【コラム】
大原雄の『流儀』

高麗屋の襲名(1)

大原 雄


 2017年師走から18年正月にかけて、メディアでは、新聞もテレビも、特に、テレビは芸能も報道も、あちこちで歌舞伎の高麗屋の三代同時襲名披露の話題を伝えていたので、歌舞伎に関心のない人たちの目にも止まったかもしれない。史上2回目。37年ぶりの三代同時襲名披露である。父・松本幸四郎、息子・市川染五郎、孫・松本金太郎の三世代が、「出世魚」のように、新しい名跡に名を変えてゆく。幸四郎は、二代目松本白鸚に、染五郎は、十代目松本幸四郎に、金太郎は八代目市川染五郎に、18年1月の舞台から、それぞれ名前を変えた。

 檜舞台での正式な襲名披露は、今月(18年1月)から来月(2月)にかけて、歌舞伎座を2ヶ月独占して開始される。それほど、高麗屋は、現在の歌舞伎界の屋台骨を背負っている大名跡の一つということだろう、と思う。以後、高麗屋の襲名披露興行は、1年をかけて全国の主要な劇場―京都の南座、大阪松竹座、名古屋の御園座、福岡の博多座で巡演される予定だろう。そして、通常、さらに翌年(19年)から翌々年(20年)は、全国を3つのコースに分けている「巡業コース」でも順次、襲名披露をする。つまり、18年から20年まで3年がかりで襲名披露興行、いわゆる「御当地初御目見得」という舞台が続くことになる、と思われる。

 そこで、このコラムでは、1月、2月の歌舞伎座の舞台を観ての劇評も含めて3回シリーズで、「高麗屋の襲名」と題して、書いてみたい。歌舞伎初心の人が、当然疑問に思いがちなことも併せて書き、歌舞伎入門的な意味を持たせると、歌舞伎に関心のない人たちにも読んでいただけるのではないか、と思う。

★なぜ、松本幸四郎一門は「高麗屋」という屋号を使うのか

 歌舞伎の屋号とは、歌舞伎役者が江戸時代、徳川幕府のご禁制で苗字を名乗ることを許されなかった頃、商人の慣習に習って、苗字の代わりに用いたのが「屋号」で、その屋号が、役者の家系で代々受け継がれ、現代にまで残っている、ということである。
 主なものでは、順不同、思いつくままだが、松本幸四郎一門の「高麗屋」のほかに、尾上菊五郎一門の「音羽屋」、江戸歌舞伎の宗家・市川團十郎一門、今は海老蔵らの「成田屋」、中村吉右衛門一門の「播磨屋」、市川左團次の「高島屋」、亡くなってしまったが中村勘三郎、今は勘九郎、七之助兄弟らの「中村屋」、かつては、六代目中村歌右衛門が君臨していたが、今は中村芝翫らの「成駒屋」、中村東蔵、中村魁春の「加賀屋」、中村梅玉の「高砂屋」、現在、真女形の頂点として坂東玉三郎が君臨する「大和屋」、亡くなってしまったが坂東三津五郎らの「大和屋」、中村時蔵一門の「萬屋」、市川猿之助らの「澤瀉屋」の一門など、上方歌舞伎では、坂田藤十郎の「山城屋」、藤十郎の長男・中村鴈治郎、次男の中村扇雀らの「成駒家(や)」の一門、片岡仁左衛門一門の「松嶋屋」、中村雀右衛門の「京屋」などがある。
 このほか、脇役で滑稽味を滲ませた存在感のある演技をする片岡松之助の「緑屋」、上方歌舞伎の脇役の女形・上村吉彌の「美吉屋」など、屋号もいろいろあり、その数は、ざっと見ても100を超えている。紹介しきれない屋号が多数あるのである。

 さて、本題に戻ろう。なぜ、松本幸四郎一門は「高麗屋」という歌舞伎の屋号を使うのか。

 現在「高麗屋」の看板の下に集う主な役者は、松本白鸚、松本幸四郎、市川染五郎(という家族)。市川高麗蔵、松本錦吾の5人である。高麗屋の由来は、初代松本幸四郎に立ち戻る。初代幸四郎は、1674(延宝2)年-1730(享保15)年。下総の小見川(現在の千葉県香取市)出身。江戸歌舞伎の宗家・市川團十郎の一門、と言われる。弟子筋という。松本小四郎から幸四郎を名乗った。
 その初代幸四郎は、役者になる前、江戸の神田にあった「高麗屋」という商店で丁稚として働いていたので、役者になる際、屋号を「高麗屋」にしたという説がある。「高麗屋」という商店の主は、 豊臣秀吉が朝鮮侵略(日本史では、いわゆる「朝鮮出兵」、「文禄・慶長の役」など。日朝関係を反映して、歴史的な用語は難しい)した時に、家臣の加藤清正が朝鮮から連行してきた人の子孫だ、という説もある。初代以来、松本幸四郎家は、代々、屋号として「高麗屋」を用いてきた。

