして、彼らのために石碑を建てる必要もあるのではないか、と問いかけました。
 すると、金子先生は深く共感され、会場に来ていた方々に向かって、この碑に賛成する人は他にいますか、と訊いて下さいました。複数の方々が挙手しました。
 私はその日、金子先生に強く励まされ、ただちに現代俳句協会前会長の宇多喜代子先生、現代俳句協会現会長の宮坂静生先生に手紙を差し上げ、協会主催の建立が可能かと伺いました。おふたりとも「個人的には共感する」とのご返事を頂きましたが、協会主催の事業としては「難しい」とのご意見でした。それで、有志で建てようかと考え始めたのは、ちょうど2年前の冬です。

 まずは、紙の碑のような本が必要だ、と感じました。大先輩の研究者である田島和生先生、川名大先生たちの著書を元にして、弾圧された代表的な俳人十八名の小さな合同句集『日本レジスタンス俳句撰』という本を編んでみました。その本を2016年9月に、フランス・パリの出版社から、日仏2カ国語で出版しました。「弾圧された俳人の名誉回復と弾圧に協力した俳人の責任追及を」という長い序文も付けました。つまり、金子先生も常におしゃっていましたが、実は日本の場合は、上からの弾圧だけではなく、下からの弾圧も非常に恐ろしいものだったのです。

 すると、国内外の、この本の読者から「ぜひ、有志で石碑を建てようよ!」と励ましてくださる方がたくさん現れました。そんなことで、出版直後の2016年冬には、まずは4人で、「昭和俳句弾圧事件記念碑の会」の事務局を発足させました。メンバーは、本の版画を描いて頂いた池田充さん、「信濃デッサン館の会」会員の美谷島眞知子さん、私が主催する「青眼句会」会長の小林民さん、それに私の4人です。

 また、同じころに、金子先生主宰の「海程」同人である岡崎万寿さんや河西志帆さんから「ぜひ、金子先生の大好きな窪島誠一郎さんの『無言館』の近くで建てようよ」というご提案を頂き、2017年1月、三人で初めて「無言館」館主の窪島様に会いに行きました。意気投合しました。当初、窪島様は、建立地として「無言館」と「信濃デッサン館」の中間に位置する「山王山公園」の一角がよいのでは、と薦めて頂きました。
 それで5月に、上田市の公園担当者と塩田町の自治体の方々と初めてお会いし、その後、何度か上田市都市計画課の方々とお会いしました。一方では、春から夏にかけて、碑の会の呼びかけ人が順調に集まり、国内外、俳壇内外の著名な先生方69名のご賛同を賜りました。欲を言えば、例えば高浜虚子の御子孫の先生方にも呼びかけ人になって頂きたかったのですが、残念ながらご返事が返ってこなかったのです。

 それから6月から8月にかけて、今度は事務局の美谷島さんと私が中心になって、協賛金願いの封筒2,400通余りを用意し、全国、そして全世界のさまざまな方に郵送しました。すると、国内外の569名の方から総額3,377,500円が寄せられました。やはり、「この碑は、今日の俳壇に、今日の日本社会に必要だったのだ」と、私達の発案は間違っていなかった、と実感できました。

 しかし秋になり、上田市の都市計画課から「公園の土地の使用は郷土との密着な関係のあるものが好ましい」という連絡がありました。そこで、窪島様に相談したところ、「無言館」から少し離れたところにある「槐多庵」道路の反対側の「槐多庵」前庭という絶好の建立地をご提供頂けることになりました。さらに、「不忘の碑」の隣に、弾圧された俳人達を偲び、平和と表現の自由を願う、革新的な施設「檻の俳句館」の設営、という企画が浮かび上がりました。

 これは、弾圧に遭った17俳人の句と似顔絵のパネルを、鉄格子を模した檻で囲んで展示したものです。館の入り口に掲げられている「あいさつ文」を引用します。
 「治安維持法制下、戦争や軍国主義を批判・風刺した俳句等を作ったとして、四十数人の俳人が投獄されました。彼らの犠牲と苦難を忘れないことを誓い、再び暗黒政治を許さず、平和、人権擁護、思想・言論・表現の自由を願って、この『檻の俳句館』を開きました。しかし、もしかすると、かつて弾圧された若き俳人達は、私達よりも心が自由だったかもしれません。現代の私達こそ、檻の中で生きているのではありませんか。」
 ここに改めて、碑の建立地だけではなく、俳句館の建物までご提供をご提供頂いた窪島様の深い美意識と良心と優しさに、心から感謝の気持ちを表します。

 碑は、長野市の檜山石材が、礎石となるそれぞれ1トンもある天然石3個、それに漆黒の高級御影石を用意してくれて、碑には金子先生の文字を丁寧に彫ってくれました。
 土台の三つの岩がぴたりと組み合わさった瞬間、同席された窪島様は私にこう申しました。「日本と朝鮮半島と中国が仲良く並ぶ上に、碑が建っているように見えるね」。私には、ご協力頂いた600人近くの方々が仲良く支え合い、そこに漆黒の一石がすくっと建ち上がって、金子先生の最初の師匠を含む、弾圧された俳人達があの世から、表現の自由と命の貴さを、清らな俳句で叫び続けているように見えました。

 弾圧された皆さん、私達はあなた方の犠牲と苦難を絶対に忘れません。私達の思想・言論・表現、そして報道の自由が再び、危なくなってきている今、あの世から、私達の自由と平和を見守ってください! あの世から、逝ったばかりの金子先生と共に、私達の自由と平和を見守ってください!

 読者の皆さまも、ぜひぜひ戦没画学生の「無言館」と、『俳句弾圧不忘の碑』「檻の俳句館」にお越しください。

 (昭和俳句弾圧事件記念碑の会代表)

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