高齢者だって喧嘩もすれば恋もする(その3)   除 正 寓
    ~闘う介護・オンドルパンのハルモニと私の奮戦記~

~それぞれの人生にそれぞれの介護がある・ハルモニたちの生きてきた道~

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□1.生き様から介護の方向性をさぐる


  オンドルパンでは、デイサービスを希望するハルモニの介護計画を作成する際
、最初に行う作業があります。それはハルモニの生きてきた道、歴史を聞くこと
です。理由は、介護の方針を立てるための介護計画を作成するために絶対必要だ
からです。とはいえ、この作業が介護保険制度によって義務付けされているわけ
ではありません。他の施設ではこのような作業を行っているところは希少だと思
います。
 
  それでは介護計画の作成に当たってなぜ個人の歴史を把握することが必要なの
か。そこにはいくつかの理由があります。まず、スタッフがハルモニと会話する
際、歴史を知っていると会話が弾み、ハルモニのスタッフに対する信頼関係が構
築されやすいからです。いかなる介護でも、スタッフとハルモニとの信頼関係が
なければ効果を挙げることはできません。次にハルモニの生活能力を知ることで
す。たとえば、学校に通った経験があるか否か。在日コリアン1世の大半は未就
学で、日本語はもとより朝鮮語の読み書きさえできない人が多いのです。70歳
代後半の2世の場合は、学校に通った経験がある人もいますが、よく聞いてみる
と実際に通ったのはほんのわずかの期間というケースが少なくありません。

 特に2世のハルモニは読み書きができないことを負い目に感じている人が多く
、はっきり言わないことがあります。しかし、読み書き能力の有無を把握するこ
とは、介護を行う上で非常に重要なポイントとなります。たとえば薬を服用する
際、読み書きができなければ、処方箋どおりに服用することができません。その
場合、スタッフが薬を朝、昼、晩あるいは食前、食後に正しく服用できるよう、
それぞれのケースに入れ、わかりやすいマークを書いて渡します。それでもうま
くできないことがあるので、定期的に残りの薬をチェックします。

 どうしても自分で正しく服用できないときは、オンドルパンで朝、昼を巣多雨
卯が服用させ、夜は訪問して服用させることもあります。これは日本人高齢者に
もよく見られるケースですが、医者の処方箋を無視して、自分で薬を適当に併せ
呑んだり、もったいないとの気持ちから、薬を飲まずに大事に残す人もいます。
このような高齢者の押入れを見ると過去10年間にためた薬でいっぱいになって
いたという話も珍しくないのです。
 
  ハルモニの歴史を知ることのもっとも大切な意義、それはスタッフがハルモニ
の生きてきた道を知ることによって、ハルモニに対する愛情をもつことです。生
まれてこのかた、苦労ばかりで、楽しかった思い出がないというような話を聞く
と、スタッフは俄然やる気を出し、「これからはオンドルパンで楽しい時間を過
ごしてもらおう」とがんばるのです。スタッフのやる気を引き出すという効果も
あるのです。今回は私たちが聞き取ってきたハルモニたちの歴史の一端をご紹介
します。本当は実名で紹介したいのですが、介護施設の場合個人情報の扱いにつ
いて行政からの指導が厳しく、ときとして本当にそこまで必要なのかと疑いたく
なるような点まで規制されます。ですから残念ながら、ここでは実名をだすこと
ができないことをあらかじめお断りしておきます。


□2.ハルモニたちの生きてきた道



●ケース(1)Aさんの場合:1928年生まれ 女性 在日1世 要介護5


  「日本に来たのは5歳です。私がこういう身体(註 右半身不随)になったの
は、まだ韓国にいる2歳のときでした。親がいうには、いつもどおり晩御飯を食
べさせて寝かせたのに、朝起こしてみたら、手遅れで、こういう身体になってい
たそうです。だから半身の自由がきかないし、耳も聞こえにくい。小学校へは少
し遅れて入学しました。身体がこんなふうなので、たくさん休んだり、体操もで
きませんでした。」「18歳で嫁入りしました。

 両親は私を嫁入りさせて安心したのか、私を残して韓国へ帰って行きました。
それ以降行方は分かりません。主人は16歳年上で、身体が不自由で膝から下の
足がなく、義足でした。病気になってそれを治すために日本に来たのですが、結
局治らず、主人も苦労したそうです。私も不自由な身体で、一生懸命炊事などを
しました。」「線路の土手を上がっていくと、畑がたくさんあって、そこいらに
落ちている葉っぱを拾ってきてゆがいて食べたりしました。ジャガイモを掘った
後に残った小さいイモを拾いにいった時、間が悪く畑の主人に見つかり、足が悪
いので逃げられず、鍬で殴られました。