★なぜ、「松本」幸四郎は、前名を「市川」染五郎というのか

 これは、高麗屋の系譜を辿るのが、判りやすいかもしれない。
 「市川」染五郎と「松本」幸四郎が混在する謎を解くには、染五郎代々、幸四郎代々をそれぞれ解きほぐすことが必要だろう。

 1)市川染五郎の系譜

*初代「市川」染五郎→二代目市川高麗蔵→四代目「松本」幸四郎。

 二代目、三代目の市川染五郎は、その後、大きな名跡は継がなかった。

*四代目:九代目市川團十郎の門弟(四日市出身)。
 (初代)「市川」金太郎→四代目市川染五郎→八代目市川高麗蔵→七代目松本幸四郎。
 四代目市川染五郎から高麗蔵を経て松本幸四郎へという襲名の流れができたか。初代市川染五郎の襲名歴が雛型になっているか。

*五代目:四代目市川染五郎の次男。
 五代目市川染五郎→八代目松本幸四郎→初代松本白鸚。
 1981年。初めての三代同時襲名。五代目市川染五郎以降は、高麗蔵名義が、松本幸四郎襲名の流れから外れる?

*六代目:五代目市川染五郎の長男。
 二代目「松本」金太郎→六代目市川染五郎→九代目松本幸四郎→二代目松本白鸚(2018年1月襲名)。
 37年ぶりに2度目の三代同時襲名。

*七代目:六代目市川染五郎の長男。
 三代目松本金太郎→七代目市川染五郎→十代目松本幸四郎(18年1月襲名)

*八代目(当代):七代目市川染五郎の長男。
 四代目松本金太郎→八代目市川染五郎(18年1月襲名)。

 2)松本幸四郎の系譜。1731(享保15)没の年初代からざっと300年が経つ。

*初代松本幸四郎。久松多四郎門弟で、市川團十郎の門人。弟子筋という。松本小四郎から幸四郎へ。

*二代目松本幸四郎→四代目市川團十郎→二代目松本幸四郎→三代目市川海老蔵。
 初代松本幸四郎の養子であるが、二代目市川團十郎の実子ともいう。市川團十郎の弟子の松本幸四郎だが、二代目松本幸四郎は、二代目市川團十郎の実子ということなら、市川團十郎宗家一門の役者の中で、存在感を増したことだろう。この人は、幸四郎から四代目市川團十郎になり、再び、幸四郎を名乗っている。この人の経歴を見ると、幸四郎という名跡と團十郎という名跡が、ほぼ同格だった証かもしれない。

*三代目松本幸四郎→五代目市川團十郎→市川蝦蔵。
 二代目の実子。この当時は、松本幸四郎から市川團十郎襲名への流れもあった。江戸三座の「控え櫓」制度という当時の発想からすれば、松本幸四郎は、市川團十郎の控え櫓的な大事な大名跡になってきたということだろう。

*四代目松本幸四郎。初代市川染五郎。二代目市川高麗蔵を経て、松本幸四郎襲名。
 二代目松本幸四郎、後の四代目市川團十郎の門弟。門閥外から出世しただけあって、研究熱心だが、性格もきつかった、という。三代目松本幸四郎、後の五代目市川團十郎ほか当時の幹部役者と仲違いした、という。この人から市川から松本幸四郎へという流れに独自性を強めたように思われる。ただし、推測だが、市川宗家の名字を大事にして、市川染五郎を通過して、松本幸四郎襲名へと名乗る「プロセス」、あるいはプライドを大事にしたのではないか。

*五代目松本幸四郎。四代目松本幸四郎の実子。三代目市川高麗蔵から襲名。
 人気役者で、「鼻高幸四郎」の愛称があった。

*六代目松本幸四郎。五代目松本幸四郎の実子。五代目市川高麗蔵から襲名。

*七代目松本幸四郎。明治期に「劇聖」と呼ばれた名人・九代目市川團十郎の門弟(四日市出身)。市川金太郎、四代目市川染五郎、八代目市川高麗蔵から襲名。
 男の子に恵まれ、十一代目市川團十郎(長男)、八代目松本幸四郎(次男)、二代目尾上松緑(三男)の実父。十一代目市川團十郎の系譜は、十二代目團十郎、十一代目海老蔵(当代)と続いている。二代目尾上松緑は、六代目尾上菊五郎の門弟となる。二代目尾上松緑の系譜は、初代尾上辰之助(没後、三代目松緑追増)、四代目松緑(当代)、三代目尾上左近と続いている。

*八代目松本幸四郎。七代目松本幸四郎の次男。五代目市川染五郎から直接襲名。
 高麗蔵襲名を経ていない。初代松本白鸚。37年前、高麗屋三代同時襲名をした。歌舞伎史上初めて、という。初代松本白鸚の長男が、今回、二代目白鸚(当代)になったが、次男は、二代目中村吉右衛門(初代吉右衛門の養子。播磨屋)である。

*九代目松本幸四郎。八代目松本幸四郎の長男。二代目松本金太郎、六代目市川染五郎から襲名。
 18年1月の歌舞伎座公演以降、二代目松本白鸚(当代)。十二代目市川團十郎が病没し、十三代目市川團十郎という名跡が空席となっている中で、歌舞伎界での松本幸四郎という名跡の存在感は大きくなったのではないか。市川團十郎宗家との代々の所縁からすれば、この時期、團十郎役者の不在を埋められるのは、九代目松本幸四郎が名跡の系譜的にも実力的にも相応わしかったように思える。

*十代目松本幸四郎(当代)。九代目松本幸四郎の長男。三代目松本金太郎、七代目市川染五郎から襲名。
 松本幸四郎という名跡が若返ったことで、幸四郎という名跡も40歳代半ばの、歌舞伎界の次代を背負う中堅役者グループの中に戻った感じがする。幸四郎という役者が、改めて、同世代の中堅役者の一人として新たな魅力を身につけて、大きな器となって頭角を現してくることを大いに期待したい。

★松本幸四郎は、いつの時代でも一人 ~高麗屋の祝賀会

 17年11月26日(日)の夜、私は、帝国ホテル(東京)の孔雀の間にいた。このホールで「二代目松本白鸚 十代目松本幸四郎 八代目市川染五郎 高麗屋三代襲名披露祝賀会」が開かれていて、招待客は、約1,300人だった、という。私も末席ながら、招待されていて、この賑わいの中にいた。

 歌舞伎役者の大名跡の襲名披露興行は、営業戦略に乗って、随時実施されている。親子同時襲名披露興行という、親子二代の襲名は、そんなに珍しくはない。

 例えば、成駒屋一門の八代目中村芝翫。16年10月、歌舞伎座で七代目芝翫の次男、中村橋之助が父親の名跡「芝翫」を襲名披露するにあたって、橋之助の3人の息子たちが、四代目橋之助(長男)、三代目福之助(次男)、四代目歌之助(三男)を同時に4人も襲名し、華やかに披露した。

 同じような親子襲名でも、こういう悲劇的な状況もある。その八代目中村芝翫の兄が九代目中村福助。福助は、13年9月、七代目歌右衛門を襲名すること、合わせて長男の六代目児太郎を十代目福助とすることが内定し、14年3月、4月の歌舞伎座で襲名披露興行を開始する予定などと記者会見で発表した後、13年11月、病気で倒れてしまった。以降、舞台は休演中で、もちろん襲名披露興行もできずにいる。
 九代目福助の七代目歌右衛門襲名に伴って、舞台に立ち続けている福助の長男・児太郎が十代目福助を襲名披露すること、つまり親子二代同時襲名興行も松竹のスケジュールに一旦は載ったのだが、こちらの襲名披露興行もできずにいる。このため七代目歌右衛門という歌舞伎史上の大名跡は宙に浮いたまま、空位になっている。このように襲名披露も、幕が上がり、本舞台で下駄(歌舞伎役者だから草履か)を履くまで確定しない、ということなのだろう。

 高麗屋のように祖父、親子の三代は、さすがに珍しい。歌舞伎史上でも初めてと言われた。37年前のことだったが、今回は、これの2回目ということで、余計珍しくなった。実は、それも、同じ名跡でというのだから驚く。観客たちが、大きな関心を抱くのも判る。