 気を失ってしまって結局そのとき殴られたあとが、傷として残ってしまいまし
た。」「それから豚を2~3匹飼ったりしました。そのうち主人がどんな気を起
こしたのかわからないけれど、朝起きたら主人がいないのです。豚小屋にいるだ
ろうと食事の準備をして行って見ると、もう首を吊って死んでいたのです。」

「それから私は、主人をなくしたショックで、てんかんのような病気になっ
て、一日に何回倒れるかわからないような状態でした。近所の方が見ていられ
ないと病院を紹介してくださいました。」「少し良くなって退院してきて、近
所の方に勧められて再婚しました。その人は、徴用で30数年樺太に行ってい
たけれど、なんとか祖国に帰りたくて、まず日本に渡ったら帰れるだろうと、
日本人と偽装結婚をして、日本にやってきたそうです。」「主人が病気になっ
てしまいました。向こう(註 韓国)で死にたいと言って、帰って6ヶ月後に
亡くなりました。」 Aさんは現在も一人暮らし。オンドルパンに毎日通って
います。オンドルパンとキリスト教会での礼拝が暮らしと心の支えになってい
ます。


●ケース(2)Bさんの場合:1936年生まれ 在日1世 女性 要介護2


   「私は韓国慶尚南道で生まれました。6人兄弟の末っ子で、親について百姓
の手伝いをしていました。学校は行きませんでした。17歳のとき、10歳年上
の人で、日本に働きに行っていた隣村の人と結婚しました。式がすむとすぐ日本
に連れて来られたのが、慰今の竹渕公園のそばです。主人と主人の両親、弟たち
二人、妹二人の9人の大家族が暮らしていて、朝早くから起きて、大家族の食事
を作りました。そのときはお金もないし、買うものもないしで、ごはんを炊かれ
ない時が何回かありました。私は日本に来て間がないので、言葉もわからないし
、知り合いもいないので、ご飯を炊くのに米が一粒もない時、どうしていいかわ
からず、泣いたこともあります。自分の力があまりにもないので、悲しくてよく
泣きました。

 今でもある城東貨物線の線路まで来て、これに乗ったら韓国へ帰れると思って
泣いていました。」「22歳で最初の子を産んだけど、すぐ亡くなりました。そ
の時、乳がはって乳腺炎になって寒気はするし、痛くて痛くてどうしようもない
けど、休むことができなくてつらかったです。」「食べていくために、いろんな
仕事をしたけど、楽だったことは一度もないです。闇焼酎もつくっていたことが
あります。あとは蒸留だけしたらお金になるっていう前に決まって、夜明け前に
灰色の服を着た怖い人たちが、大勢来て、焼酎のまま全部没収されるのです。

怖い人というのは、税務署の人ですが、これを持っていかれると、証拠品にな
り、罰金の目安になるので、必死で川に捨てました。」「私が49歳のとき、
主人が亡くなりました。子ども6人男ばかりで、上の一人だけが結婚してい
て、あとの5人どうしようと思ったら、涙も出ませんでした。必死の思いで働
きました。」
 
  このハルモニもオンドルパンに来てすでに10年になります。長年一人暮らし
をしていましたが、昨年、認知症と肝硬変の症状があらわれたのを契機に、市外
の息子さんが心配して息子さんの自宅で暮らすようになりましが、近所に知り合
いもなく、かえって認知症が進行する傾向にあったため、再び元の家にもどり現
在オンドルパンに元気で通っています。


□3.ハルモニから学ぶ


  もっとたくさん紹介したいのですが、紙面の都合で今回は上記のお二人にとど
めました。改めて、ハルモニたちの聞き取りを読むと、不思議と「よし、がんば
ろう」という気になります。ハルモニたちの生き様に触れるたびに、自分たちの
介護の意義を考えさせられます。日本と朝鮮の歴史に翻弄され、挙句の果てに年
金さえない老後を迎えざるを得ないこのハルモニたちに対する介護とはいかにあ
るべきか。ハルモニたちにくらべればずいぶん若い私たちが逆にハルモニたちか
ら学ぶことを通じて、受ける恩恵のほうがよほど大きいような気がするのです。

(筆者は通所介護、訪問介護事業所「八尾オンドルパン」代表)

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