 最初の三代同時襲名披露は、1981(昭和56)年10月と11月歌舞伎座で、やはり2ヶ月連続興行であった。この時は、初代松本白鸚、九代目松本幸四郎、七代目市川染五郎の親子孫三代同時襲名であった。以来、九代目松本幸四郎と七代目市川染五郎は、37年間、この名跡の下、歌舞伎役者として精進してきた。つまり、同じ家族が37年後に同じような三代同時襲名のチャンスに恵まれているということだ。なんとも強運で幸せな家族だろうか。
 例えば、ここ数年の出来事を思い出しても、12年8月国立劇場の染五郎「奈落転落事故」(染五郎は大怪我をしている。この時、幸四郎は染五郎の死を覚悟したと伝えられる)、13年10月国立劇場の幸四郎「花道落馬事件」(幸四郎は怪我を免れた)があった。37年を健康で通すと言うことだけでも大変なことだろう。健康管理と藝の精進は、並大抵の努力、配慮ではできないだろう。高麗屋のお内儀らの陰の努力は、いかばかりか。

 さらに、歌舞伎座は、来年、2019年11月が開場130周年となる。江戸時代の三座(中村座、市村座、森田座)がなくなり、明治になって22(1889)年11月21日、演劇のジャンル名である普通名詞の「歌舞伎」を冠する唯一の劇場として、東京の歌舞伎座は開場した。歌舞伎座の座紋として今も使われている「鳳凰丸」という紋は、この時から用いられるようになった。今年、2018年11月は、その歌舞伎座の開場「130年目」の1年が始まる、というわけだ。松竹あげての一大イベントに二代目松本白鸚、十代目松本幸四郎、八代目市川染五郎の襲名披露興行が組み込まれているということだ。強運な家族のパワーに松竹もあやかろうということだろう。

 この祝賀会の席上、松本幸四郎、市川染五郎、松本金太郎が、それぞれ18年1月の歌舞伎座から始まる高麗屋三代襲名披露興行に臨む心境を語っていたので、コンパクトに紹介したい。

 二代目松本白鸚となる九代目幸四郎は、十代目幸四郎となる染五郎に対して、「染五郎という器から芸があふれ、親としてはそれほどの役者になったかという喜びと、もったいないという気持ちがあり、器を幸四郎に変えれば、新たに芸が詰め込まれるのではないか」と、染五郎という役者から幸四郎という大名跡の役者に脱皮するようにと息子を激励していた。

 父親の励ましに対して息子はどう答えたか。祝賀会の最後にお礼の挨拶に立った染五郎は、「きょう初めて、幸四郎だけの紋である「浮線蝶(ふせんちょう)の紋をつけた黒紋付を着させていただきました」と語り出した。「きょうをスタートといたしまして、浮線蝶の紋をつけた十代目松本幸四郎、いえ『十代目』とは、もうつけません、松本幸四郎はこの世に一人です。松本幸四郎として立派にこの紋付を着られるように、役者として勝負してまいりたいと思っております」と高らかに宣言し、場内立錐の余地もないような大勢の招待客たちから盛んな拍手を受けていた。
 歌舞伎史上、代々の松本幸四郎は10人だが、観客と同時代に存在する松本幸四郎は、確かに、いつも一人きりである。観客の一人として、私は、九代目松本幸四郎に馴染んできたが、今後は、十代目松本幸四郎を新たな「一人きり」として、その精進ぶりを時に厳しく、時に暖かく見続けて行きたいと思ったので、「松本幸四郎はこの世に一人」という言葉は、印象に残った。

★山車のように歩く。~高麗屋の「お練り」

 17年11月26日の祝賀会から、15日後の12月11日(月)。東京・浅草の浅草寺(せんそうじ)で、九代目松本幸四郎、改め二代目松本白鸚、七代目市川染五郎、改め十代目松本幸四郎、四代目松本金太郎、改め八代目市川染五郎が、「お練り」と「襲名奉告法要」とを行った。以下「お練り」からみは、歌舞伎公式総合サイト「歌舞伎美人(かぶきびと)」の記事を参考にした。

 ニュースによれば、高麗屋三代同時襲名の告知、歌舞伎座開場130周年、18年1月、2月の歌舞伎座興行の宣伝などの文句が書かれた横断幕とともに高麗屋一門や松竹の関係者が、雷門から本堂まで浅草寺の参道を含む、宝蔵門まで続く境内の商店街・仲見世を練り歩いた、という。

 賑やかなお囃子、鳶の頭たちの「木遣り」に続き、襲名披露をする役者たちを含め、高麗屋一門がゆっくりと仲見世を練り歩く。36年前、1981(昭和56)年9月12日にも同じ道を歩いた九代目幸四郎、七代目染五郎の二人に加えて、今回は12歳の四代目金太郎(18年1月からは、八代目染五郎となる)もともに歩く。浅草寺本堂前に到着した一行は、まず、記念撮影をした。

 「お練り」とは、歌舞伎などの伝統芸能において、役者などが一定の距離を関係者らと行列して歩く(あるいは船で航行する)ことをいうが、本来は、祭礼の神輿や山車が神事の奉納や観客への披露のために参道や市中を練り歩く(あるいは、練り回す)ことである。歌舞伎の場合、お練りの目的は役者の名跡襲名披露興行の前宣伝である。

 「襲名奉告法要」とは、歌舞伎役者や関係者が寺社に「襲名」の成功祈願をすること。浅草寺本堂で襲名奉告法要にて成功祈願を済ませた当代の染五郎は、次のように挨拶したという。

 「来年(18年)1月から、十代目として松本幸四郎を襲名させていただくことと相成りました。父が二代目松本白鸚、倅が八代目として市川染五郎、三代の襲名披露興行をさせていただくこと、本当にありがたく存じます。ちょうど36年前、父、祖父、私と、三代で襲名披露興行をさせていただくにあたりまして、この浅草寺さん、仲見世さんにおいてお練りをさせていただきました。36年ぶりに再び三代としてお練りができましたこと、本当に幸せに思っております」。

★山が動く。高麗屋の襲名披露興行、さて、演目は?

 歌舞伎座での高麗屋三代同時襲名披露興行は、18年1月は、「壽 初春大歌舞伎」、2月は、通常通り「二月大歌舞伎」という看板を掲げている。

 このうち、1月の演目は、昼の部:「箱根霊験誓仇討」「七福神」「菅原伝授手習鑑 ~車引、寺子屋」。染五郎は、「菅原伝授手習鑑」の「車引」の松王丸で、染五郎、改め幸四郎を名乗る。幸四郎は、「菅原伝授手習鑑」の「寺子屋」の松王丸で、幸四郎改め、白鸚を名乗る。

 夜の部:「双蝶々曲輪日記」(角力場)「口上」「勧進帳」「相生獅子・三人形」。スペシャルコーナーの「口上」で、幸四郎、染五郎、金太郎が揃って挨拶をするほか、歌舞伎界の幹部役者が、ずらっと並ぶ。その数は、22人。歌舞伎座の、あの大舞台が狭く見えるほどだ。坂田藤十郎の仕切りで、25分間に及ぶ。さらに、その後の演目の「勧進帳」で、染五郎は、武蔵坊弁慶を演じ、染五郎、改め幸四郎を名乗る。金太郎は、源義経を演じ、金太郎、改め染五郎を名乗る。義経一行に対峙する富樫は、叔父の中村吉右衛門が勤める。

 「口上」は、紋切り型の祝言を述べる人もいないわけではないが、即興的に、楽屋話的なプライベートな話題も滲ませて、笑いを誘おうとする人もいて、おもしろい。「口上」を含めて、歌舞伎座1月の詳しい劇評は、次号で掲載したいが、印象に残ったことを一つだけ書き止めておきたい。
 正月気分が抜けぬ歌舞伎座では、客席もロビーも売店も、すごい賑わいで、午後9時の終演後、最寄駅となる地下鉄・東銀座駅のホームは、ラッシュ時のような混雑に見えた。歌舞伎座の観客の山が、駅のホームに、いっとき動いてきたような感じだ。三代同時襲名披露という、現代ではあまり見られない大家族の形(幸四郎一家は、白鸚一家からは、当然ながら独立した生活をしている)、さらに「家族の絆」のような、稀有なものに共感する観客が多かったのだろうか。どうであろうか。

 せっかくなので、2月の演目も、外題だけでも紹介しておこう。以下の通り。

 昼の部:「春駒祝高麗」「一條大蔵譚」「暫」「井伊大老」
 夜の部:「熊谷陣屋」「木挽芝居賑」「仮名手本忠臣蔵 ~祇園一力茶屋」

 1月の興行と違って、2月の演目からは「口上」が姿を消しているように見えるが、代わりに「木挽芝居賑(かぶきざしばいのにぎわい)」という芝居仕立ての趣向で、「劇中口上」として、ここで、三人は、実質的な口上の挨拶を述べ、ほかの幹部役者たちは高麗屋の襲名への祝言を述べることになる。

 (ジャーナリスト(元NHK社会部記者)、日本ペンクラブ理事、オルタ編集委)員

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